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【諸宗教の超簡単図解】⑩浄土教

2011-11-30 00:14:20 | 高森光季>諸宗教の超簡単図解の試み

 前にも書きましたが、浄土教は端的に言えば、仏教とは断絶のある、あるいは仏教を否定した宗教です。
 浄土教の立脚点は、阿弥陀仏の誓願にかかっています。この根拠となる経典は「浄土三部経」と言われるもので、もちろん歴史上の釈迦とは何の関係もありません。
 それによれば、阿弥陀仏は仏になる前の法蔵菩薩の時に、衆生が苦しみの世界にいるのを憐れみ、「もし私が仏となったら、衆生が私を十念すれば私の仏国土である浄土に生まれさせてあげよう。そこでさらに研鑽すれば必ずすみやかに仏になれるだろう」と誓いました。そして法蔵菩薩は阿弥陀仏になったので、その誓願は真実のものになったとされます。
 浄土教では、末法の時代(釈迦が入滅して2000年過ぎ、教えも修行も廃れるとされた時代)の衆生は、これまでの仏教のような学びも修行もできない、だからひたすら阿弥陀の慈悲にすがって、浄土に往生して、やがて成仏することを願うのみである、としました。
 四諦に始まる仏教の哲理も、八正道にまとめられた修行研鑽も、もう必要ない、必要なのは阿弥陀の慈悲を「信じる」ことだけだ、と。
 かろうじて仏教を受け継いだのは、「現世否定」の思想です。この世は無明の苦の世界である、だから浄土への再生を願わなくてはならない。「厭離穢土、欣求浄土(おんりえど、ごんぐじょうど)」が浄土信仰のスローガンです。



 阿弥陀仏は釈迦仏など他の仏と同等の超越存在です。また、やはり超越存在としての菩薩もいます(阿弥陀仏に仕える菩薩としては、観音・勢至が代表のようです)。
 中心になるのは、もちろん「浄土」です。この浄土にもいろいろな境域があるようですが、いずれにせよ、そこに生まれれば現世に生まれ変わることはなくなり、もろもろの苦痛・苦悩も消え、阿弥陀仏の説法を聞いて自ら仏になる修行をするだけです。
 ただし、浄土から、衆生を助けるためにこの世に生まれ変わってくることもあるとされています(還相回向[げんそうえこう])。これは人として生まれ変わってくるのか、菩薩として見えない姿のまま働くのか、よくわかりません。ちなみに法然房源空は勢至菩薩の生まれ変わりと信じられたようです。
 また、浄土が脚光を浴びると同時に、その対極として、地獄がクローズアップされました。もともと地獄は輪廻界六道の一つだった(つまり「永遠の地獄責め」はない)わけですが、浄土信仰では、人は死後、浄土へ行くか、地獄へ行くか、という二つの道を取るというように観念されるようになったわけです(有名な「二河白道」の絵図があります【補注】)。

 浄土教は単純な宗教です(何やら難しい教学を力説する人がいますが、それは自己矛盾でしょうし祖師に背くものではないでしょうか)。阿弥陀仏の慈悲を信じれば、死後極楽浄土に行ける。要諦はそれだけです。ですからどんな無学な人にも広まりました。それを是とするか、いや、それは仏教とは全然別のけしからん宗教だとするか、それは微妙なところでしょう。
 また、浄土教では、すべては「信」の問題になりますが、この「信」、実はけっこうな問題を含んでいるわけで、「正しい信心とは何か」「信心があれば後はどうでもよいのか」といった様々な問題が起こりました。
 ちなみに、浄土教はキリスト教の影響を受けている、特に中国浄土教はそうで、善導が出た唐の長安では景教(ネストゥリウス派キリスト教)が盛んで、そこで交流があった、という説もありますが、真偽はよくわかりません。まあ、「罪」と「慈悲」という構図はキリスト教っぽいですが。

【補注】二河白道の図は、手前の「穢土=この世」と向こうの「浄土」の間に、細い白い橋が架かっていて、橋の両側には炎と荒れる水が拡がっている、そこを死者が渡っていくという構図です。面白いのは「浄土」には阿弥陀仏が待っているのですが、「この世」の側には釈迦仏がいて、死者の歩みを見守るという構図です。「おい、釈迦仏は地獄のようなこの世にいて、死者の背中を押すだけかよ」と思ってしまいます(笑い)。


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