オスプレイ、10月運用へ安全宣言 国内飛行認める
森本敏防衛相と玄葉光一郎外相は19日午前、米軍が普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に配備予定の新型輸送機オスプレイについて、日本政府として国内で飛行を認める「安全宣言」を出した。これを受け、米軍は10月中に普天間飛行場で本格運用を始める見通しだ。
両氏が閣議後、首相官邸で記者団に表明した。森本氏は今年海外で起きた墜落事故2件について「人的要因で、機体のシステムによるものではない」と強調。国内での飛行ルールが日米で合意され、「安全性が担保された」と語った。
オスプレイ、防衛相・外相が安全宣言 国内飛行認める(朝日新聞) - goo ニュース
防衛相と外相がオスプレイの安全宣言をしたことにより、国内での飛行訓練及び沖縄県への配備がアメリカの意向どおり来月中旬イ行われることになった。防衛相と外相が独自にオスプレイの安全性を確認する術をもたないので、アメリカの言うことを承諾する以外にない。日本はアメリカにどこまでも従っていくしか生きる道がないのだ。明治維新で日本は「脱亜入欧」を選択し、欧米とともに歩んできた。ところが最近、欧米が凋落しアジアが勃興する時代を迎えたが、日本は「アジアへ戻る」ことが出来ないでいる。「属国」とは一流国でも、大国でもない。このような日本を、公然とアメリカの「属国」とらえる論調が出始めた。
以下に、英の「フィナンシャルタイムズ」の記事を紹介する。
日本と中国と「歴史問題」
(フィナンシャル・タイムズ 2012年8月22日初出 翻訳gooニュース) アジア編集長デビッド・ピリング
3年前に政権を獲得したとき、日本の民主党は外交政策の抜本的な見直しを約束した。日米関係と日中関係のバランスを見直し、過剰な「対米依存」を是正し、中国との緊張関係を改善しようとした。当時の鳩山由紀夫首相は、世界はアメリカ一極時代から多極化へと移行しつつあり、日本は自分たちが生きていく「基本的な生活空間」としてアジアを再発見するのだと述べていた。
壮大なビジョンだった。今ではもうボロボロだが。いかにボロボロかは今週さらに明らかになった。中国が「釣魚台」と呼び、日本が実効支配する尖閣諸島をめぐり、日中で舌戦が繰り広げられた後、週末には中国各地の都市で反日デモが勃発した。こうした日中関係の緊張を受けて、日本政府は駐北京大使を交代したのだ。
政権の座についた民主党は、中国とより親しい関係を築けずにいる。日本にとって最重要の同盟国と言えるだろうアメリカとの関係も、基地問題で何年もグズグズしているため、相手を苛立たせるばかりで、ほぼどん底状態にある。日本政府はアメリカと韓国にも新しい大使を派遣する。韓国大使の交代もやはり、領土問題の再燃がきっかけだ。
アジア関係で日本政府が苦労し続けるのには、はっきりした理由がいくつかある。日本は70年前、アジアの大部分を征服しようとした。領土や歴史教科書、戦争慰霊碑、漁業権、埋蔵石油などをめぐる議論は、その一部に過ぎない。全ての根っこには、戦争中の日本のふるまいと、日本が自分たちの行いについて正しく悔い改めることができていない(と近隣諸国は見ている)問題がある。
けれども日本が特に中国に対して抱える問題と、そしてもっと一般論としてアジアに対して抱える問題は、第2次世界大戦より以前に遡る。そのせいで問題はますます厄介なものになってしまうのが、残念だ。1885年には日本の新聞に「脱亜入欧」という論説が匿名で掲載された。筆者は福沢諭吉だとされている。福沢は、今では1万円札の顔になっていて、武士階級出身の改革派だった。この論説は、中華思想の世界観を捨てて西洋の教えを受け止めるよう説いている。この発想が1868年の明治維新の根幹にあり、迫りくる欧米列強の植民地侵略から日本を守るために明治政府は幅広い近代化政策を実行したのだった。日本は欧米諸国のやることを何でも真似した。よその国を侵略するという習慣も含めて。真似した結果は、残虐で悲劇的だった。
第2次世界大戦の後も、日本は欧米の一員として留まった。戦後直後にアメリカの占領支配を受けて以来、日本は独自の軍隊をもつ権利や、真に独立した外交政策を追及する権利を奪われ、ずっとアメリカの従属国家としての関係性の中にがっちり組み込まれている。
日本が戦争中に何をしたか十分承知している日本人は何千万人といる。多くの日本兵は、どれほどの残虐行為が行われたか、勇気ある証言をしている。日本は数えきれないくらい何度も、自分たちのしたことについて謝罪を繰り返している。それでもなお日本は、ドイツほど徹底的に「歴史問題」に取り組めないままきてしまった。理由はいくつかある。天皇の名の下に戦われた戦争だったにもかかわらず、その天皇が戦後も在位を続けたことが、理由のひとつだ。もう一つの理由は、戦後のアジアが冷戦状態に陥ったことだ。イデオロギーの分断を超えて国々が和解する可能性はほとんどなかった。そして冷戦が終結するや、歴史に関する醜悪な諸問題が、泥沼の中から浮上してきたのだ。
尖閣諸島をめぐる議論は日本の植民地時代の当初に遡る。日本が尖閣諸島を視察したのは1885年。福沢の「脱亜入欧」論文が発表されたのとほぼ同じ時期だ。何者の支配下にもないようだと判断して、日本は1895年に尖閣諸島を日本の領土とした。一方で中国政府は、諸島は中国の地図に16世紀から記載されていると主張。中国の側からすると、日本は欧米に触発された植民地主義に乗り出そうとする時に、諸島を奪取したのだということになる。
島々は戦後、アメリカに統治されていたが、沖縄返還の一環で1972年に日本政府に戻った。中国は、そもそもアメリカのものでなかったのだからアメリカ政府が日本に諸島を返す権利などなかったと指摘する。
中国政府にとっては、歴史的な怨恨を生々しく継続させておくのは好都合なのだ。その理由はよく練り上げられている。そもそも中国共産党は、日本の侵略と戦ったという実績をその正当性の由来の一部にしている。トウ小平は晩年、歴史的和解を求めたが、続く中国指導者たちは近年、歴史的怨恨をまた掘り出してきている。中国の多くの教科書や各都市にある博物館は、日本による残虐行為の描写で溢れているのだ。
中国政府はさらに、日本は太平洋におけるアメリカの代理国だと見ている。無人の尖閣諸島を守る意志がアメリカにあるのかどうか試すことで、中国は日米両政府の間にくさびを打ち込もうとしているのかもしれない。だとするならば尖閣諸島の問題は、台頭する中国とアメリカの戦略的な正面対決という、より大きな文脈の一部ということになる。加えて、諸島を巡る動きは中国政府が完全にコントロールできているわけでもない。尖閣諸島へ先週向かった中国のナショナリストたちの中には、反政府活動家も含まれていた。
この摩擦がどうやって消えていくのか、なかなか予想しにくい。唯一の長期的な解決は、欧州連合(EU)的な何らかのアジア政治共同体を作ることだろう。そうすればかつての仇敵同士は制度的に結びつけられる。しかしそのような計画が勢いを得る見通しは、まったくゼロだ。数年後はもちろん、数十年の間にも。150年前にアジアを脱した日本がアジアに戻るのはたやすいことでないと、日本も気づき始めている。
ブログランキングへ