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ネット坐禅会・30・・・曹洞宗の教義・修証義の構造

修証義の構造

『修証義』の優れた構造について再度、解説します。

第1章は、仏教の基本的な無常・縁起について述べ、今の迷いの中に仏の存在があるという修証一如の禅の精神を押さえ、後半は、行った報いは必然である「業」について三段階に分けて述べています。この「三時業」が人権を軽視した教えとして誤解される恐れがあると指摘され、慎重に扱われた時期もありました。今、ネット社会となり、コロナの脅威も現実として体験してみれば、この記述は先を見通した「転ばぬ先の杖」であったかも知れません。

第2章と第3章は、「本証」と名付けた大段落に位置します。仏性を持っている私であることを前提に、2章では、1章の業について、反省し悔い改めれば元々の仏とつながり、仏が守ってくれると説き、罪も滅することができると説きます。失敗しやすい私たちにとっては、救いの教えです。第3章は、反省しただけに留まらず、仏としての生き方を誓い(受戒)、正しい生き方の習慣をつけましょうという趣旨で、具体的な項目が示されています。それによって仏としての仲間入り(入位、仏の子みこ)をすると展開します。まぁ、仏としての仮免許といったところでしょうか。私は、ローンを組んで仏生活に入ると説明しています。ですから2章3章はセットです。

第4章と第5章は、「妙修」と名付けられた大段落に位置します。仏性があるかないかは、実践した時に証明される行の実践こそが大切と説くのです。まず4章では、仏として生きることは究極的に他の幸せを願う中にこそあると目覚め、代表的な4項目(四摂法)の実践を勧めています。5章は、このように毎日を行い持つことができるのは仏のおかげとして、みほとけへの感謝報恩に生きることが説かれ、第1章の無常や縁起の真理と結びつけてまとめとしています。

この『修証義』の組み立ては、従来の、修行が先にあって悟りにつながるという方法とは反対で、「証り」のことが前面に説かれ、その実現のための「修」が後に書かれています。ここに道元教学と呼ばれる特色があり、只管打坐の精神が反映されていると考えられます。こうみて参りますと、『修証義』は良くできていると思えます。他の宗派からも称賛されている経典であると言えます。曹洞宗の教えを一般に広めるために、明治23年に編纂されたものですが、この中の文言はすべて道元禅師の著述の中から、内容には捉われずに言い回しを借りてきたものも含め、全く新たな筋書きの経典としてつくられました。多くは95巻もある『正法眼蔵』から30巻もが引用されていて、しかもこの編纂の中心者は在家の大内青巒師であったこと、そして、両本山の禅師様が精査され、当時の宗門の碩学の僧らによってらまとめられたのですから、明治の先哲恐るべし!といった思いがします。

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