スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

カルマについての試論(上)

2011-02-18 00:07:31 | 高森光季>スピリチュアリズム霊学
 ちょっとコメント欄で話題になったので、「カルマ」という難題に関して、雑感を記してみようかなと思います。ほんとに厄介な問題で、いろいろと考えてはきたものの、すっきりとわかっていません。相当ぐだぐだした記述になるかもしれませんがご容赦のほどを。

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 「カルマ」という言葉は仏教にとどまらず、神智学、ヨーガ、そしてニューエイジやスピリチュアリズムまで、様々な文脈で語られますが、改めて「カルマとは何じゃい」ということになると、非常に難しいように思われます。
 「カルマ」はサンスクリット語の「カルマン=行為」から来たとされていて、元々は単に「行ない」という言葉ですが、ウパニシャッドや仏教・ジャイナ教などでは「輪廻転生」とセットになって、「来世に果報をもたらす今生の行ない」という意味で用いられ、「業」と訳されます。
 つまり、カルマの基本的定義として、
 「輪廻転生とセットになった概念である」
ということが言えます。
 まあ、考えてみれば当たり前の話で、「死んだら何も残らない(帰無仮説・唯物論)」では、カルマなどという考えは生まれるはずもありませんし、「死んだら裁きを受けて天国か地獄へ行く(セム系一神教)」では、今生の行ないは「罪状一覧表」(笑)となるので、カルマとは言えません。

 輪廻転生という考え方は古くから様々な文明にあるようで、インドでも仏教以前、ウパニシャッド哲学に、すでに中心的命題として登場しています。古ウパニシャッドの代表的哲人ヤージュニャヴァルキヤ(紀元前8~6世紀)はこう説いているそうです。「ウパニシャッドのブラフマン=アートマン(梵我一如)の真理を知る人々は不死の生命を得、そうでない人々は輪廻の苦に囚われ続ける」。
 輪廻転生という考え方が、いかにして人類に抱かれたのか。まあ、唯物論的歴史家は「植物が冬に枯死し春に再生するのを見て類推した」と解釈するでしょうけれども、霊学的に考えれば、これは一部の人間の前世記憶想起や霊的存在からの教えとして当然もたらされる「情報」と見ることができます。だから、どの文明にもあるのが当然、むしろ一神教のように輪廻転生を否定・弾圧する文明の方が異常と言えるかもしれません。

 輪廻転生というのは、一定の個性を持った主体が死んで生まれ変わるわけですから、その個性に付随する性格や業績(善悪とも)が持ち越されると考えるのは、自然なことでしょう。
 また、世の中というものは不条理なもので、善意で生活している人が非業の死に遭ったり、卑劣な人間が富や権力を恣にして一生を終えたりすることがあるわけで、そうした「未精算の善悪」は次の生で決済されるべきだという考えを持つことは、人間として自然なことでしょう。そして、この考え方は、「ひどいことをすると次生でひどいことになるぞ」という勧善懲悪の脅しとしても有効だった。つまり、輪廻とカルマ説は社会の倫理的秩序を保つ役割を果たしたとも言えるわけです。
 (倫理の整合性というものは、実はこの世だけでは完結されない、死後存続を認めない限り成立しないものであって、カルマ論や死後の審判などは、そのことを人間に強く示唆する神話だとも言えるでしょう。)
 まあ、物事にはプラスとマイナスがあるというか、人間はよいものから悪いものを生み出すというか、この「悪事をなすと次生が悪くなる」という考え方は、「今生で悲惨な境涯にいる人間は、前世で悪事をなしたのだ」という考え方を生み出し、ここから冷淡や差別を助長する考え方が生まれてきたということもあります。このあたりの話はちょっと微妙なのでまた改めて。

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 古代的カルマ論には、非常に大きな問題が二つあります。
 一つは、一応「因果律」の体裁を取っていますが、因と果を明確に設定できないということです。
 これは「複雑系問題」でもあるのですけれども、われわれの行為は、限定された単純な系の中で行なわれるものではありません。行為は、それ自体多様な因子から成り立ち、またその影響の及び方も非常に多様です。だから「一つの行為」が正確に「一定の結果的現象」をもたらすかどうかは、決定できないのです(変数が非常に多数であるために単純に解を導き出せない)。
 たとえば、私が今、一人の男を包丁で刺して殺したとしましょう。このことがどういう行為であるかを決定するのは、非常に難しいものです。私が男を憎んでいたか。その憎しみはどのくらい非道なものか。どのくらい弁護の余地があるものなのか。あるいは単に私は誰かを守るために男を刺したのか。その際にどういう感情を持っていたのか。男は善人だったのか悪人だったのか。男が死んだことでどういう影響があるのか。……ごく普通の殺人事件の裁判でも、こうしたところは議論になるところですが、霊的な次元まで含めると、もっと話は複雑になるでしょう。
 そして、この行為に対して、どういう「果報」が生じるのかは、さらに複雑になるでしょう。私が誰かに刺し殺されることでしか因果関係は成就しないのか。事故死や病死ではだめか。刑罰を受けたりすることで、その「カルマ」は減じられるのか。死刑となったらどうか。要するに、次の生にどういう形の「果」が生じたら、因果論は完結するのか。そういうことはまったく人知ではわかりません。
 われわれは、宇宙の本質として因果律が働いているらしいということは推察できたとしても、現象世界において因果律を検証することは、ほぼ不可能だということです。
 また、どう考えてもこの因果律は、物質的な基盤によるものではないようです。そうすると別の基盤(たとえば霊的因果律)を考える必要がありますが、その基盤を人間は知ることができません。

 もう一つは、今生と次生とが直接連続するのかと言う問題です。
 インド的な輪廻観では、魂は死後49日ほど中空をさまよった後に、天界や人界や畜生界などに転生します。これは奇妙な死後存続説で、一種の「霊界否定」の宇宙観です。地上の生と同じ範疇の生が、ひっきりなしに続くのであって、その間に「霊的存在」として過ごす状態は存在しません。天界というのが霊界にあたるという見方もできますが、そこに行くのは非常に少数の魂だけだとされているので、通常の「死後に誰もが赴く霊界」は存在しないことになります。
 こうなりますと、ある生でなした行為の影響がすぐ後の生に引き継がれるというカルマ観は、自然で受け入れやすいものになりますが、現代の輪廻転生説(後期スピリチュアリズムや前世療法などで集積された知見)では、魂はほとんどの場合、「霊界」と呼ぶのがふさわしい世界へ行き、一定の時間を過ごし、その後に地上やその他の世界に生まれ変わるとされています。
 そうなると、当然、「ある生で犯した悪事の償いは、霊界でもなされる」という可能性が出てきます。このことは改めて述べようと思いますが、ともかく、単純に「償いが次の生に」ということは成立しなくなるわけです。

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 こうやって考えると、カルマ説というのは、全体としては何となく納得できるようでありながら、厳密な説明や細部の話になるとまったくわけがわからなくなるという、不思議な観念のように見えます。
 結局、カルマというのは、
 ・悪事をなすと(この生とは限らず)必ず報いがあるよ、という倫理的戒め
 ・先天的な制約(特に負の制約――障害や不幸な出自や災厄)をぼんやりと合理化する概念
というところになるでしょうか。

 ルドルフ・シュタイナーも、カルマについてはいろいろと論じていますが、遺憾ながら小生はきちんと勉強していません。ただ、シュタイナーは、カルマを機械的な因果律システムのようには捉えていなかったようです。
 《カルマについて、シュタイナーはつぎのように考えていた。私がなにかをおこない、やがて忘れるとする。しかし、なんらかのきっかけがあると、私はその事件を思い出す。おなじように、私がなした行為を世界は記憶しており、きっかけがあると、世界はその出来事を思い出す。世界が思い出したとき、その出来事は私に向かって帰ってくる。そのように、いま私に生じていることは、過去の私に原因がある。その原因をいままでの人生のなかに見出せないなら、それは前世に由来すると考えることは可能だろう、というのである。》(ブログ「自由シュタイナー倶楽部」「カルマと医療」[Ryuhan N]より)
 この説明が正しいとすると、シュタイナーのカルマ観は、物質的因果律でも霊的因果律でもない、何か特殊な霊的システムのように思えます。同じ出典には次のような叙述もあります。
 《病気をカルマとの関連で考えるなら、「過去に犯した罪の結果、病気になった」と思うよりも、「過去の過ちを清算し、自分が高まっていくチャンスとして、いま病気になっている」というふうに、病気の積極的な意味を考えることができる、とシュタイナーは述べている。病気を通過しおわれば、かつての過ちは清算されて、人間は前進していくことができる。闘病はカルマ解消のプロセスだというのである。病気になったときは、自分を振り返る機会なのである。自己認識を新たにして、病気を克服していくと、闘病をとおして人間の内面は強まり、新しい健康状態へと進むと考えられている。》
 「カルマとしての病の苦悩=過去の過ちの清算のチャンス」ということでしょうか。

 苦しみがカルマを弁済するという捉え方は、シルバー・バーチもしているようです。バーチは「再生問題は非常に複雑で人間にはわからない」と言っていて、カルマ問題も詳説はしていないように思いますが、特に霊的治療の成否に関連して、言及しています。
 《(カルマ的負債とは)当人に賦課された税金であり、自分で綴っている物語であり、その筋書きは他の何ものによっても書き変えることはできないということです。》(霊訓2 pp.194-5)
 《地上に誕生してくる人の中にはあらかじめそのカルマの解消を目的としている人が少なくないからです。》(霊訓8 p.38)
 《奇形や脳に異常のある場合は、複雑な問題で、これには宿業(カルマ)の要素が入ってきます。》(霊訓9 p.200)
 《もう一度生まれ変わりたいという願望をもつようになる人がいます。奉仕的活動をしたいという場合もあります。成し遂げたい仕事がある場合もあります。償わねばならないカルマ的な“借金”が残っている場合もあります。そういう人たちが地上へ再生するのです。》(霊訓10 p.123)
 《(前世退行催眠について)過去世において大きな影響を及ぼした苦難または悲劇を現世に呼び出し、それを意識することでカルマが消滅することがあります。これは好い結果をもたらす例です。》(霊訓10 p.129)
 バーチはこれを因果律の中に含めようとしていますが、一般に想定される因果律というよりは、「正負均衡システム」みたいなものに受け取れます。要するに、ある生で犯した罪を、その後の生で、病気などの苦しみを通して償う、借金返済プロセスのようなものと言えるでしょうか。
 やはり「苦しみ」は、何らかの弁償となるのでしょうか……

 アラン・カルデックは英米のスピリチュアリズムとは少し異なって、罪や地獄をかなり強調しました。ただ、カルデックはカルマという言葉を使用していません。その代わり、「罪の償い」とか「成長のための課題」といった概念は頻出します。
 『天国と地獄』第七章「この世で過去世の償いをした霊」には、直前の生において、それ以前の生で犯した罪の償いをしたことを語る、五人の霊の証言があります。そこに描かれているのは、
 ・かつて賞賛される人物だったが、慢心し、数々の罪を犯し、神を否定したために、何回か償いの生を過ごし、直前の生では先天性奇形と難病によって八歳ほどで死去した少年。
 ・かつて裕福な貴族としてわがままに過ごしたために、直前の生では人足や乞食となって暮らした男。
 ・良家の息子として傲慢な心で生きたが、直前の生では立派な召使いとして生き、主人の代わりに命を落とした男。
 ・地位ある医者となったが何人もの人に人体実験をして苦しめたために、直前の生では生涯を通じて様々な病気にかかり大変な肉体的苦痛を味わう女性として生きた。
 ・自らの不摂生で30歳で失明したのに、神を呪い自殺したために、直前の生では20歳で失明、40歳で聾唖となり、50歳で死去した男。
というケースです(少し乱暴すぎるまとめですが)。
 これを見る限り、自分が犯した罪を次生で償う――特に人に与えた苦痛を自らが味わう――という構造が基本です。一人の霊は「あなたが原因となって他者に味わわせた苦しみは、必ず、ブーメランのように、あなたのところへ戻ってくるようになっているのです」と言っています。
 これを「因果律」という概念の中に収めることはかなり難しいでしょう。やはり「正負均衡システム」といったものと言えるでしょうか。カルデックは「死後の世界を支配する法律・33箇条」の中で「すでになした悪に見合う善を行う」ことで「償いが完了する」と述べています。
 なお、カルデックもまた「苦しみ」を賞揚しています。
 《地上での苦悩は、天上界での喜びを準備するものです。そして、苦しみというのは、おいしい果肉を包む、苦い外皮でしかないのです。》(p.262)
 《あなたが流す涙は、どの涙も、ある過ちを、あるいは、ある罪を洗い流すものであるのです。したがって、どのような、肉体的・精神的であろうと、諦念をもって耐え忍びなさい。……諦念とともに耐え忍ばない場合、苦痛は不毛なものとなるでしょう。つまり、もう一度、経験しなければならなくなるのです。》(p.280)

 スピリチュアリズムでは、人が犯した罪は必ず償わなければならないと言われます。「蒔いた種は刈り取る」という黄金律はしばしば引用されます。
 ただし、その償い方に関しては、一様ではないようです。死後、地獄のような環境に行き、悪しき欲望が満たされない苦しみを味わうとか、過ごしてきた生を回顧しながら犠牲者たちの苦しみを自ら味わう、といったことが語られています。
 そしてこれらは、霊界で行なわれることです。つまり、罪は一定程度はまず「霊界で償いをする」わけです。(シルバー・バーチも「カルマは霊界でも清算することができます」と言っています[霊訓10 p.126])。
 こうなると、もはやカルマ論を「因果律」で説明することはほぼ不可能になるような気がします。ある行為が生み出す「結果」は、単に現世だけではなく、霊界も含めた宇宙全体に影響する、ということになるのでしょうか。そうすると、もうとても人間には「原因―結果」の判定など不可能になるでしょう。
 つまり、カルマの法則は一般的な因果論とは別の、「いくつもの転生を貫く罪と償いの法」ということになるのでしょうか。

 仏教にはもっと複雑煩瑣なカルマ論があるようですが小生は勉強していません。また、病気や災厄を「カルマのせい」として、そこから様々にあやしい教説や自己の教団の宣伝を導き出す輩も多いようですが(「経営の神さま」のように言われる人もいますね)、そのいちいちをここでは検証・批判しません。

 ただ、現在の輪廻説でのカルマ論は、また少し違った様相を見せているように思います。その点については、また明日にでも。


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