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支流からの眺め

富士山(3)富士講と現代の富士登山

 富士講の開祖は戦国時代の長谷川角行(かくぎょう)とされる。角行が修行したのは、富士宮にある人穴(ひとあな)という溶岩洞窟だ(人穴浅間神社あり)。その教えは「良き事をすれば良し、悪しき事をすれば悪し、稼げば福貴にして病なく命長し、怠ければ貧になり病あり命短し」と明快だ。

 角行は百回以上も富士に登拝し、富士山こそ生命の源だとした。また、フセギという護符を配り、お焚き上げで病気の平癒などの霊験を体現して信仰を得た。この教えを広めたのが御師(おし)で、フセギや薬を各地に配って回り信者を集め、富士登拝(巡礼)の案内も引き受けた。

 最盛期の江戸後期には「江戸八百八講、講中八万人」と言われ、関東地方には一万近い講があり十万人近い信者がいた。信者はお金を出し合い、講の構成員から毎年数名を富士山登拝へ派遣した。地元では富士塚を設けて登拝の代替とし、その数は関東一円で六百基以上に登った(約百基が現存する)。

 この信者一行を引き受けたのが周囲の村々だ(吉田、河口湖、須走等)。御師の屋敷は吉田口だけでも百軒近くあり、栄養価の高い食事(鯉料理)や装備を提供した。現存する屋敷の一部は世界遺産となっている。祭事として、4月の胎内祭、7月の開山祭、8月の吉田の火祭り(鎮火祭)などを催した。

 明治以降も御師の繁栄は続いた(村山修験道は廃仏毀釈で衰えた)。しかし、戦争の激化に伴い御師も信者も減少し、物資の不足にも直面した。戦後の1964年(昭和39年)には五合目まで富士スバルラインが開通し、麓の村は宿泊地としての役割を失った。こうして富士講は衰退してしまった。

 ところが、富士登山は衰えるどころか今や世界中から登山者が集まる。求めるのはご利益より霊山への辛い参詣だ。衣装等は不備でも、現代の富士登山は極めて「宗教的な」行為になっている(山頂の神社で礼拝する)。ちなみに、昭和天皇は大正13年、今上天皇は平成20年に登頂された。

 昨今の問題は過剰な登山者数や無謀登山だ。規制するなら、自然保護や安全ではなく「山の神聖性」を根拠にすべきだろう。八合目から上は浅間神社の社有地で聖域なのだ。庚申の年は富士山御縁年(ごえんねん)と呼ばれ人気が高まる。次の庚申(2040年)までに有効な対策を期待したい。(続く)

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