tons of knots

からだや頭の凝りをもみほぐして、人との絆や結び目がたくさん出来るといいね。
Innovation To Survive

ロシアのウクライナ侵攻は、ウクライナ祖国防衛戦争である。ロシアの歴史を顧みれば、プーチン・ロシアはこの戦争に勝てない・・・(であろう)・・・・

2022-04-06 18:44:37 | 払暁半刻
今回のプーチン・ロシアによるウクライナ侵攻は、侵攻後ウクライナが頑強な抵抗を継続していること、さらに一部では反攻に出ていることを見ると、すでにロシアによる単なる「侵攻」という呼び方は適切ではないように思う。旧ソ連がナチス・ドイツに対する戦争を「祖国防衛戦争」と呼んでいるように、今回の戦争はすでに「ウクライナによる祖国防衛戦争」と見るのが適切であると思う。
 2月24日のプーチン・ロシアによる侵攻以降のウクライナの人々の犠牲と苦難は、テレビ報道の画像を見ているだけでも涙が出てきそうになるが、それでもウクライナの皆さんの直面する苦痛をどれほど感じることができるか、甚だ心もとない限りだ。さらにウクライナの人々がその祖国と肉親を思うその気高い郷土愛と同じものを、我々日本人が今後持てるだろうかと考えた時、中々確信が持てない。それほど、この21世紀の20年代において稀有のものだと思う。

 ロシアは、旧ソ連時代、さらにその前の帝政ロシア時代でも、筆者の知る限り、その領土の外で戦った戦争で勝ったためしがない。第二次大戦で旧ソ連は連合国の一員として戦勝国となったが、ソ連軍がドイツ第三帝国に勝利したのは、有名なレニングラード攻防戦を含めそのほとんどがソ連国内での戦いであった。フランス革命後ナポレオン軍がモスクワを攻めた時も、ロシア帝国はこれを撃退したが、このときも冬将軍に負うところが大きいとはよく言われることだ。日露戦争では日本海海戦で惨敗を喫したが、これもロシア帝国の領土の外であった。旧ソ連はアフガンにも侵攻したがここでも戦闘は長引き泥沼化し結局は撤退した。一方で、ロシア国内に他国が攻め込んできたときは「祖国防衛戦争」として膨大な犠牲を払いつつも、ロシアの人々は強靭な忍耐力をもって勝ち、他国の侵略を跳ね返してきた。ロシアは、強力強大な軍事力を維持しているが、歴史を見ると、守るに強く、攻めるに弱い国のようである。(いくつか要因を考えることができるが、それはまた別の機会に。)
 今回のウクライナ「戦争」では、プーチンは「ロシア帝国」内での軍事作成と考えているふしがあるが、ソ連崩壊後は国際法上明らかにウクライナは独立国となったのであり、さらにウクライナ人の自己認識でもウクライナは明らかにロシアの一部でないようだ。(このウクライナ人の意識は、8年前のロシアによるクリミア併合後より強固に自覚されてきたようだ。)つまり、プーチンの自己認識はどうであれ、プーチン・ロシアは「他国」に攻め入ったのである。
 さらに誠に皮肉なことに、今回のプーチンの戦争はロシアの安全保障を求めて侵攻したものの、ウクライナというロシアの領土外に攻め込んだもので、上に概観した歴史が繰り返すとするなら、結局ロシアは自国領土外でのこの戦争に勝てない可能性が高い。
 衝撃的な2月24日の軍事侵攻後の戦況を現在(4月6日)まで見てきて、やっとこのように、ある確信をもって「ロシアは負ける、あるいは勝てない」と思えるようになった。ウクライナの人々の苦痛を苦悩はこれからもしばらく続くであろうし、それはそれでとても言葉で連帯を叫んだだけでは足りるものではないが、そろそろ、ウクライナの人々のためのことも含めて、「戦後」の姿を考え、さらに「戦域外」に住む庶民の一人として、その「戦後」に何が出来るか、また、何をしてはいけないか、を考えてみるべき時期に至ったように思う。    (2020年4月6日記)


東京大空襲の命日に、ウクライナの人々を思For struggling Ukurainian People, what now we can do.

2022-03-11 22:38:59 | 払暁半刻
以下は、昨日3月10日東京大空襲の77年目を期して、私の友人にあてたメールです。

「 今日は、東京大空襲の犠牲者の77回目の命日です。
また、ロシアがウクライナに軍事攻撃を開始して2週間が過ぎました。これまでの経緯を新聞報道などで見聞きしていると、いくつかはっきりしてきた点があるようです。
1. 今回の軍事侵攻はロシア国民を情報統制に置いたままで行われている、ロシア(という国)による戦争というよりも、「プーチンの戦争」であること。この点は、同じ情報統制が効いていた戦前の日本やドイツ第三帝国の国民感情とはいささか異なるように思います。開戦の正否は別として、当時の日本やドイツの国民には戦争致し方なし、あるいは開戦を歓迎するムードが(少なくとも開戦から1年以上の期間)ありましたが、今回の侵攻でロシア国民はプーチン統制下のニュースを一方的に与えられているだけです。

2. プーチンはウクライナへのの要求を、戦況が長引くにつれ、軍事攻撃の開始当初よりもむしろ、より妥協困難なものにしています。自らハードルを上げているといっていいでしょう。
 当初予想していた制空権奪取ができればウクライナは”降参”するだろうという予想に反して、戦況が、ウクライナ国民が頑強な抵抗を維持して、国民全体が不屈の意思を示しているほど善戦している状況になるにつれて、プーチンの要求はより高くしてきています。この点は、注目するべき点です。私は、これはプーチンのコアな支持者(旧KGBを中心としたプーチン政権を取り巻く利益共同体の支持者を納得、結束させるためのものだと見ています。
 また、このため、プーチンは軍事行動を自ら終結させることが益々困難になっています。

3.対する西ヨーロッパ諸国、米国とNATO(以下「西側」)ですが、西側は明らかに、この戦争をロシア対NATO(米国込み)の戦争にしたくないという意思のようです。これには二つくらい理由がありそうです。(1)一つは、戦域をウクライナとその東側に限定し、現NATO諸国の国内にまで拡大させたくないという(おそらく潜在的なヨーロッパ諸国民の願い)もの。(2)二つ目は、ロシア対NATOの戦いになった場合、核兵器使用のリスクが大幅に高まること。(すでにプーチンは核兵器使用の準備を整えるようロシア軍に指示しています。) たとえ最初に核兵器使用をしたのがNATOではなくロシアであったとしても、ロシアに核兵器を使用させた直接の要因がNATOの判断と行動にあったという非難を受けたくないこと。

4.今回、プーチンは大国の禁じ手である「核の脅し」を見せつけているのは明らかです。例えば、ウクライナの原発周辺への攻撃は、例え核兵器を使わなくても原発を爆破すれば核兵器の代わりになるのだぞという暗黙の脅しではないかと私は見ています。つまり、プーチンは核攻撃(の相互抑止力n論理を逆手にとって、これを人質として、米国やNATOの軍事介入の楯にしています。これは、明らかに核保有国の「道義的責任」の放棄、禁じ手です。これに対して米国もNATOも有効な軍事的な解決策を持っていません。同時に、プーチンの軍事行動が何らかの形で収束を見た後でも、プーチンがその政権に留まる限り、ロシアはまともな(信用できる)貿易相手国、国際政治のパートナーとは見做されないでしょう。

 以上のような結果、例え今後ウクライナ(の一部かもしれない)がロシアの要求どおりその属国になるか併合されるかしてロシアの軍事的・政治的なテリトリーになったとしても、ウクライナとその周辺地域はかなりの長期にわたって政治的にも軍事的にもかなり不安定な状態(準内戦状態)にとどまる可能性があると思われます。
 全世界の国々に対して実際に核攻撃の脅しをかけた権力者が、「さあこれからは平和の時代です、なかよく貿易を致しましょう。LNGはお望みの量供給しますよ。」とニコニコしても、さて、誰がその笑顔を本物の友好の証と信用するでしょうか。
 プーチンの頭の中は分かりませんが、ロシアの安全保障について西側の保証を「軍事的に」勝ち取ろうとする、あるいはロシア単独で自分が安全保障だと思う状況を作り出そうとして発動した今回のウクライナ侵攻は、その根本のところで自己矛盾をきたしていたように思います。核攻撃の脅しをかけ、大国であれば余計に順守に厳格であるべき国際法を破り、ウクライナ国民を締め上げ、ロシアのエネルギー供給に依存していた西側ヨーロッパをその意の沿わせようとしたプーチンは、その根本のところで、道(安全保障の戦略)を誤っていたとしか思えません。
 
さて、とはいえ、今後西側はどのような対抗手段、方策があるでしょうか。特効薬は全て第三次世界大戦というリスクがあり過ぎて選択できそうにありません。ウクライナを今後長期にわたって支援すること、またそのために、西側は西側だけで自己完結的に経済活動ができる「自立経済」を目指すしかなさそうに思えます。
 特に「エネルギー供給の自立」を確保することは重要です。エネルギーの面で自立して初めて、今回の軍事行動が終結した後も長く続くであろう、ロシアの”脅威”と”要求”を抑止あるいはコントロールできると思います。それは単にロシアの主要な外貨獲得源を無に帰すだけではありません。また、軍備はその観点から言えば、どちらかと言えば、兵器の高度化よりは、より戦闘能力が長期にわたって持続可能となるように、備蓄とロジスティックスの確立に重きを置く軍備の充実に力点を置くべきだと思います。華々しく最新兵器を装備しても、その数と供給力が見劣りするようでは、床の間のお飾りとなってしまいますし、相手方により軍拡の動機を与えてしまいます。(戦前の日本を教訓にするべきです。超大型戦艦はかっこよかったけれど、肝心の燃料が無くてはどうしようもない。結局無謀な賭けに出ざるを得ませんでした。)
 20年くらい前の話でかなり前の話で恐縮ですが、自衛隊の燃料備蓄は1週間程度、と聞きました。1週間軍事行動するとパタリと行き足が止まってしまう、というのです。
 今回のプーチンに対して日本が自分で出来る喫緊の対策は残念ながらほとんどありませんが、上記のような長期的不安定さに対処するために、今後日本はエネルギー供給の自立に向けて地道な努力をしてゆくべきです。幸い、日本海があって地理的には明確な〝境界”があり、民族的にも明確な違いがありますので、ロシアとの人的、地理的境界は明確です。その利点を最大限生かすためにも、ゆめゆめ、エネルギー面で脅しをかけられるべきではありません。国立公園内の地熱開発を解禁する、日本近海に埋蔵される豊富なメタンハイドレイトの実用化を推進する、海岸線にそった風力発電開発を推進する、各家庭でも可能な風力・太陽光発電を普及させる等々、効率と価格を多少犠牲にすることは覚悟して、国内産エネルギーの開発・増加に努力するべきです。(その点、原発は電力会社の怠慢で、その安全性確保が未だ完全ではなく、稼働基数がほんのわずかというのは情けない限りです。)(ちなみに、国内産エネルギー開発のための技術投資や設備投資は経済活動の活性化に直結していますし、国内産エネルギーを開発・利用促進してその分石油などの輸入エネルギーへの依存を減らすことは国際収支の面からも効果絶大です。炭素排出量も抑制することになります。) 日本は数十年前には石炭から石油へ大胆なエネルギー転換を実行できたのですから、今こそ海外産エネルギーから国内産エネルギー重視、増加に大いに舵を切るべきです。

 プーチンは、この20年、暗殺や逮捕拘禁などのかなり強引・暴力的な手を使って国内財閥のトップを旧KGB人脈に入れ替え、批判的なジャーナリストもパージし、政権基盤を固めた上で、憲法改正を行ってきました。いま思えば「皇帝」になるための布石を着々と打ってきたわけです。さらにその体制の本質的な行動原理は日本の組織暴力団と大差のない「脅しと独善」の体質」であることが今回はっきりしました。彼や旧KGBの”エリート”がいくら偉大なロシア帝国も復活を夢見ても、また、仮に今後「強い」ロシアが実現できたにしても、それは、ピョートル大帝が思い描いた「偉大なロシア」とは似ても似つかない国です。第一、プーチン一党は他のどこの国からも信用されない状況を自ら作りだしてしまいました。経済的にも人々の交流の面からも国際的な相互依存が進展してきた21世紀に、唯我独尊で大嘘を平気で公言する”強大な”国と仲良く付き合いたいと希望する者が大勢現れるでしょうか。

 中国は、ひょっとすると今回のロシア・ウクライナ紛争をのプーチンを観察していて、今後よりスマートに立ち回るようになるかもしれない。あるいはここ10年取ってきた戦狼外交は「正しい」方法であったと再認識しより強力にこれを推し進めるかもしれない。

 日本の外交も軍事的努力も、今後全く新しいフェーズに突入するように思います。それは単なる従来型の軍事力強化ではない「軍事力強化」、もっといえば、外交とか軍事とかの境目なしにより巨視的、長期的に我々日本人の安全保障観を総合的に進化させるものでなくてはならない。金ばっかり喰って、結局米国などの高価な兵器を輸入して装備予算の多くを外国に吸収されてしまったり、出来あがった兵器体系が日本の安全保障の実情に合わない張り子の虎であったりすることがあってはなりません。そのためには、領土を守ることに固執するあまり外交が縛られてします安全保障から、日本人と日本文化、日本的なるものの安全と持続を日本の実情に合った形で保障する安全保障への進化も必要であると思います。
 ウクライナの人々の”平和”の真の回復には、ひょっとすると今後10年、20年かかるかもしれない。それでも、天は自ら助けるものを助ける、という格言にそって、例え限られたことであっても自分でできることを少しでも手助けしてあげる、そんな日本であってほしいと思っています。政治的にも開かれた自由な体制を強固に作り上げること、さらにエネルギー自立を基礎に、国際関係を重視した公正な貿易と行動で世界各国からリスペクトされること、これらが全てロシアのようなならず者国家に対して効果的な言動をすることができる基礎です。そして、ウクライナの人々のためにもロシアにモノ申せる、というものです。

(こうして書いて来て、これらは、なんといまの無力感の裏返しであろうかとも思います。しかし、第三次世界大戦を見ないための子や孫のための長く地道な努力の始まりにしなくてはいけません。)


「参加することに意義がある」五輪精神再考

2021-07-08 22:23:08 | 払暁半刻
以下は、独り言である。主体的に関わっていない以上何を言っても無責任な言い様になりそうで、その点が気掛かりなのだ。だから、独り言ということでご容赦いただきたい。

 五輪はとうとう無観客開催となるようだ。
 クーベルタンの言葉かどうかは詳しく知らないけれど、子供のときから「参加することに意義がある」というのがオリンピック精神だと教わってきたし、運動音痴な僕はそのことにいつも少し安堵感と居場所を感じてきたものだ。
この「参加する」とは、選手が大会に参加することだけではなくて、オリンピックの会場に見に行く人、テレビで見る人、仕事をしながらレースの結果を気にかける人、そんな選手ではない観客側の人も等しくオリンピックに関心を持ち気持ちの上だけでも「参加する」という、その気持ちが大切なんだということなのだと、僕は勝手に理解している。
 オリンピックはだからみんなが参加する「祝祭」なのだ。盆踊りの列に飛び入り参加するときのあの高揚感と一体感を感じたいと切実に思う人恋しさ。そんな気持ち。オリンピックは祝祭なのだ。金メダルだけではない。レースで敗れた選手であっても、全力であったか、自分の限界に挑戦したか、とただそれだけを見たいがためにオリンピック競技を見ている人は案外多いのではないか、と思う。

 かつて、オリンピックを国威発揚の場にすり替えた「不届き者」が第二次大戦前のドイツにいた。その後、オリンピックは多くの国の指導者や官僚にとっては国威発揚、スポーツ関係者もその勢いに乗って「メダルの数が全て」みたいになってしまったけれど、それだけじゃない。
 戦後、悲惨な戦災からの復興と平和の象徴になって、しかもテレビ中継でみんなが試合を見られるオリンピックが戻ってきたとき、オリンピック精神は祝祭として再定義されたのだ。日頃生活が大変で望んでも中々手に入らぬ平安と安らぎと幸福感をオリンピックの開催中だけは味わえる、そんな祝祭の一瞬。

 しかし、今回はいささか様相が異なる。飲食店や音楽関係などは緊急事態宣言で耐えるに耐えるしかない。若者だってワクチン接種を後回しにされて、とても「みんなで一瞬でも祝祭で夢見よう!」というわけにはいかない。 主催者側で働く人の多くも、見通しの立たず状況が急変する中、目の前の難題をちぎっては投げ、ちぎっては投げ、残業残業の毎日かもしれない。 出場する選手だって、最高のパフォーマンスをと意気込んでも、観客がいないゲームでモチベーションを上げなくてはならないし、そもそも、このコロナ禍とコロコロ変わる事態さえ無かったら、自分が代表になれていたかもしれないと(もちろん基本的に他人のせいにはしたくなくても)忸怩たる思いの選手も多いのではないかと思う。

 そんなこんなで、今回は、みんなで祝祭に参加しようという熱気の失われたオリンピックになる可能性大である。これはコロナが去ったら自然に元に戻るかな? おそらく今後、IOCはオリンピック開催の存在意義を再考せざるを得ないと思う。ただでさえ、商業主義だ、お金がかかり過ぎだ、開催候補都市が少なくなってきた、といわれる中、このコロナ禍中の東京大会はオリンピック運動の大きな転機になるように思う。
 原点に帰れ! 髭のクーベルタン男爵はそう言うのではないか。もちろん、先見性に富み祝祭空間をよく理解していた彼なら、オリンピックファミリーと言われる特権的なグループにも「時代が違うだろう。21世紀はすでに貴族の時代でもないし、これを機に少しは考え直したらどうだ」とも言うに違いない。

 それにしても、昨年の延期決定から1年。この1年は貴重な1年だった。「延期」だから時間との勝負であることは最初から明らかだった。昨年から今年の7月をターゲットに時間を逆算して、ワクチンの準備に先手を打ちつつ、人とものと金と時間の無理無駄をなくして機能させ、計画的活動閉鎖をしていたら、と悔やまれる。そのためには、国会は与野党あげて法を臨時的に期限付きで改正して制度的手当をし(なにせ五輪は国家イベントなのだから。もっと言えば新型コロナは文字通り掛値なしで全国民すべてが関わらざるを得ない事態だから)、官僚は頭を柔らかくして、直面する新事態に発想の大転換して国会議員の先生方のご注進する必要があったかもしれない。

 新型コロナだけだろうか。線状降雨帯にミイラレタラ、大洪水になる可能性は日本中どこの町でも十分にありそうだし、60年以上関東には大地震が起こってないけど地震だけは洪水の時期には待ってくれるという保証はどこにもないわけだし。東シナ海をはさんでお隣の国々では、戦後70年以上(世代にして2世代)も経ったのに何等の民族的進歩もないように考え方は先祖帰りしてしまったようで、「強国だ」「強国だ」と、現代における真に強い世界帝国とはどのようなものであるかも分からずに、19世紀的アナクロな「富国強兵」を主張しているし。

 菅さん、この秋の総裁選や衆議院選挙の戦術に頭と時間を使うより、そんなことはさっぱり断捨離して、これらの難題の解決方法に正面から取り組んで政治の真剣勝負をした方が、選挙の得票率は多分確実に上がりますよ。そんな捨て身になれるかな。    (2021・7・8)


大谷人形、と後日譚

2021-07-02 18:21:54 | 小話 short-short 笑人笑人
小話である。他意はない。でも、後日譚は笑えない。

GG MLBのオールスターに大谷が出るだって、うれしいねぇ。ほんと。アメリカで通用する外国人の二刀流というのも前代未聞で凄いことだけど、彼の人柄も皆から愛されているようで、素晴らしい。

BB (TV画面を見ながら)あれ、東海岸で売られてる大谷の人形が映ってる。あれって、バットの握手が左右逆じゃない! あっ、首をくるっと回して左打者にしてるだけなんだ、きっと。

GG あっ、ほんとだ。粗悪品だね。・・ 中〇製だったりして。

BB そうかなぁ? 日本製かも。30年以上検査偽装してきた会社だってあるんだから。                (ここまで、2021・7・2)

後日譚  (2021・7・3)
BB そういえば、35年も検査偽装してた例の大会社、社長が引責辞任したんだって。

GG おっ、ずいぶん早いねぇ、どこかの首相と違ってすぐ辞任するというのは潔い。
あの会社は昔からの大会社だね。だからかもしれないけれど、各地の事業所は独立採算で発言力が強くてそれぞれが独立の会社みたいなものらしい。あの社長がもしこの検査偽装を知っていても、社長の鶴の一声で止められたというほど簡単な話じゃないんじゃないかな。長崎製作所の所長から「大丈夫です。うちの製品の強度と安全には問題ありませんから。特に顧客が指定した検査をしなくても問題ありません。手間とコストがかかるだけです。」なんて大見え切られたら、「はい、そうですか」って言うしかなかった、そんな感じじゃないかな。顧客がしている検査をしなくても、伝統と技術力のある自分たちの安全基準の方が優れている、だから安全、大丈夫! みたいな考え方かな。まっ、いってみれば、「伝統ある独善」(笑)だね。

BB へえー、そうなんだ。もしそうなら、社長も組織の犠牲者っていうわけ?。なんだか変。じゃ、社長が辞任したからって、会社の体質が変わるかどうかはわからないんだぁ。

GG そういえば、かの「中〇」っていう国も、最近は「強勢大国」とか言ってるらしいね。でも、どこの国からも、怖がられてはいても「尊敬」されてはいない。はっは、それじゃぁあの国は「独善強国」かな。

BB 独善って、いやねぇ。押し付けがましくて、上から目線で。そんな風に見られたら、ご近所さんから煙たがられる。気を付けなくっちゃ。
                           ー おわり ー


 



民主主義の前提。中国共産党結党100年周年を機会に思う。

2021-07-01 06:40:41 | 払暁半刻
 中国では共産党が結党から100年だそうだ。結党集会には50人ほどが参加したという。当時中国には、孫文の流れを引く国民党が存在したから、真に小さな小さな出来事だったはずだ。
 人間の祖先である哺乳類もその出現の最初はごくごく小さく弱い存在だったという。当時はまだ爬虫類やその他の巨大生物がうようよ地球上を跋扈していた。が、今や人間は他の哺乳類を圧倒し、人間社会の営みは地球環境そのものにも大きな影響を及ぼしている。そのほとんどは当の人間社会をも脅かすほどの「悪」影響だ。
 人間社会は、(とても大雑把にだけれど、)民主主義と政治的自由を掲げる国々と、制度上は選挙制だけれど実質は専制・独裁制支配の国々とに分かている。各々の国の姿にはそれぞれの様々な歴史的地理的事情と要因が絡んでいて、各々の国の治め方(統治手法)は千差万別だ。様々な事情の結果なのだから、自分の国の政治体制を基準にして、特定の国の統治手法やあり方を一様に非難するのは、言うのは簡単だけど、拙速、稚拙な批判であると思う。
 それでも、その国の様々な事情を考慮してもなお、そうであってはならぬと判断せざるをえない国もいくつか存在する。北朝鮮や現下のミャンマーなどは典型的なそういう判断をせざるを得ない国だと思う。
 さらに、これまで民主主義のお手本のように思ってきた国でも、指導者が変われば、幼稚で未熟で一方的な、独善的な統治手法しか取れない国もある。そのような時、我々は「えっ、あんな人を支持する国民があんなにたくさんいるの?」というそれまでのイメージを一種裏切られたような気持でただただ驚くしかない。

 僕は幸いにして結構自由な国で暮らすことが出来ている。この国は当然昔からそうであったわけではない。紆余曲折があり多くの犠牲があった。我々の祖父母や父母が育った時代には、多くの人々が貧しく、自分の考えを表明する機会さえなかったし、昭和に入って戦争に負けるまでは、自分の考えを自由に述べようとするだけで身体的拘束があり、命さえ奪われかねなかった。
 民主主義は、多数決原理の制度であると学校では教えられる。民主主義そのものは、資本主義と同じかそれ以上に「頭で」理解するのが難しい制度概念だから、小学生や中学生の年齢の子にはせいぜい「多数決の制度だ」と教えざるを得ない。
 しかし、多数決原理が民主主義のために制度としてきちんと機能するには、その前提となる大切な条件がいくつかある。できればそれらも併せて教えたいのだが、人間が一度に学べるものの数には自ずと限界があるので、どうしてもそれら「前提条件」を教えるのは後回しになるか、興味のある生徒だけの研究課題になってしまう。だから、大切なことが後回しになってしまって、先ほどのように民主主義のお手本のような国でも時に大きな選択間違いを犯してしまう。
 
 さて、ではその「大切な前提条件」とは何だろう。(ここから先は僕の一方的な考えだから、読者は眉に唾つけて見る方がいいかもしれない((笑))
 僕はこう考えている。
① 自由な意見が言えること。そのために、威嚇や身体的な危害が加えられないように「暴力や破壊」の危険がないこと。
② 自分と異なる意見や考えを聴ける寛容さがあること。
③ 他人の意見に対する賛否だけでなく、意見の質と実効性についての良否や出来不出来が判断できること。
④ ①~③の大前提として、嘘をつかないことについて高く強固な倫理感があること。
⑤ 事実や歴史の記録が改ざんされないこと。

 民主主義を制度的に掘り崩そうとする者(民主主義を換骨奪胎するか、その機能を破壊しようとする者)は、まず⑤の改ざんから始めるのが常套手段だ。そして④の倫理観を麻痺させ、我々の③の能力を奪い、②の寛容さを敵視するように仕向け、最後に①を締め上げる。最初に①から始めると今のミャンマーのように囂々たる非難を浴びる!
 国民の安心・安全も、その前提となる統治機構の機能も、さらにその機能を担保する法の支配も、僕の考えでは、これら①~⑤が守られてこそ永続的に維持できる。報道の自由も多数決原理もこれらの制度的前提条件が強固であればこそ、成立する。

 だから、森友問題や公文書の黒塗り公開は、蟻の一穴のように本当は、長期的かつ重大な問題なのだ。
 中国では、共産党が結党100年目を迎えたにもかかわらず、これらの大原則を国民の間で達成しようとする「意識改革」(多くは初等教育でなされる)はされていないようだし、むしろ、④や⑤を”無意識的に”党の支配のためには当然と考えて行っているところにある種の恐ろしさ、さらには共産党の支配の空虚さを感じる。100年前の共産党創立者たちが本当に自分の国の行く末を心配して決起したのだとしたら(僕はそうであったと思っている)、決してそうは考えていなかったと思う。
 今日はお隣の国のめでたい百周年記念日だということなので、我々自身の問題としても考えてみた。          2021・7・1