遠野なんだりかんだりⅡ

遠野の伝承芸能・民俗・歴史を書きたい時に思いついたままに

遠野郷しし踊り 其の壱

2024-04-07 16:39:00 | 郷土芸能

あっという間に 令和6年度です。

かと云って特別なことがあるわけでもないので、昨日は久しぶりに花巻の日帰り温泉。

お昼は回転ずしのつもりが、駐車場も満車だったので、こちらでお蕎麦を食べました。

再来週末から5月中旬まで術後の一年健診が始まるので、以後、節制した生活です。(;^_^A

さて、

そんな新年度のスタートですが、おそらく旬の話題はしばらく提供できないと思うので、

普段感じている遠野のしし踊りのこと綴りたいと思います。

 A、 宝暦13年(1763)編「遠野古事記」には、遠野のしし踊りについて次のようにあり

ます。太守(南部)行信公(1642~1702)の時代、盛岡八幡丁に役者のために屋敷を与えて

歌舞伎を演じさせるようになってから、家中の若者たちも歌舞伎をやるようになり、遠野で

はそれまで流行っていた子踊りはやらなくなり、在々には獅子踊と剣舞が残りました。

その剣舞は、元禄(1688~1704)の初め頃に伊達領の気仙で流行っていたのを

細越村・佐比内村(遠野市上郷町)の若者たちが習い、踊り始めたものです。

また獅子踊りは往古からあるものではなく、何十年前か(仮におおよそ20~80年前だとすれ

ば1680~1740頃)に駒木村海上(遠野市松崎町)の覚助が熊野参詣に行った時に京都で見て

習い覚えてきたものだと云われています。と。

 B、穀町の検断佐々木甚右衛門が記した検断勤方記「神明神輿巡行之事」(f1)には

天明7年(1787)の行列に鹿踊が参加していることが記されています。

また「神明八幡御祭礼江太神楽相勤候事附り鹿踊之事」には、新町・六日町両町にて鹿踊を

出すのは古例からのことで、昔は町方に鹿踊の心得の有る者達がいて興行をしていました。

当時は村方から数カ所願いがあり、鹿頭や鹿幕を貸していたが段々に古くなり、上様(遠野

の領主)に新調して頂いていました。後には拝借できなくなったので、其々の用意で踊るよ

うに云われ、上様からは投げ草料を頂くようになりました。但し鹿踊は毎年七月の神明の神

事に出し、大神楽は祭礼の年に出すようにと。これには剣舞は出てきません。

 f1  検断勤方記

 C、この他、昭和56年編「遠野郷青笹しし踊り」の中に「去年寛永三(1626)年七月十

四日鱒沢村の寺に獅子踊有之見物人大勢参り云々」とあり、この出所が遠野古事記からと記

されています。また別な聞き取りでは「直栄様相続前後之記」からだという話もあります。

但し、原文がいずれなのか私自身はまだ確認していません。

 D、また小友町の長野獅子踊りの伝書には慶長2年(1597)に現在の大東町大原の長泉寺

に関係して伝えられたとあり、隣接する伊達藩の「貞山公治家記録」に天正15年(1587)

に米沢の片倉家で伊達政宗が獅子躍を見たという記録が残っています。

 E、宮城・山形・岩手で云うしし踊りは、関東・甲信越とその他の東北地方では三匹獅子

舞、ささらなどとも呼ばれ、歌詞や演目の類似性から当初は同一芸能だったとみられ、関東

では遅くても17世紀には既に成立していたようです。東北では17世紀以前からという言

伝えもあり、ルーツは東北ではないかという見方もあります。また関東以南に多い念仏系太

鼓踊りの歌にもしし踊りとの類似性が見られ、関西から伝えられ変化してきたものだという

説もあります。

 F、ところで仙台市内には、しし踊りと剣舞を同一グループで行う「上谷刈(f2)や川

前などの鹿踊・剣舞」があります。岩手県内で同様なのは、田野畑村の菅窪鹿踊・剣舞で

す。また、しし踊りと同じ地域もしくは隣の地域に別グループによる剣舞が伝えられていた

地域もあり、伊達領、南部領共に似たような状況だったようです。但し、剣舞は関東の三匹

獅子舞周辺には見られません。

 f2  上谷刈鹿踊:似たような風貌でししが3匹だけのが、関東周辺の三匹獅子舞

 

以上のように遠野のしし踊りに関係しそうな古い記述を確認した上で、

次回は岩手県内の旧南部領にあったしし踊りとこれに関係しそうな剣舞に

ついて書きたいと思います。

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