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支流からの眺め

東京五輪の尾身発言を深読みする

 武漢急性呼吸器症候群(WARS)の流行に関して、東京五輪が焦点となってきた。昨年の延期は妥当と評価されている。今の課題は、この感染状況で開催に向かうか否かであろう。

 否とする大義は、感染の拡大抑止である。もしこの先流行が拡大すれば、「否で賢明であった、開催したら更なる流行を招いた」などと前向きの評価になろう。しかし、もし流行が落ち着いていれば、「見込みが厳しすぎた、損失は誰に負わせるのか」となる。政府首脳は決断力に欠けた腰抜けと指弾されるだろう。

 開催可とすると、日本国内の流行状態や対策は世界の注目の的となる。うまく行けば、対策の適切さや国民の協力的姿勢が高く評価される。しかし、流行の悪化や選手村・会場発のクラスター、最悪には世界規模の流行の再拡大などがあれば、大批判が世界中から巻きおこる。どうせ結果責任を負うのであれば、政府の腹は開催であろう。

 その中で、政府分科会の尾身 茂会長が「今の感染状況での開催は普通はない」と否定的な発言をした。これに対して、政府内から「この段階でいうのは遅い、分不相応だ」などの批判が上がり、菅首相も怒りを露わにしているなどと伝え聞く。しかし、これは尾身会長の立場であれば当然の発言である。行政を預かる者が怒るまでもない。何か不自然である。

 ここで、尾身氏の経歴を確認する(Wikipedia情報)。氏は外交官を目指し慶応大学法学部に入学したが、後に医師を志し1972年に一期生として自治医大に入学する。卒業後は臨床経験の後に厚労省に進み、世界保健機関(WHO)の西太平洋地域事務局長、自治医大地域医療学センター教授、地域医療機能推進機構(JCHO)理事長(現職)、新型インフルエンザ等対策有識者会議議長などを経てきた。

 その尾身氏の発言の意図には3つの可能性があろう。まず「人命尊重が最優先」を踏まえて、①医師としての良心による発言、または②医学界の代表者としての発言である。①であれば、それは政治的圧力に妥協を強いられてきた氏の魂の叫びなのかもしれない。しかし勘ぐれば、③東京五輪を推進するための高度に政治的な発言の可能性もある。

 ③は、何も根拠はないが、実は尾身氏と菅氏は開催可で口裏を合わせており(または阿吽の関係にあり)、敢えてこの段階で否定的な発言を行ったという意味である。否定的発言は、それで尾身氏が失うものは何もない。政府にとっても、専門家に自由な発言を許しているという公平さを国民に印象付けられる。怒って見せるのも、国民への演出としては有効なのである。

 その国民も、実は多くが潜在的には五輪開催を願っている。ただ、お気楽タレントを含めて誰も本音は言えないでいる。ここで尾身発言(現状での開催は普通はない)を聞けば、「開催のためには普通でないこと、つまり長期間の営業自粛やその他の無理難題も受け入れざるを得ない」という気持ちになる。結局は、政府の言う「安心で安全な大会」に協力することになるのである。

 尾身氏は医学者というより政治家である。あくまで個人的印象ではあるが、氏の過去の発言は科学的な明快さより政治的な影響力を重視していた。今回の発言も、政府内部の反発は招いても決定的な言葉は含まれていない。この尾身発言は五輪開催に国民を誘導すべく仕組まれた高等戦術ではないか。それとも、読み過ぎであろうか。

 開催までは揉めてもWARSの流行を抑えつつ五輪は貫徹される。そして、日本の評価は更に高まる。その頃には、WARS発生の真実が暴露され北京五輪の行方が迷走しているだろう。

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