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【「幽霊」とは何ぞや】①幽霊ではないもの

2012-03-26 00:24:15 | 高森光季>スピリチュアリズム霊学

 幽霊目撃談は、星の数ほどあります。「全部でたらめ、偽造、妄想、錯覚」と断定して済ませてしまう人も多いですが、それはあまりに粗雑な精神でしょう。他人様が体験していることに、わざわざ出張って「お前の体験は幻覚だ、お前の頭はおかしい」と言うとしたらこの上ない傲慢でしょう。
 といっても、幽霊現象がすべて「霊の出現」だというわけでもありません。そのあたりを少し丁寧に分析してみることにします。一口に「幽霊」といっても、霊学的に見れば多様な現象が含まれていて、その中にいろいろな「秘密を解く鍵」が隠されているようです。(少々理屈っぽくなりますが、ご勘弁を。)

【錯覚、妄想】
 これはよくあることでしょう。ただ、これの中にもいろいろとあって、「そういうことを考えていた時に起こる現象」とそうでないものは、微妙に意味が違うでしょう。
 たとえば、心霊写真と言われるものの中に、岩肌や木の葉が人の顔に見えるというものがあります。これは、「そういうもの」を探している状態だと、偶然の形がそう見えてしまう(知覚の選好性――「人は見たいものを見る」)という典型です。特に人間は「人の顔(あるいは姿)状のもの」を瞬時に拾い上げる仕組みを持っています。だから、「この写真のどこかに何か人の顔や姿が写っているかもしれない」という思いをもって見れば、なにがしかそれにふさわしいものが選び出されることになります。まあ、こういうものは、多くの人は「錯覚」だと見分けられるでしょう。
 (ただし、「どう見ても顔のようなものが多数写っている」という場合は、また違う解釈が必要になるでしょう。わざとこういう曖昧な形の現象を起こそうとしている霊がいるのかもしれません。このことは後述。)

参考写真:木の影が作った顔




 また、怪談などを読んでいて、頭がそれに感化されている状態で、残像や生活雑音や物体の偶然の動きなどがあった時に、それを「幽霊」と感じてしまうものがあります。普段は当たり前の現象が、そういう心の状態にあると、奇妙に意識され、意味を持ってしまうわけです。これも知覚の選好性が引き起こす現象で、幽霊現象ではありません。

 こうしたものとは別に、通常の生活状態で、突然「錯覚や妄想」が発生する場合もあります。つまり、現実は何も起こっていないのに、またそういうことを考えていたわけでもないのに、霊的なものが感じられたという場合です。この中には「単なる偶然」も多いでしょうが、何らかの「霊的影響力」が介入した可能性(ひそかなサインである可能性)も、まったく排除できるわけではありません。「ふっと人影がよぎったような気がした。後で知ったのだが、その時、遠くの親戚が亡くなっていた」というケースもないわけではないのです。

 要するに、「錯覚、妄想」はよくあることで、それは意味のないことですが、ごく稀には、その中に「何らかのサイン」があることもあるということです。
 (余談ですが、「シンクロニシティ」と呼ばれる現象も、偶然=錯覚・妄想かもしれませんが、意味がある場合もあります。「馬の夢を見て、馬の玩具を拾って、馬の字が含まれた名字の人と会った。何となく馬券を買ったら当たった」――それは偶然かもしれませんが、何かからのサインだったのかもしれません。即座に錯覚・妄想としないで意味を探ると、時には何か得られることがあります。「上」からのサインというのは、留意していると結構あるものです。もっともそれにのめり込みすぎると「関係妄想」という病気になりますが。)

【残留思念】
 これはもちろん一般に認められている概念ではありませんが、いくつかの霊信が示唆しているものです。(『不滅への道』第12章「遺像または魂の殻」、『霊訓』27節など。)
 人間の思念は、「物質」のようなものだと言われます。特に、強く念じられたものは、非常に強固にその場に(あるいはその人の周囲に)残るようです。通常の世界観からは信じられない話ですが、どうもこの「思念は物質である」という命題は、「霊的世界」というものを考える場合かなり重要なことのようです。
 たとえば、自動車事故や火災があり、そこで亡くなった人がいた場合、その死者の思念が、その場所に残ることがあります。(おそらくその場所の「エーテル質」に刻印されているのでしょう。エーテル質は必ずしも生体だけが持っているものではないようです。)
 そこに、「霊媒体質」の人が接近すると、その撒き散らしている運動性を持ったエーテル質のために、残留思念が活性化され、あたかも現実(の人間)のように動き出すということがあるというのです。これには、かなり実体に近い姿を持つ場合もあれば、光景だけの場合もあります。さらには、言葉だけが聞こえたり、感情だけが伝わったりといった場合もあります。
 (物理的な姿や音、香りなどが生じた場合、それは「物理的心霊現象」に属するわけで、霊的存在の介入がないとすれば、思念が非常に強く、かつその場にいる人のエーテル質がきわめて多量な場合のみに起こると考えられます。光景や感情だけが伝わる場合は「情報的心霊現象」になるわけで、エーテル質があまり必要とされないので、起こる度合いも増えるでしょう。)

 よく、悲惨な事件があった場所が廃墟となっていて、「心霊スポット」として幽霊目撃談が多いという話があります。それは、「そう思っていくことによる錯覚・妄想」である場合もあるでしょうけれども、こうした「残留思念」の働きによるものである場合もあります。
 たとえば、昔の戦場とか処刑場とかでは、その当時の残留思念があって、それを目撃してしまうことがあるでしょう。工事現場の災害とか土砂崩れとかの場合もあるでしょう。山や海での遭難ということもあるでしょう。
 こうしたものは「幽霊」ではありません。
 また、この際に活動しているのは、微細なエーテル質なので、多少の霊的感受性を持っている人でないと感知できないでしょう(心霊スポットへ行っても、見た人と見なかった人がいるように)。
 ただし厄介なのは、こうした「残留思念」への接触を契機にして、さらに様々な現象が継起することがあるということです。あまり言及したくない現象ですが、「死んだことを自覚できず彷徨っている(その場に関係ある)霊」がいて、それを契機に、寄ってきてしまうということもあります(『霊訓』27節のケースもそうですが、ほかにも非常にたくさんあるでしょう)。
 また、残留思念を契機にして当人や類魂の「過去世記憶」が呼び出されるケースもあるようです(「ヴェルサイユ宮殿の冒険」――宮殿の庭で突然過去の時間にすべり込んだ体験――はそうしたケースではないかと思います)。

 ちなみに、場所や物体に刻印された残留思念があるということは、「サイコメトリー」という現象でも明らかになります。これは、物品からその所有者の情報を超感覚的な方法で受け取るというものです。19世紀の霊媒全盛期には一種のショーとして行なわれたりもしました。最近ではテレビの「超能力捜査官」などでもよく紹介されました。たとえば、失踪者がいてその行方を知りたい、という時に、その人の使っていた物などを触り、そこから失踪当時の心境や、場合によっては現在の居所などを探査するというものです。この仕組みははっきりわかっているわけではありませんが、物品や場所に刻印された「何か」から、当時の所有者の思念を読み取ったり、それを「合い鍵」のように使って、その後から現在にいたるまでの思念記録を「大記憶庫(アカシック・レコード)」から呼び出したりするものと推察されます。このプロセスが、霊媒のみの能力によるものなのか、霊的存在の援助があって成り立つものなのかは、はっきりとはしません。

 なお、「場所に思念が残る(そして幽霊が出る)などということが本当だったら、大震災や大空襲があった東京は怨念だらけだろう」という意見がありますが、人がたくさん集まって活動する場所であれば、後からさらに刻印がされていくために、古いものは目立たなくなってしまうということではないかと思います。人里離れた場所なら、そういうことがないため、かなり前のものもはっきりと残るということがあるでしょう。
 神社などの「聖地」も、人々がよい思念(崇敬心など)を持って訪れていれば、よい場所になるということがあります。逆に、不埒な思いばかりが集まる場所では、よからぬ思念が積み上がり、さらにそれに引き寄せられてよからぬ霊的存在も集まっているので、悪しき影響を受けたりするわけです。
 ある人が、「場末の飲み屋で飲んでいると、気が滅入ったりすさんだりして、時には愚痴の言い合いや喧嘩になることもある。普段からそういう思いばかりが集まっているせいだと思う。小ぎれいな飲み屋ではそういうことはない」と言っていましたが、あながち贅沢嗜好のせいとは言えないでしょう。


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