この書は、2007年10月に発行されました。京都大学の全学共通科目「偏見・差別・人権」を担当している教官が、グループを組み、企画・執筆・編集した本です。
この講義は、1994年、スタートしました。しかし開講後も学内で人権に関わる事件が続出したために、担当者としてこの講義の意義をあらためて問い直し、改革につなげようとしているのがわかります。
私は、京都大学のこのような状況に対して、当事者意識をもって関わざるをえない事情があります。
京都大学では、1989年をピークとして、人権講義の開設を求める署名運動が起こりました。私は入学した1990年、この運動の中心団体であった学生サークル「部落差別に反対する会」に加入しました。ゼミ形式の学習・討論、部落でのフィールドワーク、学内外での集会の主催や参加など、活動を共にし、溶け込めあえる大切な仲間との出会いができました。しかし1991年、顧問であった上田正昭氏が定年退官し、求心力を見出せないまま、サークルは消滅せざるをえませんでした。
そのときには、人権講義は実現されませんでした。けれども、大学では図書館に収蔵されている関連本の量に恵まれておりました。
この本は、次のように構成されています。
<人権という言葉の廃墟から~もうひとつの「講義」への出発>
<「地球を救う」は人を救うか?~「環境問題」に潜む権力性>
<それぞれの夢の行方~「私」のなかの民族問題を考える>
<ジェンダーから点検する社会~性差別と向き合う>
<自らを受け止めるとは~「障害」をめぐって>
<無関心な人々の共謀~部落差別の内実を問い返す>
<メール討論 「障害」のある人・「障害者」であることをめぐって>
<京都大学・全学共通科目「偏見・差別・人権」に関して>
感想として表明したいのは、部落差別の講に関してです。
私が京都大学を離れて以降も、学内で部落差別の言動が増している状況を知り、心が痛みます。自分自身の判断ミスを思い起こし、それがなければ、差別事件を鏡として、全国の運動にも影響を与えるような、自分たちの価値観を変えるための、多彩な活動を生み出すことができていただろうという悔しさがあります。
執筆者の、「存在しない部落と存在しない部落民という身分を、身分制度を廃止したはずの近代社会に亡霊のように呼び寄せ、どこが部落で、誰が部落民か、きわめて恣意的かつ執拗に暴きたてようとする奇妙さと矛盾」という思いに、共鳴します。そして私は、このことから、部落解放運動と、人々の歴史観の変革は、不可分の課題であると感じます。
3点めは、部落の起源に関してです。「近世政治起源説から中世文化起源説へ」向かっている歴史学の進展が紹介されています。このことに関して、私は現在でも、近世政治起源説の見解を支持します。ただしそこで多く語られてきたような、「上見て暮らすな、下見て暮らせ」式の巧妙な民衆統治策というものではなく、一向宗をはじめとする潜在的反乱勢力に対する、永久的世襲で安定政権を望む側の憎悪に基づく身分制度としてとらえていくのが適切と考えています。問題とされる中世文化は、統治を補強するためにその後も引き継がれてきたものだというのが、私のとらえ方です。
私は、この講の執筆者である前平教授と、98年から01年にかけて、研究室で何度かにわたり、談話をしていました。当時の私への前平氏の気遣いに対して、感謝しています。その後も、学生個別との議論を重ねていることに、敬意を表します。
差別事件に直面する中で、「いったんは有益な人間として自分をアピールすることに成功した人もいつだめな人間にされてしまうかわからない。不安に満ちた状況の中で、誰かに脅かされているという、漠然とした被害者感覚が蔓延しているように思える。」(序章)という認識をもつことは、大切だと思います。