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ネット坐禅会・35・・・修証義の内容・行持報恩

行持報恩

5章の前半は、1章で述べた、この世にかけがえのない生を受け、み仏の教えに出会えた尊さを再度確認し、その恩を日々の過ごし方で還してゆく報恩行をすすめる場面へと続きます。ここの文章では、1章の冒頭の、「生を明らめ死を明らむる」というテーマの「明らかにすべきこと」が、無常の風に任せてはいけないという1章の言葉をさらに強めて、「日々の命をなおざりにしないで、仏様のさずかりものの命として自分勝手に生きないように」とはっきりと提示して、「明らむる」べきことを具体的に説明してくれています。

唯、まさに日々の行持、その報謝の正道なるべし、 日々の生活の姿にこそ、仏と法と僧に感謝して報いる唯一の道があります。
謂ゆるの道理は、日々の生命をなおざりにせず、私に費やさざらんと行持するなり。それはどういうことかと言えば、この日々の命を無駄に過ごさず、自分の私的な命と思わず、周りからいただき預かっている公的な命と思って毎日のつとめを果たすべきです。
光陰は矢よりもすみやかなり、身命は露よりも脆(もろ)し  月日の過ぎゆくのはまことに速やかであり、それは矢よりも早い。この月日の流れの中に生きていく私共のいのちは草の葉にやどる露よりもはかない。
何れの善巧(ぜんぎょう)方便ありてか過ぎにし一日を復び環(かえ)し得たる  どのようなよき手だてを用いて見ても、過ぎ去りし日を呼びもどすことは出来ない。

そして、後半では、日々を大切に生きる姿こそ、仏の姿の表れであることを説きます。そして、その自分こそ尊敬すべき自分であり、愛すべき我が身でもあり、自分で自分をほめてあげられる生き方をすべきことを説いています。

この一日の身命は尊ぶべき身命なり、尊ぶべき形骸なり、この一日のいのちは尊ぶべきいのちであり、尊ぶべき身体である。
この行持あらん身心自らも愛すべし、自らも敬うべし、真実の道理に従った一日の行持、それは輝ける仏の 一挙手一投足であることに気がついて見ると、愛おしくもあり、敬愛すべき身心であることにきがつく。

ここに引用されている文は、『正法眼蔵』行持の巻からのものですが、原典の文脈では、この行持とは、坐禅のことを指しており、禅の精神で過ごす日々の実践の行いなのです。つまり、『修証義』には、水鳥の脚かきに当たる「禅の精神」が裏付けされていることが分かります。

これで『修証義』の解説を終わりますが、明治の時代に、坐禅の実践を前面に出さずに、戒の実践を主にして布教教化を培った曹洞宗の歴史があり、100年の時を超え、その役割は大きな存在でありました。ただ、思うように生前受戒の仏戒に生きる流れになったかというと、なかなか難しい問題があります。また、時代は急速に情報網が発達し、生活に必要な機器も目覚ましい発展を遂げ、日々の生活時間にゆとりが出来、精神的なことへの探究時間も、実践の機会も容易になりました。現代こそ、一般の人に坐禅を勧めるべき時だと思います。宗門でもそのような方向への模索を続けております。当寺の坐禅会でも、ここ数年に、このニーズの高まりを感じております。禅と戒の二者択一では無く、両者、同事実践として、水かきを水面上に見せながら、この難しい世相を懸命にこぎぬこうではありませんか。

緊急事態宣言が解除され、当寺参禅会も来月より再開することとします。北海道や九州では第2波の感染が心配されます。まさに新しいコロナ対策ワークの時代が訪れようとしています。禅の智慧に期待したいものです。

 

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