東京五輪の開催までひと月となり、武漢ウイルス感染症(WARS)の動向が危惧されている。ワクチンへの期待の反面、都内患者数の反跳、海外からの入国者増、デルタ株(いわゆるインド株)の感染拡大、若年者でのワクチン忌避など、不都合な事象もある。医学の専門家は危険を訴えるが、政府や都は、「慎重に」と繰り返しながら強引でも開催しようとしている。直前のブログのように、間に挟まった尾身氏の発言も意味深長となろう。
情報が交錯すれば、未来に起こる良くないことへの懸念、物事が決まらないという落ち着きのなさが強まる。この不安感から、単純明快で、理想的な主張が通りやすくなる。その最たるものが人命尊重である。一人の死も許されない、人身御供で五輪をやるのか、などの文言である。これには誰も反論できない。片や五輪の理想化は人命尊重に勝ることは難しく、開催派は分が悪い。しかし、報道は風見鶏が習わしとは言うものの、五輪誘致をもてはやした往時の風はどこへ行ったのか。
無表情・無愛想な首相の肩を持つのも誠に不愉快だが、今や「感染拡大には最大限配慮しながら開催する」以外に選択肢はないであろう。開催者としても、国民に協力をお願いするしかない。感染拡大が(過去の最大値を上回るほど)尋常でなくなれば、制限の更なる強化もありえる。それでも、中止まで踏み込む確率はかなり低い。ならば、。国民は開催に向けて最大限に協力するしかない。世界中が注目しているのである。国の恥になるような事態は避けなくてはならない。
この言い方に、先の大戦に引きずり込まれた苦い経験の既視感を持つ向きもあろう。勇ましい新聞報道や世論に押されて対米戦に至り、300万の国民に死を強いたのである。一方これに懲りて、覇権国への融和的対応、平和憲法の神聖化、軍事への無関心に浸るのも危険である(最近では、平和主義のウクライナが舐めさせられた辛酸が好例である)。物事は常にグレーであり中途半端である。その不安に耐えて困難を克服しつつ行動しなくてはならない。
身も蓋もない言い方だが、戦争に比べれば五輪開催などは大事ではない。問題は、その程度のことで右往左往する世論や、それを炎上させるマスコミの姿勢である。繰り返し述べているとおり、日本人は不安に弱い。それを増幅するような報道が日夜繰り返されている。この報道姿勢は、単に報道機関の無邪気さだけではない。某国の宣伝工作が仕込まれている危険性もある。中止すれば、北京五輪成功のダシにされるだろう。
国益に甚大な影響を与えるような難題がいつ起こるか分からない。難敵がすぐ近くに居るのである。WARSを乗り越えた五輪開催は、日本国民の覚悟と団結力を見せる好機である。