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ネット坐禅会・45   薪と灰~前後際断~

緊急事態宣言が延長されましたので、とりあえず、3月7日の3月第1週までの参禅会を休止とします。

禅・仏教にまつわる髄話を記してみたいと思います。

 薪(まき・たきぎ)と灰~前後際断~

 私は、寺に生まれましたが、職業については自分で選択すべきだと思っていました。僧侶である父も、寺を継いでもらいたい気持ちは当然にあったと思いますが、特に強いられることはありませんでした。高校2年くらいの事だと思います。生まれた寺の宗派、教義とは、はたまた仏教とは?と、身近な職業事情を一応は調べてみるべく、学校の図書室で仏教書を探してみました。手にした本が、唐木順三著、世界文学全集の中にある「道元」という書物でした。

 内容は難解なものでしたが、興味を引く文章がありました。

薪、灰となる、さらにかへりて薪となるベきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといえども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。

薪(まき)が燃えると灰になるが、灰が薪になることはない、かといって、灰は後、薪は先と決めつけてはいけない。薪は薪の(法位…この意味は判らなかった)??に住して前後がある。前と後ろはあっても、前後は際断されている。だから、灰は灰の???に住して前後がある。

と、とりあえず読んでみたが意味不明。ただ、常識的な考え方をしない面白さを感じたものだ。先に進むとさらに興味を引く記述があるがさらに意味不明。

かのたき木、灰となりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人の死ぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならいなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅といふ。

薪が灰となった後、薪に戻ることがない様に、人が死んだあと生き返ることはない。けれども生きている命が死んだと考えないのが仏教の考え方でり、このことを「不生」と言う。また、死んだ命が生まれ変わることは無いことも、仏教の考え方で、「不滅」と呼ぶ。

人の命は生まれるとか、死ぬとかとは言わないのが仏教の考え方で、「不生不滅」と呼ぶ。と読み取れるが、なんだか判るような判らないような感じ。

生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春とのごとし。冬の春となると思わず、春の夏となるといはぬなり。

生も死も命の流れの通過点。例えば冬と春のように、一つの通過点で、冬が春に変わったということなく、春が夏になったと言わないのと同じである。

ここは判るような気がした。何処を基準とする事無く、どこも平等な存在で、優劣、出発・帰着、前後が無い、一つの通過点という意味に共感したことを覚えている。18歳の頃。あれから50年、この意味が完璧に理解できているかというと自信が無い。ただ、この書(道元禅師の正法眼蔵現成公案の巻)に興味を持ち、今に至る所縁の一つになっているとは言える。

法位に住すとは、現在の直面する現実の姿の立場とでもいいましょうか。「法」という文字は、仏教では「教え、教理、大切な真理」という意味に使われる言葉ですが、その他でも、「存在、現象、世の中の事象」という意味で使われることもあります。ここでは後者、「自分が注目した現象にスポットを当てて見れば・・・」といったニアンスが「法位に住す」という意味かと思い至っています。薪ならば薪としての法位、灰ならば灰の法位と解釈できる。つまり無限の法位が想定されると言えます。薪が善で灰が悪、薪が先で灰が後という考えは分別が働いていて、本来のあるがままの現象と考えれば、薪は薪であり、灰は灰である訳です。例えば薪という立場を取れば、火がついて炎が出て燃え盛り、やがて灰になっていく姿そのものが薪であり、薪として前後は存在するものの場面場面は刻々と移ろいゆく薪の姿であり、場面場面は際断されている。例えば灰という立場を取れば、燃える前は固い木としての灰であり、燃え尽きた時に灰と呼ばれている灰そのものになるだけのことで、それぞれの法位に住している。冬という法位に住すれば、暖かくなり、まるで春と名付けられるような季節の冬もあれば、酷暑の夏のような冬もあれば、さわやかさが心地よい秋のような冬であることもあれば、正に冬と呼ばれている冬を観ずることもある訳です。人生の「生」という法位に立てば、幼年期のような生もあれば、青春期、熟年期、高齢期、死期を迎える生もある訳で、一瞬一瞬は、前後が際断されていて、優劣、尊卑、貴賤は存在しない。また、「死」という法位に立てば、幼年期のような死もあれば、青春期、熟年期、高齢期、死期を迎える死もある・・・というだけのことと言えます。

50年を経たこの文章の理解はこんなところで、あと10年、20年後はどんな法位となっているか楽しみでもあります。こう解釈すると、道元禅師の他の言葉の意味や、禅の言葉が示す世界が腑に落ちることがあります。「道は無窮なり」、「随所に主と作す」、「有時の経歴」などです。

 

 

 

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