こんちゃっす。
キスオカントクです。
こないだ素っ裸で三角木馬に跨りつつTVを見てたら、
映画・「13日の金曜日」の悪役が幅広めにスライスされたみたいな
外国人のお笑い芸人が、
「外国人が使う漢字の憶え方の本」の紹介をしていました。
この本の考え方では、「日」(太陽)と「月」が
同時に出てたら「明るい」というストーリーをイメージすることで、
その漢字は「明」と憶えられると!!
おお、これは情報端末にお世話になり過ぎですっかり漢字の書き方を
忘れた一般的な日本人のカントク(14歳と432か月)には
ちょうどイイ勉強法だYO!!と思われたのですが…
なんか…なんかな…と、トッピンシャン…じゃなくて、べっぴんさん
(こないだまでのNHK朝ドラ)の
主人公のような「なんか違う感」信号をカントクの黄金色の
脳が発しているのを察知いたしましたので、
私の将来に対するボンヤリとした不安など
とりまぜつつ少々考えてみました。
そもそも、なんでこのやり方を日本人が考えつかなかったのでしょうか?
アホなのか?アホだからか?まさかそんな憶え方があるとは考えもしなかった
からか?
いや…そもそもそんな勉強法は必要なかったからでは?
んじゃあ、なんで必要無かったのだろうか?
…。
他の人はどうかわからないですが、カントクは昔から漢字は
(ひらがな・カタカナも?)
「画像」
として見てたような気がするんです。
「獄」を見るといかにもヤバ目な形であり、そして地獄の「ごく」なのだと
思ったような。
「死」を見るとやはりマガマガしく、イヤンな気持ちになったような。
そして「美」とか「清」とか「聖」はそれぞれの意味にあったイイ感じの
形状をしているような。
あまり歌は聞いたことないんですが、歌手の古内東子さんの「古内東子」の
お名前の見た目がいいなあ、と感じたことがありますし、
昭和のヤンキーの人達の「仏血義理」(ぶっちぎり)「夜露死苦」(よろしく)や
平成のヤンキーの人達の「喪死銅鑼」(もしどら)「尼解破慈」(にげはじ)や
「堕女夜陀女陀女」(だめよだめだめ)等は、
見た目で利用してるなあ、と思うのです。
(平成のヤンキーの件はウソ☆)
あと、「字面」という言葉は一般的に使いますよね…
なんてことを考えていると、やはり日本人には
漢字をストーリーを使って憶える必要が無かったのだろうと思うに至りました!!
とは言え、冒頭の「外国人が使う漢字の憶え方の本」を否定するつもりは
ありませんし、カントクの感覚の方が正しいと言ってるワケではなく、
漢字を憶えるのに「理屈(ストーリー)」から入るか、
「印象」で入るかという違いであり、漢字を母国語として使わない外国人は
「理屈」から、カントクは(他の日本人も?)「印象」から憶えていくので、
それぞれ好きなやり方でやれればいいなあ、と思ったのでした☆