「共産 暴力革命のままと認識」政府が答弁書決定
政府は3月22日の閣議で、共産党が戦後の一時期に掲げたとされる「暴力革命」の方針について「変更はないと認識している」とする答弁書を決定した。無所属の鈴木貴子衆院議員の質問主意書に答えた。
答弁書は、共産党に関し「(戦後)国内で暴力主義的破壊活動を行った疑いがある」と指摘し、今も内乱などを取り締まる破壊活動防止法の調査対象であることを明らかにした。
警察庁は1982年の国会でも「いわゆる『敵の出方論』に立った暴力革命の方針を捨てきっていない」と答弁しており、今回の答弁書は当時の見解を踏襲したものだ。「敵の出方論」とは、党元議長の宮本顕治氏が1950年代後半に「革命が平和的かどうかは敵の出方による」などと述べたことを指している。
共産党の山下書記局長は3月22日の記者会見で「公党に対する不当な侵害であり、厳重に抗議し、答弁書の撤回を求めたい」と語った。
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民進党が誕生したが民主党の出戻りが古巣に戻り、住むべき家をリホームしたようなもので烏合の衆に過ぎないので安部自民党に立ち向かえない。“危機感”を持った共産党が野党勢力の結集を主導している状況下、“暴力革命の方針堅持“のイメージを拡散は共産党にとっては痛かろう。共産党の下に結集せんとした者、若い世代が” 破壊活動防止法の調査対象“であることを理解すればブレーキとして作用する。18歳で選挙権が与えられたからといえ”無知”で共産党に同調すれば”人生の汚点”と化す。共産党は勢力拡大のめには前途有為な若者よりも定年後など”引退組”の高齢者の獲得に精を出差ざるを得なくなろう。
野党が安倍政権打倒、安保法制廃止を掲げて選挙の協力までやろうと動いているタイミングでの今回の質問主意書と政府の答弁書は、共産党に対する意義ある”一撃“である。
暴力革命の方針を堅持する共産党、活動状況を振り返る
1 暴力的破壊活動を展開(昭和20年代)
(1)占領下での勢力拡大
第二次世界大戦終了後、公然活動を開始した日本共産党は、敗戦直後の国民生活の窮乏と社会不安を背景に党勢の拡大に努め、昭和24年1月の衆院選では35議席を獲得し、10数万人の党員を擁するようになった。
(2)「51年綱領」に基づく暴力的破壊活動を展開
日本共産党は、同党の革命路線についてコミンフォルムから批判を受け、昭和26年10月の第5回全国協議会において、「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」とする「51年綱領」と、「われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない」とする「軍事方針」を決定した。
そして、この方針に基づいて、昭和20年代後半に、全国的に騒擾事件や警察に対する襲撃事件等の暴力的破壊活動を繰り広げた。しかし、こうした武装闘争は、国民から非難されるところとなり、27年10月の衆院選では、党候補は全員落選した。
ところで現在、日本共産党は、当時の暴力的破壊活動は「分裂した一方が行ったことで、党としての活動ではない」と主張している。しかし、同党が20年代後半に暴力的破壊活動を行ったことは歴史的事実であり、そのことは「白鳥警部射殺事件」(27年1月)、「大須騒擾事件」(27年7月)の判決でも認定されている。
2「51年綱領」の廃止と現綱領の採択(昭和30年代)
(1)「51年綱領」の廃止
日本共産党は、昭和30年7月の第6回全国協議会(6全協)で、20年代後半に行った武装闘争を「誤りのうちもっとも大きなものは極左冒険主義である」(=革命情勢がないのに武装蜂起した)などと自己批判した。そして、昭和33年7月の第7回党大会で、暴力革命唯一論の立場に立った「51年綱領」を「一つの重要な歴史的な役割を果たした」と評価した上で廃止した。
(2)現綱領の採択
同大会では、「51年綱領」に代わる党の新綱領が「党章草案」(綱領と規約を一つにしたもの)として示されたが、現状規定や革命の性格等について反対意見が多く、党内の意思統一を図ることができなかった。そうしたことから、草案の綱領部分は引き続き討議することとし、この大会では規約部分のみの採択となった。
その後、宮本顕治書記長(当時)の指導の下、3年間にわたる党を挙げての綱領論争と、いわゆる反党章派の幹部の除名等を経て、昭和36年7月、第8回党大会が開催された。そして、同大会で「現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義とそれに従属的に同盟している日本の独占資本である」とする現状規定や、民主主義革命から引き続き社会主義革命に至るという「二段階革命」方式等を規定した現綱領を採択した。
また、両党大会や綱領論争の過程における党中央を代表して行われた様々な報告の中で、革命が「平和的となるか非平和的となるかは結局敵の出方による」とするいわゆる「敵の出方」論による暴力革命の方針が示された。
3「革命を準備する時期」における党勢拡大(昭和40~60年代)
日本共産党は、革命に至る過程を情勢によって「革命的情勢の時期」と「革命を準備する時期」という二つの時期に分け、それぞれの時期において、採用すべき戦術、方針を明確に区別した。そして、現状を「革命を準備する時期」ととらえ、革命の条件づくりのため、長期展望に立って党勢拡大を始めとする各分野での影響力の増大や国会、地方議会での勢力の拡大を図るという戦術を採用した。その後、党勢は拡大し、昭和50年代には、党員40万人、機関紙300万部を超える勢力を擁するに至った。
また、国政の分野では、昭和47年12月の衆院選で40議席(革新共同・推薦2議席を含む。)、49年7月の参院選で13議席を獲得するなど、議席を伸長させた。しかし、その後、昭和55年1月には、共産党が共闘の対象と考えてきた日本社会党が、共産党排除の連合政権構想で公明党と合意し、また、ソ連のアフガニスタン侵攻(54年12月)、ポーランド問題(56年12月)、「大韓航空機撃墜事件」(58年9月)、「ラングーン爆弾テロ事件」(58年10月)等、社会主義のイメージダウンとなる出来事が頻発したことなどもあって、議席数、得票数とも頭打ちとなった。
4 ソ連・東欧の崩壊等による党勢の停滞(平成元年~)
昭和60年3月に就任したゴルバチョフ・ソ連共産党書記長は、停滞した経済等の立て直しのため、ペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(情報公開)政策を押し進めた。そして、この影響を受けた東欧の社会主義国では、民主化要求が急速に高まり、平成元年以降、ポーランドで非共産勢力が主導する政権が誕生したのを皮切りに、「ベルリンの壁」の崩壊に象徴される東西ドイツの統合やルーマニア・チャウシェスク政権の打倒等、東欧諸国の社会主義体制は一挙に瓦解した。
そして、平成3年12月、世界で最初の社会主義国家として大きな影響力を有していたソ連が解体され、69年間に及ぶ歴史に幕を降ろした。
また、中国では平成元年6月、政府が民主化運動を反革命運動として武力鎮圧した「天安門事件」が発生し、共産党独裁国家の民主化運動に対する断固とした態度を示す事件として、全世界に衝撃を与えた。ソ連・東欧の崩壊という事実に対し、日本共産党は、「ソ連共産党の解体は、もろ手をあげて歓迎すべき歴史的出来事」、「(ソ連の崩壊は)科学的社会主義の破綻を示すものではない」などとする宣伝に努めたが、共産主義イデオロギーの破綻が明らかとなったことで党勢は停滞した。
5 日本共産党の現状
(1)宮本議長の引退と「不破・志位体制」の確立
平成9年9月の第21回党大会で、長期にわたって日本共産党のトップとしての地位に就いてきた宮本顕治議長が議長職から退き、以後、不破哲三委員長が党の最高指導者として、志位和夫書記局長とともに党運営に当たることとなった(12年11月の第22回党大会で不破委員長が議長に、志位書記局長が委員長に就任)。
その後、平成10年7月の参院選では、これまでの得票を大幅に上回る約820万票を得て15議席を獲得した。そして、次の衆院選で自民党が過半数割れした際には野党暫定政権に参加する用意があることを強調し、同参院選後の首班指名選挙では、約38年振りに第1回投票から他党党首(菅民主党代表)に投票したり、不破委員長が「暫定政権としては、安保条約にかかわる問題は凍結する」などとする日米安保条約凍結発言を行った。しかし、他の野党は、日本共産党を含めた政権構想には否定的な態度に終始した。
(2)規約、綱領の改定
その後、日本共産党は、平成12年6月の衆院選、13年7月の参院選で議席を減少させ、さらに、15年11月の衆院選では、改選前議席を半減させ、約36年振りに一けた台となる9議席にとどまった。
日本共産党は、平成12年11月の第22回党大会で、規約前文を全面削除する大幅な規約改定を行い、「労働者階級の前衛政党」、「人民の民主主義革命を遂行」、「社会主義革命をへて日本に社会主義社会を建設」等の革命を連想させるような表現を削除した。
しかし、「科学的社会主義を理論的な基礎とする」との党の性格や「民主集中制を組織の原則とする」との組織原則は、「党の基本にかんする、規約として欠くわけにはゆかない部分」として条文化した。
引き続き、16年1月の第23回党大会で、昭和36年7月の第8回党大会で採択して以来5回目となる綱領改定を行った。
改定の結果、マルクス・レーニン主義特有の用語や国民が警戒心を抱きそうな表現を削除、変更するなど、「革命」色を薄めソフトイメージを強調したものとなった。しかし、二段階革命論、統一戦線戦術といった現綱領の基本路線に変更はなく、不破議長も、改定案提案時、「綱領の基本路線は、42年間の政治的実践によって試されずみ」として、路線の正しさを強調した。
このことは、現綱領が討議され採択された第7回党大会から第8回党大会までの間に、党中央を代表して報告された「敵の出方」論に立つ同党の革命方針に変更がないことを示すものである。