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【諸宗教の超簡単図解の試み】⑦大乗仏教

2011-11-23 00:20:08 | 高森光季>諸宗教の超簡単図解の試み

 釈迦およびその比較的忠実な伝承者による初期仏教から、「大乗仏教」と呼ばれる宗教が生まれました。
 と仏教通史では書かれるわけですが、実際、釈迦の仏教と大乗仏教は同じ宗教と言えるのか、かなり疑問です。また、初期仏教の末期形態である部派仏教から、どうやって大乗仏教が興ってきたのか、その具体的な経緯も、わかっていないことが多いようです。
 また、一口に大乗仏教と言っても、いろいろな「経典」があり、その思想も形態も様々です。華厳、唯識、中観などは、大乗といっても初期仏教の延長のようなところもありそうです。大乗仏教などと一括りにすること自体が間違いなのかもしれません。
 で、ここではそういった細かい話は一切すっ飛ばして(何たる暴挙w)、主に中国・日本で隆盛した大乗仏教ではいかなる超越世界・超越存在が考えられたのか、死後問題はどうなったのか、という点だけにしぼってみます。

 初期仏教には「超越世界・超越存在」はほとんどありませんでした。「涅槃」と「涅槃を果たしたもの=仏」が、かろうじて目標とされた「超越性」だったわけです。「死後世界」も、すぐに輪廻するために、独立して存在しませんでした。
 ところが、大乗仏教になると、様々な超越世界・超越存在が生まれます。大まかに図解すると次のようになるでしょうか。



 まずは「仏(如来)」。もともとは「覚った人」という意味だった「仏陀」は、現界(六道輪廻界)を超えた、「神」のごとき存在となります(この裏で「神々」だった「諸天」は輪廻内存在に格下げになったわけですが)。歴史上の釈迦は、永遠の存在である「仏」の化身と捉え直されます。そして釈迦仏のほかに、阿弥陀仏など、同レベルの神的存在が語られるようになります。その仏たちは、衆生を救う慈悲を持った存在だと考えられます。
 そして「浄土」。これは仏に近い、楽園です。そこへ行くことができれば、もう六道界に輪廻する必要はなくなります。あとは最後の仕上げをして仏になるだけです。
 この浄土にいて、同時に仏の使いのような立場で現世にも降り、衆生を助け導く存在として「菩薩」がいます。もともと菩薩は修行者を表わす概念でしたが、ここでは、「半分神様」「天使」のような存在として、特に利他行、衆生救済に努めます。
 この超越世界は、死後の魂が行くことができる世界でもあるわけですが、そのためにはどうすればよいか。初期仏教では涅槃に至るのはあくまで自力の研鑽によってでした。叡智を知り、正しい行ないをし、煩悩を滅し、業を精算することが必要でした。
 ところが大乗仏教では、「信仰」が加わります。初期仏教が主張したような研鑽は誰にでもできるものではない。また徹底するには相当の時間が(何回もの人生が)必要になる。しかし、仏や菩薩の慈悲を信じて頼れば、その力によってごく普通の人間でも輪廻界を脱することができる。――これこそが大乗仏教のミソでしょう。
 また、修行者や篤信者は、菩薩にならい衆生救済の「菩薩行」をすることが模範とされ、これを行なう者にも、さらにはそれを受ける者にも、輪廻界を脱する可能性が開けました。
 つまり大乗仏教では、「仏になった存在」「仏になろうとしている菩薩」「菩薩行に励む聖者」によって、衆生に「救い=輪廻解脱」がもたらされる、そして衆生は「信仰」によって「救い=輪廻解脱」を達成することも可能になる、ということでしょう。

 初期仏教の構図を見れば、大乗仏教は仏教ではない、くらいにまったく違う宗教だと言うことがわかると思います(もちろん大乗仏教の中にも、初期仏教の「涅槃寂静」に徹し続けた人々はいたことでしょうが)。
 大乗仏教が、初期仏教の正統継承者である上座部仏教を「小乗」と非難したのは、ゆえのないことではありません。初期仏教では、厳しい出家持戒生活をし、瞑想を積み、深遠な哲理を学んで、初めて「解脱」への道が開かれるわけです。修行者は「教え」のほかは何も助けになるものはなく、徹底した自力で、何回もの生をかけて、修行を続けなければなりません。
 また修行者がめざしたことは「自らが輪廻を脱すること」であって、他者救済は基本的に入っていません。「自力の自己救済」であるわけです。
 このこと自体は何ら非難されるものでもないと思います。「自分で進め。自分で自分を救え」。これはまったく正しい態度です。
 ちなみにスピリチュアリズムも、基本は自力です。神や高級霊や聖者が、誰かをぽんと救うことはできない。自己の成長は自分の力で勝ち取っていかなくてはならない。けれども、何らの助けもないかというと、そうではない。いや、見えない形で導きや力づけは大いにもらっている。しかしそれに依存してはいけない。……
 初期仏教から、まったく姿の違う大乗仏教が生まれたのは、なぜでしょうか。単なる大衆化?
 それとも、修行者たちの中に、実際、仏・菩薩と出会い、その導きを得た人々がいたから?【補注】

 いずれにせよ、釈迦の「奇妙な宗教」は、仏菩薩界という超越世界・超越存在を認める大乗仏教によって、かなり普遍的モデルに近い宗教になったと言えるのではないでしょうか(連続性を認めて同じ仏教だと考えればの話ですが)。

【補注】一部の宗教史学者は、大乗仏教の発生にキリスト教の影響を想定しているようです。確かに「一なる絶対者」、「信仰の重視」「他者救済の強調」「罪という概念の発生」など、充分に可能性はあるかもしれません。このあたりことは保留しておきます。


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