地図ヨミWORLD〜世界の豆知識〜

世界にはたくさんの国や地域があり、それぞれ逸話が隠れています。そんな豆知識を持っていると地図を読むのも楽しくなるはず。

アメリカなのかヨーロッパなのかーグリーンランド

2022-11-12 23:57:36 | 旅行

さて、前回の記事でアメリカの庇護のもと第二次世界大戦を乗り切ったデンマークをご紹介しました。

 

今回は第二次世界大戦後のグリーランドと独立問題などに焦点をあてていきたいと思います。

 

 

アメリカからの助けで第二次世界大戦でも大きな被害を出さずに乗り切ったグリーンランド。

1953年には植民地から海外郡へと昇格しデンマーク議会に代表を送れるようになります。

 

しかし第二次世界大戦後のヨーロッパではアメリカや日本といった経済大国に対抗するため、

フランスやドイツなどを中心に経済統合が進められていました。

デンマークも国民投票の結果1973年に欧州共同体へ加盟することになるのですが、

実はこの投票、グリーンランドでは反対票のほうが多かったんです。

 

というのも、グリーンランドは地理的にヨーロッパよりも北米大陸のほうが近く、

貿易などもアメリカやカナダのほうがほかのヨーロッパ諸国よりも多かったんですね。

実際首府のヌークからはコペンハーゲンやパリまでは約3,500kmほどなのに対して

ニューヨークまでは約3,000km、モントリオールまでは約2,500kmとかなり近いですね。

そのためグリーンランドとしてはいくら欧州域内の貿易が自由化されてもその恩恵にあずかれず、

逆に域外貿易の関税があがるなどマイナス面のほうが多くなってしまったのです。

 

こういった問題をうけてグリーンランドでは独立運動が盛んになっていき、

1978年には一部の外交権も含めた高度な自治権を獲得し、

1985年には独自で欧州共同体からの離脱を行っています。

 

しかしながらデンマーク本国は現欧州連合の加盟国となっているため、

デンマーク国籍を持つグリーンランドの住民は自動的にEUの市民権を保持します。

一方でグリーンランド自体はEUに加盟していないため、

欧州議会などの選挙権はグリーンランドでは行使できない決まりとなっています。

 

 

それではグリーンランドとアメリカの関係とはどのようなものなのでしょうか。

 

グリーンランドは先述の通り、第二次世界大戦中にアメリカの庇護下に入っていました。

そしてそのまま世界は冷戦期に突入するわけですが、

アメリカから見て地理的にソ連に近いグリーンランドは戦略的に重要な地とされ、

グリーンランド西岸北部にあるチューレに爆撃機用の基地が建設されることになります。

1953年に完成したこのチューレ空軍基地はソ連からの攻撃の迎撃基地とされ、

1961年には弾道ミサイル早期警戒システムが配備、基地の人員は1万人を超えていました。

 

その後基地の規模は縮小され現在はアメリカ宇宙軍の基地となっていますが、

弾道ミサイルの警戒や人工衛星の追跡などの任務が行われています。

 

そんな地理的、歴史的に近い関係にあるアメリカ合衆国との関係について、

2019年にある事件が発生します。

 

それは当時のアメリカ大統領であったドナルド・トランプ氏が

グリーンランドの購入を検討しているとされた事件でした。

この際特に具体的な金額などが明示されたわけではありませんでした、

トランプ大統領もグリーンランド購入に「非常に興味がある」と乗り気な姿勢を見せ、

もしデンマークが受けるのであれば実際に購入を考えていたと報じられています。

しかし実際にはデンマークのフレデリクセン首相、グリーンランドのキールセン首相は即座に拒否、

トランプ大統領はそのあとに予定されていたデンマーク訪問を延期するという事態にまで発展しました。

 

このグリーンランド購入に関しては単なるトランプ大統領の気まぐれではなく、

グリーンランドに豊富に眠るとされる地下資源などについて

近年中国やロシアが積極的に進出しているとされてきたこともあり、

それを牽制する意味合いもあったとされています。

また過去にはトルーマン大統領が1946年に1億ドルでグリーンランド購入を

デンマークに持ち掛けていたことがあるほか、

第一次世界大戦後には実際にアメリカがデンマークから

現在のアメリカ領バージン諸島を購入している経緯もあります。

 

しかしそこはデンマーク王国の構成国であるグリーンランド、

またトランプ大統領のキャラクターもあってか

このアメリカによるグリーンランド購入計画は一蹴されてしまったのです。

 

 

ではグリーンランドがこれからもデンマークとともに歩いていくかというと、

決してそうではありません。

現在でもグリーンランドでは独立問題が大きなファクターとなっています。

前回の記事から紹介していますがもともとグリーンランドはノルウェーの植民地であり、

また現在グリーンランドの住民は多くがアメリカ先住民イヌイットの子孫です。

つまり歴史的にも文化的にもデンマークから遠く離れています。

 

そのためグリーンランドではかねてより独立運動が盛んに行われてきており、

1979年以降には高度な自治権を獲得しています。

2009年にはこれまで公用語であったデンマーク語が外され、

グリーンランド語のみが公用語と認められています。

しかしいまだにデンマークにとどまっているグリーンランド。

それはなぜかというと、「お金がないから」なんです。

 

グリーンランドの主産業は漁業であり、輸出の9割近くを占めています。

現在もかつてグリーンランドを支配していた王立グリーンランド貿易会社を前身とする

ロイヤルグリーンランド社が世界有数の水産業者として経営を続けており、

日本にもエビを中心に多く水産物が輸出されています。

 

しかしそれ以外にはグリーンランドの経済を支えるほどの産業はなく、

観光業も冬が厳しく観光向きの季節が短いことや交通の便があまりよくなく

旅費が嵩むことからあまり成長していません。

一方でその厳しい気候から農業はほぼ行うことが出来ず、

食糧などは輸入に依存せざるを得ないのが現状です。

そのためグリーンランドは歳入の多くをデンマーク本国からの助成金に頼っており、

その額はデンマークの総輸出額を上回るほどの規模なのです。

そのためデンマークから独立しても食料などの輸入を賄うだけの歳入がなく

国としてやっていけなくなってしまうのです。

 

それがネックでなかなか独立に踏み切れなかったグリーンランドですが、

実は近年その様相が変わってきているんです。

 

その理由のひとつは地球温暖化です。

現在地球温暖化は極地の氷が融け海面が上昇しているとして

南洋の島国が沈みかけているなど深刻な問題を引き起こしています。

しかしグリーンランドのおいては若干事情が異なるんです。

グリーンランドには石油などの多くの地下資源が眠っているとされていますが、

島の大半が厚い氷に覆われておりその採掘は非常に困難とされてきました。

しかし温暖化でその氷が少しずつ解けてきており採掘できる可能性が高まり、

新たなグリーンランドの産業として大きく注目されています。

 

そしてそういった資源の採掘に大きく関わっているのが中国の存在です。

グリーンランドには世界最大規模のレアアースの鉱床があり、

グリーンランドミネラルズという会社が採掘や加工を行っています。

現在はこの会社の株式を中国企業である盛和資源が取得しており、

このレアアースの加工を一手に担っている状態になっています。

なおこの盛和資源の株式は中華人民共和国政府の自然資源部が持っており、

中国政府の影響力が非常に強い会社なんですね。

先述のトランプ大統領のグリーンランド購入発言も

こういったグリーンランドにおける中国の影響力拡大に釘を刺す目的もあったのではと言われています。

 

しかしグリーンランドではこうした鉱物開発でデンマークからの助成金への依存が少なくなり、

デンマークからの独立のトリガーになるともされこの開発を歓迎する意見も少なくありません。

しかしそれは裏側には中国など別の大国の影響下に入ることでもあります。

 

このままデンマークとともに未来に歩いていくのか、

もしくはその傘から一歩踏み出して独自の道を歩いていくのか。

 

これからもグリーンランドには注目していかなければなりません。


世界で一番大きい島ーグリーンランド

2022-11-12 19:55:17 | 旅行

さて、世界で一番大きい島はどこでしょうか?

この質問に答えられる人は多いと思います。

そう、グリーンランドです。

ちなみに二番目に大きい島はニューギニア島です。

 

このグリーンランドの面積は約218万㎢と日本の約6倍弱と非常に広大な島です。

緯度が高いためメルカトル図法の地図でみるとオーストラリア大陸をも遥かに上回る超巨大島に見えますが、

実際にはオーストラリア大陸が700万㎢とグリーンランドの3倍以上のサイズなんですね。

 

ではこのグリーンランドは一体どこの国なんだ?というと

少し回答に窮してしまう人もいるかもしれません。

 

正解は「デンマーク」なんです。

 

グリーンランドは地理的には北米に位置していますが

デンマーク本土やフェロー諸島とともにデンマーク王国を構成する地域のひとつです。

つまり政治的にはヨーロッパなんですね。

 

ではなぜこの広大な島がいまデンマーク領として残っているのでしょうか。

 

そもそもグリーンランドには紀元前からアメリカ先住民が度々居住していた形跡がありますが、

ヨーロッパ人が到達したのは10世紀末のことでした。

ヨーロッパ人として初めて到達したのは「赤毛のエイリーク」と呼ばれるヴァイキングで、

出身は現在のノルウェー南部とされています。

彼はノルウェーを殺人の罪で追放された後大西洋に繰り出してアイスランドへと移住します。

しかしそこでも再び殺人の罪で追放されてしまった赤毛のエイリークはさらに西へと向かい、

現在のグリーンランドに到達することとなりました。

 

赤毛のエイリークは追放期間であった3年を待ちアイスランドに帰還しますが、

その際アイスランドにてグリーンランドへの入植者を募ることになります。

この時にかの地を「グリーンランド」と命名したのも赤毛のエイリークでした。

実は彼が住んでいたアイスランドは同様にノルウェー人が移住していましたが、

「氷の島(アイスランド)」という名前のためになかなか入植者が集まらず

苦労したとの逸話が残っていました。

そのため赤毛のエイリークは敢えて名前を「緑の島(グリーンランド)」と名付けて

入植希望者を増やそうとした、これがグリーンランドの名前の由来と言われています。

 

この由来に関しては文献などの証拠が残っているわけではないので、

あくまでひとつの説にすぎませんが、なんだかロマンのある話ではあります。

 

 

こうして赤毛のエイリークに率いられたアイスランド人たちが続々とグリーンランドへ移住し、

12世紀のピーク時には数千人規模の集落が2か所グリーンランド南部に作られています。

そして13世紀以降は彼らの故郷であるアイスランドと同様ノルウェーの支配下にはいるのですが、

その後14世紀後半に本国であるノルウェーが王家の断絶によりデンマークの配下になり

それに伴ってノルウェーの支配下にあったアイスランドやグリーンランドもデンマークに従属することになったのです。

 

しかしながら気候の変化などの様々な要因が重なったこともあり、

ヨーロッパ人の定住は15世紀後半にはいったん途絶えてしまい、

元々住んでいたアメリカ先住民が残るのみとなってしましました。

 

 

1536年、カルマル連合の解消及び伯爵戦争を経て、ノルウェーは正式に独立を失います。

それに伴いノルウェーの植民地であったグリーンランドやアイスランド、フェロー諸島なども

完全にデンマーク王のもとに属するデンマークの土地となったのです。

 

こうして正式にデンマーク領となった後もしばらくはそのまま放置されていましたが

18世紀中盤にデンマークは改めてグリーンランドの調査を行い、

ゴッドホープ、現在の首府ヌークを建設し再定住化が図られます。

1814年にはナポレオン戦争で敗戦したデンマークからノルウェーが分離しますが、

分離したのは本国のみで、グリーンランドなどの植民地はデンマーク領として残留します。

なおノルウェー本国は独立したわけではなく、スウェーデンに引き渡されています。

 

当時のグリーンランドの交易や統治はデンマークの王立グリーンランド貿易会社が行っていました。

しかし、この会社は主に交易を中心に運営しており、政治的な部分はかなり疎かな状態でした。

そのため1931年、ノルウェー人の捕鯨業者がグリーンランドの東海岸に上陸し、

無主地先占(ほかの国家の支配が及んでいない地域は最も先に支配下においた国が領有する)に則り

グリーンランドの一部をノルウェー領であると主張するという事件が発生します。

たしかにグリーンランドにおけるデンマーク人の居住地は島の南側に限られており、

ノルウェーが上陸した島北部東海岸側はまったくの無人地帯でした。

また王立グリーンランド貿易会社は統治にはあまり関与せず行政区域を設定するなどしていなかったため、

「デンマークの主権が及んでいない地域」としてノルウェーに隙を突かれたような形になってしまったのです。

 

結果的にこれは常設国際司法裁判所によりデンマークの主権が認められたため

グリーンランドの一部がノルウェー領となってしまう事態は避けられました。

ただノルウェーとしてはもともと自分たちの植民地であったグリーンランドを

一部でも取り戻したかったのかもしれませんね。

 

 

さて、グリーンランドはこのノルウェーによる占領のほかに第二次世界大戦でも危機に陥りました。

1940年4月、ドイツ軍により電撃的な侵攻を受けたデンマークでは数時間のうちにコペンハーゲンが陥落、

デンマーク政府は侵攻を受けた当日にドイツ軍に対して降伏します。

ドイツと同じゲルマン系国家であったことからデンマーク政府もデンマーク王もコペンハーゲンに留まり、

ドイツと防共協定を結んだのちに対独協力を行わされていました。

しかし当時の駐米デンマーク大使であったヘンリック・カウフマンはグリーンランドを守るためにアメリカと交渉、

独断でグリーンランドをアメリカの保護下に置く代わりに、連合国に基地の使用を認めます。

対独協力を強いられていた本国政府は当然これを認めませんでしたが、

本国を占領で失ったグリーンランドは基地の使用の見返りとして防衛及び生活物資の提供をアメリカから受け

戦争中にも関わらずヨーロッパの国々に比べると比較的ましな生活水準を維持していたとされます。

 

このため戦後デンマークは対独協力を行っていたにも関わらずカウフマンの行動により連合国側の一員と認められ

国際連合の原加盟国ともなっています。

 

なおこの際積極的にドイツに協力したとされたデンマークのクヌーズ王子は

戦後兄のフレゼリク9世の即位に伴い王位継承権第1位になりましたがこういった経緯から

国民からの人気が非常に低く、これがデンマークにおける女子の王位継承を認める憲法改正へとつながります。

その結果クヌーズ王子は王位継承権を失い、代わりにフレゼリク9世の長女マルグレーテが王位を継承することなります。

それが現在のマルグレーテ2世デンマーク女王陛下ですね。

 

 

こうして第二次世界大戦を乗り切ったグリーンランドは今度は冷戦期の中で

今度はアメリカとヨーロッパという2つの勢力の間で揺れ動くこととなります。

 

またそれは別の記事で。


果たしていつでも一国二制度が続くのかー香港

2022-11-12 16:01:34 | 旅行

「100万ドルの夜景」の異名をとるアジア最大級の世界都市、香港。

19世紀にイギリスの植民地になって以来アジアの経済拠点として発展してきた香港。

その香港も1997年をもってイギリスから中国に返還されました。

しかし香港は「一国二制度」という特殊な行政区域に分類されています。

この一国二制度とは何で、また現在の香港はどのような状態に置かれているのでしょうか。

さて、1997年の香港返還に向けて発表された中英共同声明において、

中国は香港において本土で行われている社会主義政策を実施せずに資本主義政策を50年間に渡って維持するという

「一国二制度」を導入することが約束されました。

これに基づき1997年7月1日の主権移譲以降は中華人民共和国政府が外交権や軍事権を掌握し、

これまでのイギリス軍にかわって人民解放軍が香港に駐留するようになります。

一方で一般的な社会経済制度はイギリス領の時代から変わらず、

法体系もイギリス領であったころのコモンローがそのまま用いられることとなりました。

 

この一国二制度においては香港経済の自由度は維持されており、現在でも香港は

「世界で最も自由な経済体」のひとつに挙げられています。

イギリス植民地時代、特に第二次世界大戦直後の時代は繊維産業などの軽工業も盛んでしたが、

現在そういった製造業などは香港の北側、深圳や東莞など珠海デルタ地域に移行しており、

香港自体は金融や物流拠点として性格が強くなっています。

 

また土地が少ないことからサービス業が域内産業のうちサービス業が80%以上を占めるなど割合が高く、

特に観光業はGDPの5%を占めるまでに成長しています。

香港の美しい夜景が一望できるヴィクトリア・ピークや繁華街に立地する大規模なショッピングモールなどが人気で、

2005年にはランタオ島に香港ディズニーランドがオープンしています。

 

 

一方で政治や社会制度はというと、現在香港では一国二制度が守られているとは言えない状況です。

現在香港では香港版ミニ憲法ともいえる「香港特別行政区基本法」のもと

高度な自治権を有しており行政長官や立法会の完全なる民選の検討が規定されています。

しかしながら香港が返還されてから25年以上が経過した現在でも民選化はされておらず、

そればかりか民主化が後退しているといわれています。

 

香港には表向きには中国共産党の組織は存在しないことになっています。

しかしながら香港の実質トップである行政長官の選挙は直接選挙ではなく間接選挙で選ばれるのですが、

この選挙に立候補するためには選挙委員会を通して中国当局の許可が必要となっているんです。

また選挙委員会も基本的には親中団体のみで構成されており、民主派の人は選出されません。

つまり「中国当局が許可した人」を「親中団体から構成させる選挙委員会」が選ぶという

実質的に中華人民共和国の意に沿う人しか行政長官になることができないシステムなのです。

 

これに対しての香港人の不満は大きく、度々デモなどが行われてきました。

なお香港基本法では2007年以降直接選挙へ切り替える可能性も示唆されていましたが、

「2007年以降とは2007年のことではない」との法解釈でいまだに切り替えが行われていません。

こういった法解釈の権利も香港政府ではなく全国人民代表大会(全人代)が持っているんですね。

 

 

そんな香港の民主化運動をめぐって近年注目されたのが香港国家安全維持法です。

香港国家安全維持法は2020年の6月に全国人民代表大会で成立した法律で、

中華人民共和国政府は独自の治安維持機関を香港に設置することができ

場合によっては逮捕した人を香港以外の場所で裁判にかけることができるようになります。

また民主化運動など安全保障にかかわる裁判は裁判官を行政長官が指名できたりと

香港の安全保障に中国政府が大きく関わることができるようになったのです。

もちろんこの法律の解釈は香港政府でなく中国政府に委ねられています。

 

この法律により香港の司法は大幅に中華人民共和国のものに近づいており、

これにより中国政府の裁量で民主化運動の賛同者などを容易に逮捕できるようになり、

香港市民の表現の自由に大きな制約を与えているとされています。

 

実際にこの法律が施行されるにあたり多くの人がSNSへの様々な投稿を削除したり、

民主派企業が抗議行動などを支持する広告などを一斉に撤去するなどの影響が出ています。

 

また施行翌日には同法による初の適用者として10名の男女が当局に逮捕されました。

 

 

この法律に対しては香港の自由を奪うとして世界中からも批判の声が上がっており、

旧宗主国のイギリスは外相が言論の自由に対する攻撃であるとして非難しており、

300万人あまりの香港市民にイギリスの国籍を付与することを検討していると発表しました。

 

またアメリカもポンペオ国務長官がこれは一国二制度の約束違反であるとして批判したほか

トランプ大統領も「香港の自由は保障されなくなった」と発言しました。

 

 

なおこの法律では国外にいる外国人でもこの法律で処罰をすることが可能になり、

香港は国際刑事警察機構を通じて犯罪人引き渡し条約に基づき

条約締結国に容疑者の引き渡しを求めることが出来るようになっているため

カナダなど香港との条約を停止した国もありました。

 

日本は現在香港とは犯罪人引き渡し条約を結んでいないため

日本にいる日本人が同法に抵触したとして香港に引き渡される恐れはありませんが、

日本からも近く多くの日本人が住み、また日本にも多くの香港人がいることを考えると

この香港の問題は「他人事」ではないと思っていかないといけないのではないでしょうか。


大英帝国の拠点からアジアの中心へー香港

2022-11-12 13:48:58 | 旅行

「100万ドルの夜景」の異名をとるアジア最大級の世界都市、香港。

19世紀中盤から20世紀の終わりにかけてイギリスの植民地として華麗なる発展を遂げました。

前回の記事ではなぜ香港がイギリスの植民地となったのか、その過程をご説明しましたが、

今回は香港がイギリスの植民地となってから国際金融センターとして発展するまでの経緯をご説明しましょう。

 

 

さて、度重なる戦争のあとに1898年に新界地区を含めた現在の香港の基盤が出来上がり、

香港政庁のもと大英帝国のアジアにおける拠点として発展してきました。

 

しかし1941年に太平洋戦争がはじまるとイギリスおよび中国と戦争をしていた日本軍が香港に侵攻し、

1か月もたたないうちにイギリス軍は降伏、香港は日本により設置された香港軍政庁の統治下にはいります。

しかしこれまで香港の経済を支えていた東南アジアにあるイギリスの植民地やオーストラリアなどとの

貿易が完全に停止してしまい、香港は経済的苦境に立たされることになります。

また香港軍政庁は香港ドルに代わり大量の軍票を発行したため急激にインフレーションに見舞われ、

香港に住んでいた多くの中国人が本土に流出し、戦争前は160万人ほどいた香港の人口は

日本の敗戦によりイギリスに返還された1945年には60万人程度まで減少していたとされています。

 

 

そして第二次世界大戦が終結した後、当時中国を統治していた国民党率いる中華民国政府がイギリスに香港の返還を求めますが

イギリス政府はこれを拒否し、中華民国政府とイギリス政府が交渉に入ることになりました。

しかし今度は中国で国民党と共産党が内戦に突入、その結果中国大陸は共産党が支配することになり中華人民共和国が樹立され

国民党政府は台湾島へ逃げ台湾にて中華民国政府として直接統治を行うこととなります。

アメリカやフランス、日本などの西側諸国は当初台湾の中華民国政府を正式な中国として承認していましたが、

イギリスは香港で接する華南地域を実効支配している中華人民共和国政府を無視することはできず、

また中華人民共和国も西側諸国であるイギリスとの国交樹立を急いでいたことから香港返還問題は棚上げしたまま

1950年に西側諸国としては初めて中華人民共和国を国家承認して国交を樹立することになります。

 

しかしイギリスはなんだかんだいっても西側諸国であり、ソ連など東側諸国とは対立関係にありました。

国連においても常任理事国である中国の代表権をめぐり、西側諸国は中華民国政府を、東側諸国は中華人民共和国政府を推しており、

西側諸国でありながら中華人民共和国を承認しているイギリスは非常に難しい立場に立たされることになります。

 

そこでイギリスがとった作戦は「とにかく賛成する」こと。

 

国連では中華民国寄りの決議には西側が賛成し東側が反対し、逆に中華人民共和国寄りの決議には西側が反対し東側が賛成します。

しかしイギリスはこの難しい立場から中国絡みの決議には内容にかかわらずすべて賛成票をいれることとし、

どちらの立場にも肩入れしないいわば「中立」の状態を維持していたのです。

 

 

では棚上げされていた香港返還問題はどうなるか?といえば、実はそのまま棚上げされたままとなります。

というのも中国は朝鮮戦争への介入を皮切りに大躍進政策の失敗や中ソ対立などによって急速に国際的孤立を高めています。

その中で中国と国交のあるイギリスの植民地である香港は中国にとって唯一の西側諸国への窓口であり、

香港が返還されてしまうよりもイギリスの植民地のままであったほうが中国にとっても都合がよかったのです。

 

 

またこのイギリスと中華人民共和国との関係が香港の経済構造に大きな変化をもたらします。

第二次世界大戦前は香港は中国大陸と東南アジアなどとの中継貿易で栄えてきた都市でした。

しかし中国が共産化したことでその中継貿易に依存することが難しくなってしまいました。

一方で、これまで中国金融の中心地であった上海が共産党の支配下にはいったことで、

外資系の金融機関や企業が一斉に上海から逃げ出し始めます。

その避難先として選ばれたのが同じ中華圏の資本主義勢力下にある香港であり、

上海が一工業都市に戻る一方で香港が中華圏内における一大金融中心地にのしあがることになるのです。

 

また世界が飛行機の時代に突入したことでアジア各地にアクセスのしやすい香港の立地は

東アジア及び東南アジアの物流のハブとなることに充分に事足りました。

また中国大陸での文化大革命から逃れてきた人々やベトナム戦争の難民などが香港に集まってくるようになり、

香港の人口や経済力が急速に伸張し、同じくアジアで急発展を遂げていた東京とともに

アジアを代表する世界都市へと成長していくことになるのです。

特にイギリスの植民地であり、東京と異なり英語の通用度が高いことから

多くの多国籍企業が香港に進出し、アジア太平洋地区の拠点としています。

 

 

こうしてアジアで確固たる地位を確立した香港ですが、1980年代になってくると返還問題が再燃します。

これまでの返還問題はあくまでイギリスと中国の交渉次第というところがありましたが、

今回は1898年に租借した新界地区の99年間の期限が切れるという契約に基づくもので、

これまでのように中途半端に棚上げしたままにしておくことができないものでした。

これに対して時の英国首相マーガレット・サッチャー氏は中国が強力に返還を求めてくることはないだろうと

予測しており、新界地区の99年間の租借期限を延長する方向で交渉に入る予定でした。

 

しかし実際に中国側の代表で会った鄧小平氏は租借期限の延長を断固拒否。

イギリスに香港の返還を求めるようになります。

 

ではなぜこれまではイギリス領香港という存在が必要だった中国が返還を求めるようになったかというと、

この理由には中国国内の経済構造の改革が挙げられます。

中国はこれまで共産党の支配下のもと外資系企業の自由な経済活動には大きな制限をかけてきました。

そのため上海など主要経済都市にも外資系企業は少なく、香港が外国への窓口になっていたのです。

しかし1980年代にはいると中国の改革開放政策が進展して上海や厦門などに経済特区が設けられ

多くの外国企業が進出してくるようになります。

つまり香港以外にも中国にとって西側諸国への窓口になる都市が出来てきたんですね。

 

そうなると中国としては一大経済都市である香港をみすみすイギリス領のまま放置しておく理由はなく、

「約束通り返してもらおうか」という話になるわけです。

 

 

しかし思い出してみましょう。たしかに新界地区は99年間の期限をつけられた租借地域ですが、

その南の九龍半島と香港島は条約によって永久にイギリスに割譲されている土地のため、

新界のみを返還して香港の心臓部である両地域はイギリス領のまま保持するという選択肢もあったはずです。

しかしそうは出来ない理由は香港にはあるのです。

 

香港が経済的に大きく発展した理由としては冷静という社会構造や立地のほかに、

「積極的不介入」という香港政庁の政策も大きくかかわっています。

香港経済は自由主義に基づており、経済活動の制約が少なく税率が低いことが特徴です。

つまり、本当に必要なこと以外に政庁は関与せずに企業活動に任せるということです。

この自由度の高い経済を求めて多くの企業が香港に進出してきています。

しかし、税率が低いということはつまりそれだけ政庁の収入が少ないということにつながります。

ではどうやって政庁は稼いでいるのか?というと、実は新界地区の不動産収入だったりするんです。

 

香港は人口が急増した影響で住宅地が足りず、広大な新界地区でも大規模な住宅開発が行われていました。

香港政庁は新界地区の土地を開発業者に売却したり貸与したりすることで収入を得ており、

それが低い税率による少ない税収入を補うことにつながっていたのです。

つまり新界地区を失うということはこの重要な財源を手放してしまうということにつながります。

またこの住宅開発により新界地区には香港中心部に勤めるたくさんの人々が居住しており、

仮に新界地区のみが中国に返還された場合、毎日多くの通勤客が国境を通過することとになり

その手続きに膨大な手続きが予想されます。

 

そのため新界地区のみを中国に返還するというのはイギリスにとっては現実的なものではなく、

「新界地区の租借期限を延長しイギリス領のままとする」か「香港をまるごと返還する」かの二択だったんですね。

九龍半島と香港島ならまだしも99年間の期限を条件に租借した新界の返還を拒否することはイギリスにはできません。

当初イギリスは新界のみの返還も検討していましたが、上記の理由や鄧小平の強硬な主張により折れた形にになり、

1997年7月1日にイギリスから中国に返還されることになったのです。

 

これに伴い1984年中英共同声明が発表され、この中で香港では中国本土と同様の制度が適用されない

「一国二制度」を返還後50年間は維持されることが約束されました。

一方で1898年の天安門事件などを受けて中国共産党による一党独裁制度を嫌う香港人たちは返還を前に

カナダやシンガポールといった同じイギリス連邦加盟国へと次々と脱出していくことになったのです。

 

そして1997年6月30日から7月1日にかけて、当時のチャールズ皇太子ご臨席のもと盛大な返還式典が行われ、

かつて世界中に植民地を持っていたイギリス最後の植民地である香港が中国に返還されたのです。

それは栄華を誇った大英帝国の終焉を象徴するものとも言われました。

 

 

こうして中国領となった香港ですが、返還後もいろいろと話題には事欠かない地域となっています。

またそれは別に記事で。