地図ヨミWORLD〜世界の豆知識〜

世界にはたくさんの国や地域があり、それぞれ逸話が隠れています。そんな豆知識を持っていると地図を読むのも楽しくなるはず。

ポツンと浮かぶアジアのポルトガルーマカオ

2022-11-22 21:22:36 | 旅行

1990年代に中国に返還された植民地といえば香港が思い浮かぶでしょう。

アヘン戦争からイギリスに占領されていた香港は99年間の租借期間を経て、

1997年に当時のチャールズ皇太子のご臨席の下、大々的な返還式典が執り行われました。

 

しかしその2年後、同じく中国へ返還された植民地があったのはご存知でしょうか。

それがマカオであり、返還したのはポルトガル。

あまり東アジアにポルトガルの植民地があったイメージはないかと思いますが、

なぜマカオはポルトガルの植民地になり、そして1999年に返還されたのでしょうか。

このマカオはどこにあるかというと、

中国南部、南シナ海に面しており東京からは約3,000km、

すぐ東にある香港の中心部からは約60kmほどの距離にあります。

面積は30㎢と東京でいえば中央区と港区を足したくらいで、

新界地区を含めて1,000㎢以上の面積がある香港よりだいぶ狭いですね。

 

この狭い土地に数々のホテルや世界遺産、空港などがひしめき合っています。

 

このマカオはもともと漁業などを営む水上居民が住むエリアであり、

特段注目されるべきエリアではありませんでした。

明代になり東南アジアと中国の貿易が盛んになると貿易の拠点として栄えるようになります。

そんな中国にポルトガル人がやってきたのは1513年のこと。

1500年頃のポルトガルは大航海時代の真っただ中で世界の覇権を誇っており、

広州などで明との貿易を始めることになります。

当初は現在の香港領内にあるランタオ島に拠点を構えていたポルトガルですが、

密貿易対策などから海禁政策をとる明に広州を出禁、ランタオ島を追い出されてしまいます。

しかし当時横行していた南シナ海での海賊掃討にポルトガルが強力したことから

特別に明朝から領内への居留が認められることとになります。

それが現在のマカオだったんです。

ポルトガルはここマカオで中国や日本との貿易を行い、

その代わりに明朝に交易の利益の一部を上納していたのです。

 

ここは当時の中国における唯一のヨーロッパ人の拠点であり、

キリスト教の布教活動の拠点となるだけでなく

長崎との貿易の中継地ともなり大きく繁栄することとなります。

しかしながらその後日本が鎖国をし長崎との交易路が閉ざされたことや、

広州港が解放されたことからそちらでの貿易が多くなり

マカオの立ち位置は相対的に下がっていくことになるのです。

 

 

そんなマカオに転機が訪れたのが19世紀中盤に起こったアヘン戦争です。

アヘン戦争はイギリスが中国にいちゃもんをつけた挙句に

コテンパにやっつけて香港をぶんどったなんともイギリスらしい戦争ですが、

このアヘン戦争で当時に清朝の弱体化が詳らかになると

ポルトガルもここぞとばかりにつけこみ上納金の納付を停止、

その後1887年には中葡和好通商条約で正式にマカオの統治権を獲得します。

ポルトガル領となったマカオではポルトガル人と中国人とで居住区が分けられ、

近代的な法整備が進められていくことになります。

 

一方で19世紀に入るとイギリスやフランスに比べて相対的にポルトガルの国力が低下し、

またマカオ自体が香港に比べて良港ではなかったことから

中継貿易の花形としての地位は完全に香港に奪われることになってしまいます。

 

 

第二次世界大戦がはじまるとイギリス領であった香港は日本軍に占領されたのに対し、

ポルトガルが統治していたマカオは中立港となっていたため

戦火を逃れようと多くの中国人がマカオに難民として流入しました。

また日本を含めた各国がマカオに領事館を設置していたため諜報活動も盛んに行われ、

直接戦争には巻き込まれなかったものの戦争末期には

対日テロが頻発するなど緊迫した状況が続いていました。

 

第二次世界大戦が終わると今度は中国で国共内戦が始まり、

最終的に中国本土には中国共産党による中華人民共和国が成立します。

しかしポルトガルはエスタド・ノヴォと呼ばれるサラザールによる

長期独裁政権下にあり、中華人民共和国とは国交を結びはしなかったのです。

そしてポルトガルはマカオを海外県として統治を続けることとしました。

 

しかし1966年、再びマカオに転機が訪れることになります。

きっかけは中国共産党系小学校にマカオ総督が制裁を科したことで、

当初は平和的なデモだったものが徐々に暴動へと変わっていきます。

これに対して中華人民共和国もポルトガルに人民解放軍の介入をほのめかすなど

ポルトガルに謝罪や賠償を迫り圧力をかけていきます。

これが世に言う「一二・三暴動」というものです。

この時のポルトガルはすでに世界の主要国とは呼べないほどに国力が低下し、

またアフリカでのポルトガル植民地戦争により軍事的にも疲弊していました。

そのためサラザールはこれ以上の軍事対立は不可能と判断し、

中華人民共和国のほぼすべての要求を呑む形で決着をつけます。

その結果、ポルトガルはこれまで友好的な関係を保っていた中華民国の

マカオでの活動をほぼ禁止するなど共産党に配慮した外交政策をとることになります。

またマカオでは親中華人民共和国派の何賢が実質的な権力を握ったこともあり

ほかのポルトガルの植民地に比べて逆に安定した政治運営がなされました。

 

そして迎えた1974年、ポルトガルではカーネーション革命が起き

40年以上に渡って続いたサラザールによる独裁政権が崩壊します。

そして誕生した民主主義政権では脱植民地主義が図られることとなり、

マカオの統治権も中国への返還が打診されました。

しかし、なんと中国はこれを拒否し、ポルトガルによる統治を希望します。

なぜ中国はマカオ返還を拒否したか?というと、これは香港に絡む問題でした。

1970年代の中国は文化大革命などの影響で世界的に孤立していました。

1971年に国際連合の代表権を獲得、翌年には日米との関係も回復に向かうなどしていたものの、

東側諸国として西側への窓口としての役割を持つ香港は非常に重要なものでした。

もしここでマカオの返還を認めてしまったら同じ状況下にある香港でも

返還に向けての不安が広がり、香港の政情が不安定化してしまう。

それを恐れた中国はマカオの返還も拒否したのでした。

 

また1979年にはポルトガルと中国が国交を樹立することになりますが、

この際も再びマカオ返還を打診するも再び同じ理由で中国は拒否。

当面はポルトガルが統治権を行使することで一旦棚上げされることとなりました。

 

 

そんなマカオがようやく返還に向けて動き出したのが1980年代後半。

香港がイギリスから返還されることが決まってからでした。

「マカオ返還に伴う香港市民の動揺」という懸念事項が無くなり

香港返還の2年後に統治権がポルトガルから中国へ譲渡されることとなりました。

 

ちなみにこのマカオにおいても香港同様一国二制度が導入され、

マカオ基本法を基準としたポルトガルから受け継いだ社会制度が

返還後50年間は維持されることとなったのです。

 

なお、このマカオに関しては香港と大きな違いがあります。

それは香港はイギリスの植民地であり主権はイギリスが持っていたのに対し、

マカオの主権は中国にあり、ポルトガルはあくまで統治のみをしていたことです。

これは1887年に中葡和好通商条約が結ばれたあとも同様であり、

この点から「マカオは一度もポルトガル領になったことがない」とも言えます。

なぜなら明代からマカオの主権は中国が持ち続けてきたわけですからね。

しかし実際にはマカオの行政はポルトガルが取り仕切っており、

実質的にはポルトガルの植民地であったことに変わりはありません。

 

さて、こうして中国に復帰したマカオですが、

現在は世界的な観光地として注目を集めています。

 

それでは返還後のマカオについてはまた別の記事にて。


何故捜索が進まなかったのかー大韓航空の謎③

2022-11-22 14:15:52 | 旅行

日本人にとって最も馴染みの深い外資系航空会社である大韓航空。

いまでこそ東アジアを代表する航空会社のひとつとなりましたが、

過去には大きな事件に巻き込まれてきた歴史を持ちます。

これまでの記事では過去に起こったソ連のよる銃撃事件を2件ご紹介しました

1つは1978年にコラ半島上空で起こり2名が死亡した銃撃事件、

そして1983年にもう2つはサハリン沖で起こり269名全員が死亡した撃墜事件です。

 

今回はその撃墜事件から4年後の1987年11月29日に起こった、「爆破事件」をフィーチャーします。

 

 

三、大韓航空機爆破事件(1987年)

 

この爆破事件に巻き込まれたのは大韓航空858便、

機材はもともとマクドネル・ダグラスDC-10型機で運航される予定でしたが、

当日に機材変更がありB707型機で運航されることとなっています。

 

858便はイラクのバグダッドからアブダビ、バンコクを経由しソウルに向かう便で、

その乗客のほとんどは中近東で働く韓国人の出稼ぎ労働者でした。

以前の2件の銃撃事件はいずれも欧米からアンカレッジ経由でソウルに向かう便で

韓国人のほか日本人や台湾人などが多数搭乗していたのとは対照的ですね。

 

858便は経由地であるアブダビを出発しバンコクに向かっていた際に

ミャンマーの首都ラングーン(現在のヤンゴン)南方の海上で爆弾が爆発、

機体は空中分解して乗員乗客115名が全員行方不明、のちに死亡認定されました。

この爆破後の機体の捜索は難航を極め、

ただでさえレーダーサイトの整備が貧弱であるアンダマン海近辺で起こった事件で、

そこにタイとミャンマーの国内問題、国際問題が絡み

結局完全な形で遺体が収容できた乗員乗客は一人もいませんでした。

 

ではこの事件を時系列で追ってみましょう。

 

 

 

この爆破事件を仕掛けたのは北朝鮮の工作員である金勝一と金賢姫でした。

彼らは事件が起こる2週間ほど前に平壌からヨーロッパに向け出発、

モスクワやブダペストなどを経由してユーゴスラビアに向かい

首都のベオグラードで爆発物を受け取ったとされています。

 

その後11月28日にイラク航空でベオグラードからバグダッドへ向かい、

爆発物とともに大韓航空858便に乗り込みました。

最初の経由地であるアブダビについた際に爆発物を残して二人は降機し

858便は爆発物を積んだまま次の経由地のバンコクへ向かったのです。

 

アブダビを出発した858便はそのままペルシャ湾、インド上空を通過し

アンダマン海上でビルマ(現在のミャンマー)の航空管制区域に差し掛かります。

このビルマ空域に差し掛かる際に管制塔とコンタクトをとったのが最後の通信となり、

その約50分後に機内で爆弾が炸裂しで機体は空中分解をして墜落します。

この爆発によって機長は緊急信号などを出す間もなく即死したとみられ、

この時点では858便が爆破されたことに地上管制は気づいていませんでした。

 

しかし定時交信報告が途絶え、タイの領空に入るとされた時刻にもコンタクトがないことから

858便に何らかの異常事態が発生していることが明らかになります。

このため当初858便の遭難地帯はアンダマン海ではなく

ビルマとタイの国境付近にあるジャングル地帯であると推定され、

ビルマとタイの両政府が捜索にあたることになりました。

 

しかし858便が墜落したとされるビルマとタイの国境地帯のビルマ側は

ビルマ政府と対立し武装闘争を繰り広げていたカレン族が支配する地域で

ビルマ政府が捜索活動を行うことが出来ませんでした。

またタイ側もビルマから逃れてきたカレン族の難民が多いエリアであり

ビルマのカレン族が国境を越えて武装闘争をしていたため

タイ政府も思うような捜索活動が出来ない状況が続き、

韓国政府も「ハイジャックされた」との誤情報を公式に発表してしまうなど

何もわからない状態の中で混乱が続きました。

 

そして858便が行方不明になってから2週間ほどが経ってから

ラングーンの南方を中心に海上や海岸で機体の残骸が次々と発見されるようになり

墜落した場所が陸上ではなく海上であることがわかってきたのです。

この残骸はB707の原形をある程度とどめているものも多く、

858便のものであることは当初からほぼ確実視されていましたが、

ブラックボックスの回収が出来なかったため決め手に欠け、

これが858便のものであると正式に断定されるのは1990年まで待たなければなりませんでした。

 

 

さて、この事件の実行犯である金勝一と金賢姫ですが、

実はこの二人は日本の偽造パスポートを所持しており、

「蜂谷真一」と「蜂谷真由美」という偽名の日本名を名乗っていました。

二人はアブダビで降機した後にバーレーンに向かうのですが、

この大韓航空機消失を「左翼日本人による反韓国テロ事件」である可能性を調べ、

バーレーンの出入国記録を照会していた在バーレーン日本大使館の職員によって、

この入国した二人の「日本人」がパスポートを偽造していることが発覚するのです。

そのためバーレーン警察の協力のもとローマへ出国しようとしていた二人を、

この大韓航空機消失との因果関係がわからないまま拘束することとなるのです。

 

しかしこの際、蜂谷真一を名乗っていた金勝一は空港でそのまま服毒自殺、

蜂谷真由美を名乗っていた金賢姫も服毒自殺を試みますが、

バーレーンの警察官が飛び掛かり吐き出させたため一命を取り留めました。

その後バーレーンにて取り調べが行われますが、

結局この「蜂谷真由美」は国籍も正体もわからないまま、

韓国に引き渡されることになるのです。

 

韓国に引き渡された金賢姫は、当初は北朝鮮の工作員であることを明かさず、

最初は日本人、次いで中国人になりすまそうとします。

しかし熱湯をかけられた際に出た咄嗟の朝鮮語や、

「日本ではチンダルレのテレビを使っていた」という供述を行っていたことから

北朝鮮の工作員であることがバレ、ついに口を割ることになるのです。

ちなみにこのチンダルレとは北朝鮮ブランドのテレビであり、

日本人や中国人であればまず知らない名前であったのだ。

 

こうして金賢姫の証言によりこの爆破が北朝鮮によるテロリズムであることが明らかになるのですが、

ではなぜ北朝鮮はこのような暴挙に出たのでしょうか。

 

 

この背景には北朝鮮により韓国社会を混乱に陥れるため、

また翌年に控えたソウルオリンピックを中止に追い込むためであったとされています。

 

ソウルオリンピックはアジアでは東京に次ぎ2番目に開催されるオリンピックでしたが、

このオリンピック、過去3回の大会ではそれぞれボイコットをする国が多く、

ほぼすべての国が参加する形でオリンピックが開催されるのは4大会ぶりでした。

なお1976年のモントリオールオリンピックでは

南アフリカの人種差別政策に反対するためにアフリカ諸国がボイコットを行い、

1980年のモスクワオリンピックではソ連のアフガニスタン侵攻を口実に

日本を含む西側諸国やアフガニスタンを支援するイスラム諸国などがボイコット、

また1984年のロサンゼルスオリンピックではアメリカ軍によるグレナダ侵攻を口実に、

実際には1980年のモスクワオリンピックボイコットへの報復として

ソ連や東ドイツなどのなどの東側諸国が参加をボイコットしました。

 

そのため久々に完全体でのオリンピックとなる予定であったソウルオリンピックに対し、

航空機が爆発するという韓国の国家に対する信頼低下を招く事件を起こすことで

東側諸国のオリンピックボイコット、またはオリンピック自体の中止を目論んだのです。

 

しかしながら実際には北朝鮮の関与が詳らかになったことから

逆に北朝鮮が国際社会から激しい非難を浴びるようになり、

ソウルオリンピックは多くの東側諸国が参加して無事に開催、

そのうえオリンピック後にはソ連や中国が韓国と国交を樹立するなど

逆に北朝鮮が東側諸国からも見捨てられるような結末になりました。

 

これに対して北朝鮮はこの爆破事件をいまだに「韓国の自作自演」として

国家の関与自体を否定しています。

ただ国際的には北朝鮮による国家犯罪の典型として認識されており、

さらなる北朝鮮の孤立を招くことになってしまった事件でした。

 

二度と繰り返してはいけないことですね。