灯台守の唄

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カンヌ映画祭の北野監督に違和感を感じた(2)

2023-06-02 12:32:41 | 日記
カンヌ国際映画祭で、嫁を連れて歩く北野監督に幻滅したので「首」は劇場ではなく、DVDになってから見る予定です。
なんか、わざわざ手をつないで見せてた辺り、「当てつけ」のようなものを感じたんですよ。誰に対する当てつけだったんでしょう?

元嫁?
子供達?
週刊誌?
世間?

週刊誌は大喜びですよね。
でも子供達は不快だったんじゃないの?と思う。
ああいう場面を見て元家族はどう思うかという想像力が働かない北野さんではないと思うんですが、子供達と対立してるのか、そんな想像力も働かないほど嫁に入れ込んでいるのか、どっちなんでしょうか。

ファンとしても、これから映画祭はいつも嫁を連れて行くのかと思うと、たまったもんじゃないなと思います。
以前ネットで「たけしから男のかっこよさがどんどん失われていく」という意見を見ました。
私も全くそう思います。
今の北野さんからはこれまでにあったかっこよさやダンディズムが感じられないんだよね。
まさかこういう晩年になるとは。
これだったらもっと早くに〇んでてほしかったわ、と思うくらいです。

今のたけしはくしくも自身が演じた秀吉の晩年にも似てるのかな。
秀吉と淀殿ですよ。
糟糠の妻を捨て、新しい側室に夢中になり、朝鮮出兵に及んで醜態をさらした秀吉の晩年。
でも淀殿は血筋が良くて若くて美人でしたから、今の嫁とはその辺違いますね。
なんか、18歳下とか中途半端な若さなのよね。
どうせなら孫くらい若い二十代の女性と結婚すればいいのに、なんで還暦間際のおばあさんだったんだろう?
でも18歳差って昔からたけしにとっては禁断の年齢差というか、フライデー事件の発端となった女性も同じくらいの年でしたし、その辺の年齢の女性に弱いのかしら。知らんけどw

さてここからが本題です。どうでもいい前置きが長すぎたわ。
今回北野さんが出品したのは「カンヌ・プレミア部門」という部門でした。
これ、どうやら賞の対象ではなかったみたいなんですよね。
道理で「映画は本来順位を付けるものではない」と北野さんが言っていたわけだ。

「カンヌ・プレミア部門」という耳慣れない部門を聞いた時から、それって賞の対象になるの?ならないの?ってずっと気になってたんですよ。
でも賞の対象となるのは「コンペティション部門」なんですよね。
そのコンペに「首」が入らなかったのはどう理解するべきなのか。

①北野監督は偉大で、映画人としてすでに一地位を築いており、その作品を賞の対象とするのは恐れ多い。
②コンペには及ばないけど、北野作品を上映しないのはもったいないから他の部門に入れた。

シビアに考えて②だったのではないかと思います。
最近の北野映画はエンタメ路線が強いし、本能寺の変や戦国時代というのは外国人に理解されにくい特殊さがあって、コンペの対象とはならなかったのではないですか?

と言っても謙虚な北野監督は十分満足していたようですが、
「今度はまたちゃんとした映画を作ってきます」
と言っていた辺り、悔しさはあったんじゃないの?と思う。

個人的に、どんなに大物になっても、コンペに出品されて他の作品とバリバリ争ってこそ現役の監督だと思ってます。
北野監督にもその意向がまだあるなら、今度はコンペを狙ってほしいですね。
前回の「アウトレイジ最終章」もコンペじゃなかった気がするんだよね。あれはベネチアだっけ?
ちょっと遠ざかってるよね、賞の対象枠から。
もう初期の頃のような芸術性はなくなってきているので、仕方ないかもしれませんが、コンペに出せる作品をもう一度作ってほしいと思ってます。


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