前号では、世を変える力として、人々の欲求とその陰にある恐怖や様々な情念に触れた。これらの心の動きが集団の中で共有されると、全体が激情に流され歴史を大きく変えることもある。しかし、願いや思い、祈りや呪いがいくら強くても、それは抽象的で無形に留まる(祈りが脳の神経細胞に作用する伝達物資を増減させれば、有形とはなるが・・)。より決定的なのは、具象の変化を与える自然現象や人為的な技術で、その使い方も同じく重要である(使い方如何で変化は大きく違う)。
武漢コロナ感染症(WARS)の戦いを多分に決するのは、神仏への祈祷ではなく、ウイルスの突然変異とヒト生来の免疫能である。医学(診療技術、ワクチン、治療薬)、防疫(マスク、三密回避、行動制限)、社会支援(補助金、患者の法的保護)など期待すべき人為的な技術の中では、ワクチンが多少有効であった程度ではあるまいか。つまり、検査体制やマスク着用、補助金制度などを巡る論争は、不安と混乱を招くばかりで、あまり意味がなかったように見える。
感染症は、人類にとって長年の脅威である。これに対する医学・技術の発展は目覚ましい。病原体の発見と特性の解析、ワクチンや抗生物質の発見・応用などである。今後も技術の進歩が進むだろう。一方、病原体は巧みに耐性を獲得し続けるに違いない。彼らは十億年単位で生き抜いており、見るところ、感染症の克服は永遠に不可能である。人類の英知で感染症を完全に克服できるという過大な期待をもつと(技術の限界をわきまえないと)、有害な結果を招くことになりかねない。
露国と宇国の戦役では、戦闘力(武器、作戦、錬度、戦意、諜報)、後方支援力(生産、供給、医療)、宣伝力(正当性の訴え)などの戦いとなっている。その中で最も力があるのは、やはり武器を生み出す技術であろう。ところが、その武器に、最強ながら禁じ手となっている核兵器がある故に、手持ちの武器を出し切った死力を尽くす戦いができない。決定的に雌雄を決することができず、どちらも負ける気がしないので、停戦に持ち込むのが困難となっている。
武器の技術は、棍棒や剣から始まり、弓矢や遠投器、鉄砲や大砲、巨大艦船や爆撃機を生み出してきた。そして遂に核兵器に達したことで、逆説的に、武器の破壊力の大きさでは勝敗が決まらなくなった。今後は、相手国の無力化を図る電子情報の撹乱技術や、ドローンのような攻撃側の損失・消耗の少ない(戦闘を長期継続可能とする)武器の開発が決め手となろう。併せて、敵国や第三国を操作する情報力や宣伝力、そして究極の生物兵器としての人間による浸透工作が重要性を増す。
この先の技術の発達はどうか。質量変換で無尽蔵のエネルギーを得る、量子チップで超複雑・超高速な情報処理を行う、遺伝子操作で思い通りの生物を作る、等が可能となろう。適切に使われれば、便利で安全で自由度の高い世界が訪れる。しかし、恐怖や陰の情念を梃に、これらの技術を兵器開発、人民管理、生物撹乱などに転用すれば、想像を越えた壮絶な世界が待っている。技術は限りない力を人類に与えてくれる。しかし、技術を進歩させればさせるほど、その運用には賢明さが求められる。