スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

【諸宗教の超簡単図解の試み】⑬スピリチュアリズム

2011-12-07 00:10:10 | 高森光季>諸宗教の超簡単図解の試み

 最後です。他にもいろいろ宗教はありますが、あまり勉強していないし、日本では大きな影響もないので、パスします。
 やっぱりスピリチュアリズム・ブログですから、最後はスピリチュアリズムについて述べないといけません(笑い)。
 スピリチュアリズムは「魂の死後の行方」がメインテーマですから、やはり死後世界・超越的世界への言及は多くなり、必然的にその考え方も複雑になります。「自分が立脚している領域だから詳しく丁寧に図解したのだろう」と言われれば、まあそうではありますけれども、複雑なことを言っているのだからやむを得ないというところもあるわけです。
 ただし、スピリチュアリズムが死後世界・超越的世界について、統一的な教義のようなものを持っているわけではありません。スピリチュアリズムが主張する基本点は、「人間の個性は死後も存続する」「霊界と現界は交渉可能」という2点だけであって、それ以上のことは、それぞれの霊の見解やその解釈なので、「これが絶対正しい」という考え方はありません。
 ここで紹介するのも、マイヤーズ通信を主にした宇宙観です。これについてはすでに梅原伸太郎先生が『人間個性を超えて』の訳本に「魂の旅の旅程表」として整理されていますが、移行プロセスの扱いなど、いささか誤解を招きやすいところがありますので、このシリーズの延長として、筆者なりの再整理をしてみます。
 死後世界・超越的世界に関して、スピリチュアリズムが示していることは、単純に言えば、
 「魂は死後、この世に似た世界に行き、多くは生まれ変わってくる。この世で学ぶことを終えたら、さらに高い世界(境域)に行く」
ということになるでしょう。
 さらにマイヤーズ通信によれば、「この世で学ぶことを終えた魂が行く世界」は、この世の原型となるような世界で、さらにその上には、より高次で広い霊界がいくつもある。そのはるか先に神(至高者、絶対者、創造者)=「この世の外」があり、魂が神のもとに辿り着くには長い長い道のりが必要であって、安易に神のことを知ったふりをしたり、神と合一するなどと言うのは、愚かなことだとされます。
 また、この地球に似た生命形態を取る惑星界はほかにもたくさんあり、さらにそうしたプロセスとはまったく異なる進化プロセスを持った世界もたくさんあるということです。そして、高次の霊界になればなるほど、そうした異種の進化プロセスが出会い、統合されていく。より神に近い世界では、人間の想像を絶する多彩な精神活動が集められ、複雑な営みが展開されているわけです。



 われわれはどこから来たのか、どこへ行くのか。――これに対するスピリチュアリズムの答えは、「われわれは神から来た、そして神へ帰る」ということになります。神の創造はまず神に近い世界を生み出し、その世界はさらに神から遠ざかる世界を生み出していく。こうして、「形相界」が創られ、そこから「現世」が創られた。新しい魂は、人間の姿としては形相界から発射されて現世に出現するわけですが、その淵源は、さらに上の世界にあり、それを辿っていけば、結局は神の想像力に由来する。われわれは――そして万象は――神の想像力の小さな断片であることになります。
 そしてわれわれには「死」はありません。現世の生を終えれば幻想界に行き、また何度も生まれ変わりして、もう生まれ変わる必要がなくなったら、形相界へ上昇します。そしてそこでまた学びのプロセスを経て、それを卒業できればさらに上の世界へと向かいます。われわれの前には「永遠の成長の道」が拡がっているのです。

 あまり壮大な世界ばかりを見ても仕方がありませんので、もう少し等身大の話をすれば、次のような図になるでしょう。



 「現世の私」は、「霊界にいる私」の一側面です。「霊界にいる私」は、「現世の私」のほかに、「前世のいくつもの私」を抱えています。そして「霊界にいる私」は、さらに上の世界では「類魂」の一員となり、ゆるやかな連合を構成しています。またさらに上の世界では、そうした類魂は「本霊」のもとに包み込まれていきます。しかし、私が私という主体を失うわけではありません。(「火焔界」の一人格というものは、その中に無数の魂を包み込んだ複合的な人格だと考えられるでしょう。)
 「私」は私でありながら、「霊界の私」とつながっており、そこに包まれている「いくつもの過去世の私」ともつながっています。そして私は類魂を構成する他の魂ともつながっており、それを包み込んでいる「本霊」ともつながっています。つながっているということは、それなりの「支援」もあるわけです。「守護霊」とか「守護神」と表現される存在は、この「私とつながっている、より高い霊界にいる存在」だと考えられます。私はそれらの存在から「霊感(インスピレーション)」という形でサジェスチョンをもらったり、警告を受けたりします(この意味で祈りや瞑想は有効です)。ただし、運命をねじまげて現世利益をもらえるわけではありません。あくまでも自分の生は自分で拓いていくものであり、自分のなしたことは自分が責任を取るものであり、自分を「救う」=成長させるのは自分自身の歩みによるものです。何かを信じたから救われるというようなことはありませんし、欲望を断滅する修行をすれば必ず成長でき救われるということもありません。(「超越性」を信じることは大切ですし、欲望をコントロールすることも重要ですが。)
 われわれがなすべきことは、様々な経験をし、苦悩し、反省し、それらを通して魂を豊かに、より精神的にしていくことです。宗教的な営為――修行や儀式など――は、格別必要なものではありません。今の「スピリチュアル」の人々のように、何か神秘な法則や力を操って現世利益を求めることは、ほとんど意味がありません。

 なかなか受け入れにくい、そして受け入れてもあまり劇的な面白みもない考え方かもしれません。けれども、これは人間が考え出した思想ではなく、一定の信憑性がある「向こう」からの情報を総合した「事実とおぼしきこと」なのです。(もちろん、信憑性などまったくないとする立場もありますが。)
 さて、どうしましょう。


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