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東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

15.普遍意識5-7

2011-02-16 00:00:52 | birch99的「黎明」考察
伝統的に多くの導師達は、観念によっては説明のできないものを弟子に伝えるという
問題に際して、幾つかの手段を用いました。比喩はこのような手段の中でも、よく使
われるもののひとつですが、既に識っている者に対しては適切な表現であっても、ま
だ識らない者に対しては、実際とは掛け離れたものの観念を、心の中に造り出すだけ
で終わってしまう危険も孕んでいます。

語り継がれている神話やおとぎ話や民話や昔話などにも比喩的な表現が多いのでしょ
うね。それは、音楽や絵本の世界にも通じるものだと思います(映画や小説やドラマ
やアニメも)。このような物語の中には、一つの切り口から全ての点と点が線で結ば
れるように入り込んでくる事があります。意図的に作り出されるものと、表現者が意
識していないのに(霊界からの働きかけによる?)生み出されるものがあるようにも
感じます。


真理の言葉も、伝える相手が自我意識の中で、過去の経験を寄せ集めて造り上げた観
念(迷妄)によって受け取った場合には、その真意が伝わらずに、むしろ躓かせるこ
とになります。また、この真理の言葉を知識(観念)として知っていることと、実際
に普遍意識を体験してその真意を識ることとは、全く別の問題である点を繰り返し注
意しておきます。

シルバーバーチの霊訓の言葉においても、同じシルバーバーチを敬愛する読者の中で
受け取り方が随分と違う場合があります。「・・・していけばよいだろう。」と思う
人もいれば、「・・・しなくてはならない。」と受け取る人もいます。脅迫的に受け
取ってしまうと、自我意識に頑固な殻を形成してしまうことになりかねません。おそ
らく普遍意識を体験すれば、自我意識を飛び越えた、ハッとするようなところからの
全く別な意識で捉えられるようになるのでしょう。


禅問答にはこの他にも「両手で叩くと音がする。では片手ではどんな音がするか」と
言うような設問があり、それに対して相手が何らかの答えをするという形式を持って
います。この問答には、言葉で表現できないものについて、弟子がちゃんと理解して
いるかどうかを確かめる答え合わせのような側面があって、どの設問にも、真理を理
解している人にとっては成程と思わせるような答え方ができるものです。この答えは
ひとりひとりによって異なり、また同じ人であっても、一瞬一瞬その内容が変わって
しかるべきものです。設問に対する模範解答集のようなものを丸暗記するなどは、全
く無意味なことです。

禅問答の答えは、向こうの世界からのインスピレーションによって得られるものなの
でしょうか?「なぞなぞ」も、一般化されていない広大なイマジネーションの中から
答えが得られます(あんまり関係ないか・笑)。


この他、禅問答にはもうひとつの仕掛けが含まれていて、自我意識によって造られる
考え、つまり個人の過去や経験や知識から論理的に答えを導く方法では、絶対に答え
の出ない設問について考えを巡らせているうちに、自我意識が思考停止、空白の状態
になることがあり、その瞬間に普遍意識が顕現してい悟ると言う、実体験のための手
段にもなっているのです。この方法は偶然に期待するようなところがあるので、本書
では特にお勧めするつもりはありませんが、自我意識の粗雑な波動が鎮まったときに、
それに覆い隠されていた本来の精妙な波動が知覚されると言う、基本的な原理は理解
しておいて頂くと良いでしょう。

脳科学の観点からは、脳内物質(セロトニンなど)や脳波(アルファ波など)の状態
によって心の状態が変わる説明がされていまね。設問についての考えを巡らせるうち
に、脳の状態も変わり、普遍意識からのインスピレーションを受け取り易くするのか
もしれませんね。


例えば肉体に激しい苦痛のあるときには、私達の意識はそのほとんどが肉体に向けら
れているため、日常の精神活動さえ行うことが困難になりますが、これは肉体の苦痛
という粗雑な波動が雑音になって、より精妙な感情や想念の波動に焦点を合わせるこ
とが難しくなるからです。これに対して肉体が充分にリラックスしているとき、リラ
ックスとは必ずしもソファに横たわっているような、肉体が何もしていない状態をい
っているのではなく、楽器を早いパッセージで演奏したり、スポーツをしたりという
ような、激しい運動を伴っているときでさえ、肉体の動きに無理がなく、感情や想念
のはたらきとも適切な連携プレーが行われているときには、その人はリラックスの状
態にあり、これが周囲の状況も含めて高度に調和したときには、普遍意識が顕現され
ることがあります。

「心・技・体」も最高のものを引き出す心がけでしょうから、音楽家の最高の演奏や、
スポーツでの神業なども普遍意識が顕現された状態なのでしょう。


アストラル体の波動領域においても、激しい感情の動きがあると、こうした粗雑な波
動に妨げられて、それよりも精妙な波動領域で表現される精神活動、例えば理性的な
思考ができなくなることは、日常よく経験されています。これとは反対に、思念の表
現領域の媒体である下位メンタル体が雑念を起こしていない状態で、なおかつアスト
ラル体に崇高な感情が表現されて昇華されると、普遍意識のヴァイブレーションと一
致することがあります。後者のような解脱のパターンは、アストラル体の発達してい
る人、すなわち論理的に考えるよりも、感覚的に行動することを得意とする人に多く
看られます。感覚的な判断といっても、全体を観通している普遍意識からくる直観的
な判断であるなら、個人意識の限られた視野の中での論理的な結論に比べて、判断の
正しさが逆転することも理解しておく必要があります。

日常生活においても、多角的に考え抜いて考え抜いて行う行動が、それでもやはり近
視眼的で、直感的な行動が数年後に正しかったりすることもあります。ある程度の幅
ならば良しとし、後は神のみぞ(己のみぞ?)知るという楽観的な思考も大切なので
はないでしょうか?(これではブレる?・笑)


もちろん人間の意識の発達のある段階においては、理性的な思考にも意味があるので
あって、粗雑な感情に振り回されて混乱した生活をするよりは、慎重に考えて行動す
る方が幾分ましであることは確かです。しかしながら、長期間にわたって(魂の計画
に因っては今生だけとは限りませんが)論理的な思考を中心とした精神活動を続けて
いますと、あらゆるものを既成の概念というフィルターを通して見るような習癖がで
き上がってしまい、その世界観が唯一絶対であるかのような錯覚が生じるようになり
ます。いったんこの様な状態に陥ると、元々は自分の心で造り出している概念に、自
分自身が支配されるという自縛の罠が完成し、その人はそれ以外の物の見方ができな
くなって、本来は完全な自由を持っている意識を限定し、固定観念という迷妄の檻で
囲った牢獄に閉じこめて、真実を観えなくしてしまいます(これは感情の領域でも同
じことが言えます)。自我意識が普遍意識の顕現を妨げる障害物にもなりますから、
思念の勝手な動きを鎮めることが、肉体的感覚や感情の統御の次にくる、重要な課題
になります。

この世で生きていれば、肉体的動物感覚や感情の起伏、ブレは発生します。思念もく
るくると巡ります。ある程度の振れ幅は仕方ないと思いますし、それがこの世を生き
ることでしょう。しかし自我意識に埋没していては成長することはできません。やは
り、各々の固定観念を打破するためにも、日常生活において、瞑想などを行うことが
大切だということでしょうか。


黒文字部分:「黎明・上巻」より

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