武漢ウイルス感染症(WARS)での勝ち負けを国別にみると、どうであろう。欧州や米国は、ダイナミックな対策を打ち出したが、死者数を見る限りその結果は悲惨である。一時期は良かったアジア諸国もかなりの死者を出している。日本も、多くの国民が危機感をもった割には、感染制御は不如意であった。その中で中国は、WARSの発生国であり大都市が多数あるにも拘らず、大事に至っていない。
報道管制や生物学的な理由(中国人は抵抗性があった?)を無視すれば、民主主義の国は混乱し、権威主義の国(中共国)は感染制御できたとなろう。確かに公衆衛生的な管理には、官憲の強力な統制が有効である。即時の市街隔離や強制入院など、有無を言わせぬ強圧政策が中共国では可能である。その強制力が感染制御に貢献した。つまり、感染症には権威主義国家が有利ということである。
今年のG7では対中包囲網が立ち上がった。自由と民主主義の価値を高らかに謳いあげ、中共国の暴挙を非難した。確かに反社集団中共団の暴力行為は糾弾すべきである。しかし、自由と民主主義は常に人民に好まれるであろうか。実は、世界的に見れば、民主主義がまともに機能している国の方が少ない。米国ですら、大統領選挙に不正が疑われる事態である。そして、WARSに対して民主主義は弱かった。
民主主義は、集団の利益が個人に優先されるという暗黙の了解のもとに成立する。これは、日本人なら昔から知っていたこと(お互い様)ではないか。この土壌がなければ、民主主義の種は育たない。勝手に主張しあう連中ばかりなら、強圧的な権力や時に武力が必要となる。日本で自由と民主主義が可能なのは、国民が共同体としての一体感を持ち、(逆に)世間様を気にするという不自由さを抱えているからなのである。
民主主義を絶やすには、この一体感を破壊すればよい。(あたかも民主的に)正論・美論を掲げて自己主張し、批判を繰り返して不満を煽るのは、共産主義の常道である。これは、民主制度のもつ陥穽である。一方、一体感を強調すれば異論が許されず、文字通り一体となって過てる方向に雪崩れてしまう。だから、批判的というだけで、言動を圧殺してはならない。幸い日本には、古来より自由な物言いを許す文化がある。
では、議論を尽くせばいいのか?議論には時間がかるし、結論が正しいとも限らない。人は愚かである。情報を理解できず、マスコミに操作され、デマや流言を信じ、自分のことだけを考える。議論でも、相手の主張と人格を混同する。快不快、好き嫌い、性的魅力、阿諛追従、血縁地縁、先輩後輩、義理人情などに流され、主張の是非を決めてしまう。これが少人数の上層部でおこれば国運を誤る。
WARS再流行の中いよいよ東京五輪が始まった。ここで日本が勝つ道は、国内の論議に右往左往せず、「WARS混乱のなかでの五輪開催は、日本でなければできなかった」と海外記者に感じさせることである。この評価をもって日本国の持つ一体感の証しとし、その強さを示したい。