私の足跡と今後について

辻栄 克則(つじえ かつのり)の公式ブログです。

政治団体所属の経歴

2024年08月27日 | 回想

れいわ新選組(2022年〜現在)

「オーナーズ」(支部無し)

北海道第9区域内の勝手連活動、道内自治体議員選挙の支援など。

 

民主党(2005〜17年)

部署=札幌北区→室蘭

国政選挙の支援、域内集会・会合の参加など。

 

中核派(1994〜2002年)

部署=京都大学→関西部落(ぶらく)研→京都地区

宣伝、交渉、企画などに従事。戸別訪問、警護、デモ行進の行動形態。各地へ赴任。


私と統合失調症〜その4

2022年02月20日 | 回想

2003年(33才)、京都市に転居した。復職する狙いが失敗し、ハローワークでの求職活動を再開した。自殺衝動が起こるのを紛らわすために、自転車を用いて完全出来高給のポスティング作業をした。

転居の5週間後、フルタイムでの就職が決まった。24時間受付のホテルで、夜間の清掃を担当することになった。身体を機敏に動かす、黙々と作業に没頭できる、週6日出勤できるという、健康回復のためにとても適した職場だった。上司からもよい評価が得られ、購買などの他の仕事も任されるようになった。

04年(33才)には、生活意欲が顕著に回復した。雑誌購読、職能セミナー、証券取引、ブログ投稿、野球観戦など、自身の幸福のために行動できるようになった。テレパシーによりプライバシーを晒される覚悟をして生きるが故の孤独、向上心を受け入れ、霊的存在との共存を図るようになった。

05年(34才)、再び北海道に戻る決意をした。会社に突然の離職届をし、札幌市に転居した。求職活動は難航した。過大な自信を持ってしまったと思い知らされた。

インターネットで氏名を公表しての情報発信を始めた。弁護士に相談し、債務整理をした。9か月後にフルタイムの請負業務を得て、家計を立て直した。
07年(36才)、雇用保険により初めて保険給付を受けた。今後は農業の仕事を始めると決意した。

08年(37才)、伊達市の製造業での採用通知を受けた後、室蘭市に転居した。日本農業法人協会の社会人インターンシップに応募した。鹿児島市で有機栽培に取り組んでいる農業法人が、私の受け入れを決めた。09年(38才)、1月から4週間の研修を通じて、栽培、出荷、集会など、豊かな経験を得られた。帰宅後、求職活動と自動車運転講習を開始した。4月、帯広市の人材派遣会社で初めて報酬を得ての農作業に就いた。5月から長沼町の農業法人、7月から当別町の農業法人へと、期間を定めながら転地転職を重ねた。

厳しい労働条件に思われる作業であっても、作物の生長に合わせながら農場を駆け回る日々を送るにつれて、自身の苦悩が軽くなっている自覚ができた。かつて大阪府の診療所の医師が話していた「10年」にあたる時を経過しているのも、意識した。そして改めて、医師がどのような診察をしていたのだろうか確認してみたくなった。

10月、室蘭市に帰宅後、登別市の病院の医師から預ったまま保存していた封書を開けてみた。統合失調症の診断だった。


私と統合失調症〜その3

2021年12月11日 | 回想

2001年(31才)、初めて精神科で診察を受けた。以前にアルバイトをしていた医療法人の大阪府の診療所だった。うつの症状があるとして、内服薬を処方された。医師から説明を受けたが、「10年かかる」という言葉だけがかすかに記憶に残った。薬を全て服用したが副作用が続くのをおそれ、まもなく通院を絶った。
02年、パソコンを譲り受けた。初めてインターネットを利用し感動した。

職場以外への外出が減った。妄想が生じないようにするため、他者に接していた時の心の持ちようを反省し矯正するメンタルトレーニングを常にしていた。

03年(32才)、国の庁舎での勤務を退職した。労働組合分会が送別会をしてくれた。

登別市で母と17年ぶりに同居を始めた。ハローワークに通い、雇用保険の手続きをしないまま仕事の紹介と面接を重ねた。求職活動の指導や訓練は受けなかった。自身が保険給付を受けられるとは、想像していなかった。

最寄りの病院で診察を受けた。医師は私の担当を別の医師に代えたい様子だったが、私はその理由を理解できず、当該医師の診察続行を要請した。

医師から、保健所が運営するサークルへの参加を勧められた。同年代の患者が多くいた。スポーツやカラオケをしながら、お互いが他者との交流を探っていた。私もその場に馴染んだが、自身は何者なのか心の整理がつけられず、交流が続かなかった。

内服薬を処方されていたが、定められた量の半分程度しか服用していなかった。私が治療に求めていたのは、現在の安静ではなく、数年後には回復するという保障だった。余暇時間が無為に過ぎていくという焦りの中で、母に生計を依存している状態、病状が回復しない現実、京都で作った経歴への不満が募り、実家での生活を続行するのは、非常に耐えきれなかった。

4か月後(33才)、京都市の賃貸アパートに転居した。この決定を医師に伝える際に、医師は急いで封書を作成し密封し、「京都の医師にこれを持参して引き継いでください」と告げられた。

 


雇用されている障害者の社会保険・労働保険

社会保険(健康保険と厚生年金保険)・労働保険(労災保険と雇用保険)は、障害を持つ者も、持たない者と同等に、保険料を負担している。(労災保険は同等に、負担がない)

少人員、農林水産業などの個人事業主に勤務する者を除いて、1〜4月以上の期間を定めて週20〜30時間以上、労働する者は全て、4保険に加入する。

健常者が厚生年金保険・労災保険に加入している期間に負傷・発病し、その初診日の1年6月後に、政府から障害を認定されると、障害年金などの保険給付が受けられる。労災保険は、業務災害か通勤災害が原因でなければ認定されないが、厚生年金保険は、原因を問わず認定される。

雇用保険は、障害者であれば、就職困難者であるとして、基本手当の給付日数が長く認められる可能性はある。健康保険には、障害を要件とする給付はない。

障害を持つ者が就職したからという理由で、それまで受給していた年金の額が増えることはない。逆に、停止したり減ったりすることもない。国民年金(基礎年金の受給)には、例外がある。


 


私と統合失調症〜その2

2021年11月27日 | 回想

2000年(29才)の配置替え以降、大阪府で上司と私による1対1の定期討論が始まった。私はここで病状の事実を毎回、詳細に述べた。上司もよく聞いてくれた。しかし、「自身に精神疾患はないのだから、精神疾患があると主張した自身を自己批判する」という趣旨の奇妙な文書を作成し党に提出する形で、終局した。

私はこの過程をたどることによって、6年ぶりに党の支配下からほぼ解かれる身になった。

前々年から大学で部落差別の攻勢を受けて立つ中で私が目標として描いていたのは、入学後(19才)、私を部落解放運動の基本から導いてくれたサークル活動だった。古代史学者の上田正昭を顧問とする「部落差別に反対する会」は形として消滅してしまったが、学内差別事件への対応、教室に分け入る活動も含めて、さまざまな活動の蓄積が私の中には残っていた。その蓄積を可能な限り、後輩に継承させたかった。

そこでこの年の新歓期を迎えるにあたり、演説・署名運動に代えて、教室でのアンケート収集·講話を宣伝方法の中心に据える方針を立てた。

環境問題に取り組む市民団体と兼ねて部落解放研究会に加入していた法学部3回生が、この年は最後まで一緒に行動した。

教室では、差別暴言をする学生が散発したものの、学生と教官は私の話をよく聞いてくれた。会員とは話し合いを重ねながら、フィールドワーク、部落史学習展示会などのイベントを成功させた。

その一方で私は、病状の苦しさを紛らわせるため、一人でのサイクリングや、川辺での寝泊まりをすることもあった。

01年(30才)、集合マンションに転居した。

国の庁舎での給与所得のみによって、生計維持が可能だった。

7月、登別市に住む父が腎臓癌のため入院したという知らせを受け、帰省した。10月、父が逝去した。享年60歳。

葬儀に臨む私の病状は変わらず、惨憺たる思いだ。

 


京都大学の部落差別事件(98∼00年)

98年4月の看板損壊を発端にして、大学本部構内に周辺する少なくとも5学部の男性トイレで部落民と在日コリアンを差別する落書きが発見され、その都度、学生や学部長の抗議アピールが出された。この世論に対して何者かが、99年3∼4月、部落解放研究会を標的とする本格的な攻勢を始めた。学生部などの学内団体に文書を一斉送付し、部落解放研究会の解散を迫るほか、戸籍調査による部落出身者の特定、同和対策事業の廃止を主張した。

大学は、文書作成者は学生ではなく、教職員と通じた関係者であるという認識をもち、研修などの対策を始めた。部落解放研究会は、実行者への報復を宣言して鎮圧をはかり、続いてサークルの再建をめざした。その後、差別事件の規模は収縮したが、部落出身者を名指しするビラを散布するなどの事件が発生した。


 

親族に関連する要因に関しましては、本連載では著述しません。

 


私と統合失調症〜その1

2021年11月17日 | 回想
本ブログでも度々ご紹介しましたように、私は、統合失調症という精神疾患を抱えていた時期が10年間、ありました。
その疾患がなくなってから12年が経過しました。
私がどのように統合失調症に対応してきたのか、関心をお持ちの方も多いのではないかと思います。
 
そこで、その10年間について著述し連載することにしました。統合失調症に関する知識として役立ててもらえるものと考えています。
 
 
 

 
1999年4月(28才)、この3か月の間にも、大学構内で、差別落書きの発見が相次いだ。その都度、立会、確認会、担当委員との個別交渉を続けた。「秘密警察のようだ」と実行者が驚くほど、私は学内で地道な働きかけをしてきた。通常の政治活動、深夜勤務、党務も怠っていない。新規会員の獲得に希望を託し、大学門前での演説も増やす反面、疲労感も隠せないほどになってきた。
 
異変を最初に自覚したのは、1年半前から始めた仕事の勤務中だった。職場は500平米の屋内作業場で、10人。積まれた50リットルプラスチックケースに入っている物を各自が持ち出し検品整理する作業をしていた。5メートル離れた他のスタッフが空にしてケースを床に置く際に発生する音を、私を強迫するために発せられていると幻惑せずにはいられなくなってしまった。作業を止めることはなかったが、時には真に受けて怒りの態度を示してしまうこともあった。それまで経験していなかった錯乱と、それを抑えるための疲労に悩む日々が始まった。
異変はまもなく、職場以外にいる時にも広がった。
大学で活動している時も、日常生活で歩行している時も、他者とすれ違いそうになるたび、私を暴行もしくは侮辱しようとしているとのではないかと妄想せずにはいられなくなり、ここでもその錯乱を抑えるため、呼吸を止めて落ち着きを戻すのを待つという作法を、限りなく繰り返していた。同年代の女性とすれ違う際には、頭の中は真っ白になっていた。
 
 

 

1999年初夏の頃(28才)の平常の生活スタイル

21:30~6:00 国の庁舎にて軽作業の勤務(週4日程度)  
7:30~8:00  食事
8:30~9:30  大学にて宣伝、作業(週3日程度)
12:00~13:00 大学にて宣伝(週4日程度)
13:00~13:30 食事
18:00~18:30 食事
18:30~21:00 ビラ作成、看板作成、左京区内にて戸別訪問
居住地は大学の学生寮、その一室を執務室兼寝室として他の党員とシェアしていた。
睡眠時間は覚えていない。

★精神障害の発症を判断するにあたって、労災申請を受けての審査基準が参考になる。

厚生労働省労働基準局では、「労災認定の対象となりうる精神疾患であること」「発病前の6か月間に業務による強い心理的負荷が認められること」「個人的な問題で発病したと認められないこと」とし、長時間労働、異常な出来事などの心理的負荷となる要因を、検討することにしている。

 


 
 
 
この異変について他者に打ち明けたのは、党の特別対策チームの会議の場の一度きりだった。この特別チームは、私の参加がなければ成立しないものだった。以降、私の異変について議題にのぼることはなかった。
私は、精神障害に該当しているのではないかと疑い、辞書で調べてみたりした。しかしそれだけでは判断できず、そのままの成り行きに耐えた。
 
やがて、隣の席に他者が座る際にも、妄想は始まるようになった。自分が出す何気ない音が逆に、自身の感情を露出するものになっているのではないかと想像するようになった。周囲で話し声がすると、私に関する噂をしていると妄想が始まった。電車やコンビニのようなスペースにいる時は、誰かが私を注視しているという妄想がよぎり、呼吸を抑えた。
デモに参加しても声を出せなくなり、闘争パフォーマンスができなくなった。
党員の間での私の孤立ぶりは、寮内に知れ渡った。
 
00年(29才)、 党での配置替えが決定した。執務室兼寝室は同じ寮内だが、党務は大幅に減った。

 



人生47年の節目

2017年06月08日 | 回想

京都大学では教養課程を修了し、法学部の専門課程に進みました。選んだ科目の講義には、ほとんど出席しました。しかし、試験の直前期になると途端に、心のブレーキがかかるのでした。自分の進路と将来の姿について、考えることができませんでした。 結局、単位取得したのは、佐藤幸治教授が担当する憲法だけでした。大企業や官庁のニーズに自分を合わせるような就活には、参加しませんでした。 差別の厳しさを知りました。マルクス主義の立場に身をおいて活動しました。

 

 

天皇陛下が、即位30年を節目として、皇太子に譲位する意向を示されました。陛下は、日本の古代以前の神話時代からの長い伝統に伴う天皇の国事行為の職務を担うとともに、日本国憲法で新しく定められた「象徴」としてのあり方を自ら模索されました。

私は、陛下の即位を祝う一連の儀式に対する抗議活動に参加していた身でもありますが、陛下が即位以来、旅に出向きながら、国民の思いに寄り添い、国民のために祈る姿を拝見しながら、しだいに、陛下に対する尊敬と感謝の気持ちが満ちてきました。

今回は、特例法の制定にとどまりましたが、私は、女性の天皇即位を可能にするような皇室典範の改正が必要だと考えます。また、このテーマに触れるとき、私は、差別の起源について意見を述べずにはいられなくなります。差別は江戸幕府が作ったものであるという、近世政治起源説が私の立場です。


「『偏見・差別・人権』を問い直す」(京都大学学術出版会発行)を読む

2011年08月14日 | 回想

 この書は、2007年10月に発行されました。京都大学の全学共通科目「偏見・差別・人権」を担当している教官が、グループを組み、企画・執筆・編集した本です。

 

 この講義は、1994年、スタートしました。しかし開講後も学内で人権に関わる事件が続出したために、担当者としてこの講義の意義をあらためて問い直し、改革につなげようとしているのがわかります。

 

 私は、京都大学のこのような状況に対して、当事者意識をもって関わざるをえない事情があります。

 

 京都大学では、1989年をピークとして、人権講義の開設を求める署名運動が起こりました。私は入学した1990年、この運動の中心団体であった学生サークル「部落差別に反対する会」に加入しました。ゼミ形式の学習・討論、部落でのフィールドワーク、学内外での集会の主催や参加など、活動を共にし、溶け込めあえる大切な仲間との出会いができました。しかし1991年、顧問であった上田正昭氏が定年退官し、求心力を見出せないまま、サークルは消滅せざるをえませんでした。

 

 そのときには、人権講義は実現されませんでした。けれども、大学では図書館に収蔵されている関連本の量に恵まれておりました。

 

 

 この本は、次のように構成されています。

 

<人権という言葉の廃墟から~もうひとつの「講義」への出発>

 

<「地球を救う」は人を救うか?~「環境問題」に潜む権力性>

 

<それぞれの夢の行方~「私」のなかの民族問題を考える>

 

<ジェンダーから点検する社会~性差別と向き合う>

 

<自らを受け止めるとは~「障害」をめぐって>

 

<無関心な人々の共謀~部落差別の内実を問い返す>

 

<メール討論 「障害」のある人・「障害者」であることをめぐって>

 

<京都大学・全学共通科目「偏見・差別・人権」に関して>

 

 

 

 感想として表明したいのは、部落差別の講に関してです。

 

 私が京都大学を離れて以降も、学内で部落差別の言動が増している状況を知り、心が痛みます。自分自身の判断ミスを思い起こし、それがなければ、差別事件を鏡として、全国の運動にも影響を与えるような、自分たちの価値観を変えるための、多彩な活動を生み出すことができていただろうという悔しさがあります。

 

 執筆者の、「存在しない部落と存在しない部落民という身分を、身分制度を廃止したはずの近代社会に亡霊のように呼び寄せ、どこが部落で、誰が部落民か、きわめて恣意的かつ執拗に暴きたてようとする奇妙さと矛盾」という思いに、共鳴します。そして私は、このことから、部落解放運動と、人々の歴史観の変革は、不可分の課題であると感じます。

 

 3点めは、部落の起源に関してです。「近世政治起源説から中世文化起源説へ」向かっている歴史学の進展が紹介されています。このことに関して、私は現在でも、近世政治起源説の見解を支持します。ただしそこで多く語られてきたような、「上見て暮らすな、下見て暮らせ」式の巧妙な民衆統治策というものではなく、一向宗をはじめとする潜在的反乱勢力に対する、永久的世襲で安定政権を望む側の憎悪に基づく身分制度としてとらえていくのが適切と考えています。問題とされる中世文化は、統治を補強するためにその後も引き継がれてきたものだというのが、私のとらえ方です。

 

 私は、この講の執筆者である前平教授と、98年から01年にかけて、研究室で何度かにわたり、談話をしていました。当時の私への前平氏の気遣いに対して、感謝しています。その後も、学生個別との議論を重ねていることに、敬意を表します。

 

 

 

 差別事件に直面する中で、「いったんは有益な人間として自分をアピールすることに成功した人もいつだめな人間にされてしまうかわからない。不安に満ちた状況の中で、誰かに脅かされているという、漠然とした被害者感覚が蔓延しているように思える。」(序章)という認識をもつことは、大切だと思います。


2009年ファイターズ対ゴールデンイーグルス公式最終戦

2009年10月11日 | 回想

 昨日、初めて札幌ドームで、プロ野球を観戦しました。

 今年こそは、東北楽天の野村克也監督の試合を観たいと思っていました。その願いがかないました。
 球場は満員に近い状況でしたが、いい席に座ることができました。イーグルスのベンチを見ながらの、観戦でした。



 私にとって野村氏は、小学生・中学生時代、とても思い入れの深い人でした。

 野村氏は、1980年頃、レギュラー出演のラジオ番組を通じて、私に著書をプレゼントしてくれました。

 そこで私は、監督は、試合の作戦指揮をするだけではなく、人を育てる仕事をしていることを知りました。
 選手の人生経験を支えている監督の視点を想像しながら、人間的な深い関心をもってプロ野球を観ることを学ばせてもらいました。

 私はそれ以降、全球団の選手の成績を調べ、試合のシミュレーションを繰り返したりしました。そして、クラスで野球のチームを作った時、私は、監督兼キャッチャーになっていました。将来は、プロ野球選手になりたいと思った時期もありました。

 私が京都にある大学をめざしたのも、野村氏の影響かもしれません。
 リーダーでありたいという気持ち、リーダーには何が必要なのかという問題意識を、野村氏は、私にもたせてくれました。

 野村氏は、ご自身が培ってきたマネジメントの心得を、全国の人々に紹介しています。

 私は紆余曲折を経ながら、今、自立の道を歩んでいます。野村氏が、少年期の私に縁をもたせていただいていたことに、感謝の気持ちでいっぱいです。


 今日は、お互いとも、順位が確定した後の試合でした。ファイターズが勝ちました。
 クライマックスで再びイーグルスと対戦することを、願っています。
 


1999年の記憶

2008年10月26日 | 回想

 解放出版社発売「全国のあいつぐ差別事件2000年版」を買いました。私が9年前に取り組んだ、京都大学における一連の事件を、振り返るためです。
 部落解放同盟の京都府連合会が、機関紙で4回にわたって連載するほど、攻防が続いた事件です。

 部落に生まれた人々を蔑むため語り継がれてきた文言を並べた文書の数々。部落解放研究会をターゲットにした密告文・謝罪捏造文・忠告文。

 私にとっては、28歳から29歳にかけての自身の生活、他者との関わりを、呼び起こさせてくれる文書でもあります。


「荊冠の志操」(西岡智著)を読む

2008年06月18日 | 回想

 西岡智(にしおか さとる)氏は1982年まで解放同盟の中央執行委員として活躍された方です。私が西岡氏にお会いしたのは、93年秋でした。私は、京都府立大学の施設で、講演会の主催者の一人として、西岡氏とお会いしました。
 私は、経歴紹介の資料作成を担当していました。

 
 戦後まもなく、地元で若者同士で、仕事に必要な訓練を自主的に行い就労を実現させていく運動を積み重ねてきた。

 殺人の罪で死刑判決を受けていた埼玉県狭山市の石川一雄氏は無実だと訴え、74年、東京の日比谷公園で11万人もの集会を開くなど、国民の熱い共感をよぶ大衆運動を起こすリーダーであった。

など物語る写真を探し、1枚ずつコピーしながら貼っていく作業を、わくわくしながらしていたのを、思い出します。
 講演後も、同大学のサークル室で、西岡氏との話がはずみました。私の出身地である登別市のアイヌ民族の状況も話していただきました。
 77歳を迎えられました。ご自身の半生を綴られた本です。

 著者は、同和対策事業をめぐる不正への対策案を、81年、京都府委員長の駒井氏と共に、中央執行委員会に提出しました。しかし受け入れられず、辞任せざるをえませんでした。

 自身の進める運動の方向を、中国革命から学びとっていました。
 解放同盟の活動家の多数がソビエト派で、都市下層民の労働運動にそって問題を立てていたのに対し、著者を代表とする中国派は、の資本家と労働者の統一を基本として、拠点づくり・共同体づくりを志向していました。
 私は、本書の中でも紹介されている、師岡佑行著「戦後解放論争史」(全5巻)を、京都大学の図書館を借りて、92年までに読み終えていました。そしてその本を土台にして、著者の見解の意義も理解していた者です。