見出し画像

支流からの眺め

なぜ不安を煽る報道が続くのか

 武漢コロナウイルス感染症(WARS)の流行について、マスコミは感染者数の増大や医療の逼迫、飲食店の困窮などを積極的に報道する。ウクライナ侵攻には、破壊や殺傷の現場、戦争の悲惨さを報道する。この報道姿勢に沿って、解説者は政治の非力を批判し、流行による大災害や核による世界戦争を予言する。こうした不安を煽る話しは、決して心地良くないのに、妙に受け入れられている。

 不安とは、予想される(現実にはない)恐怖に対する心的反応である。恐怖を思い浮かべることは不愉快である。しかし同時に、その恐怖に心が惹かれる。この二面性が不安の特徴であろう。怖いもの見たさ、怪談を聞きたがる心理に類似する。恐怖を強く意識する仕組みは、進化の過程でヒトの遺伝子に組み込まれたのであろう。未来の危険に対して警戒すれば、生存には有利となるからである。

 不安が生存戦略として正しくとも、過度となれば事情は異なる。身体反応が惹起され、異常行動や睡眠障害に陥る。心理的にも、無意味な恐れを抱いたり、集中力や判断力の低下を招いたりする。個人では神経症に、社会では間違った施策につながる。つまり、不安が過剰になれば、生存の危険を知らせるという有益な特性が生かされず、むしろ理性を低下させる有害な作用が前面に出てしまう。

 不安の強さは、①「恐怖の大きさ」と②「恐怖が起こる確度」の掛け算である。①も②も主観的な要素が大きい。想像の力が働けば、大きな恐怖が湧いて、それらが確実に起こるかのような気になる。万人に共通する恐怖としては、死、病苦、社会的疎外がある。これらの不安に駆られて、多くの人々は、分の悪い生命保険に加入し、効能が怪しい医療を求め、無暗と周囲に同調することになる。

 世の評論は、より危険で不安を煽る事態を予告する。良い方に外れても、危険に対処した結果だと弁明できる。医師が病気の予後を悲観的に告げるのと同じである。しかし、実際の決断を下す者は、結果責任を問われる。政治は結果がすべての所以である。そして、結果が分かってみると、しかるべく(懸念したのと違うふうに)進んでいることが多い。予想を当てるには、その筋書きつまり歴史を学ぶべきである。

 不安の利用法は、対象の恐怖を把握し、歴史を踏まえ理性的に判断し防止策を講じることにある。しかし、防止不能なこともある。そもそも完全な防止は不可能である。となれば、恐怖を受け入れる覚悟を持つしかない。世の宗教は、絶対的な信仰という方法で覚悟を提供している。全ての顛末は神や天の思し召であれば、思い煩う必要もない。信仰を持つ者の強さは、繰り返し証明されている。

 日本でのWARS流行は、幸いに欧米諸国に比して弱い。にも拘らず、WARSへの不安に駆りたてられた行動様式が目立つ。ウクライナの戦闘は、幸いに欧米諸国に比して遠い。にも拘らず、露国への不安に駆りたてられた行動様式が目立つ。日本人は遺伝的に不安に弱い。加えて、帰依すべき宗教心や武士道に代表される覚悟も不足しているようである。不安に振り回されない注意が必要である。

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「世情の評論」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事