私の足跡と今後について

辻栄 克則(つじえ かつのり)の公式ブログです。

私と統合失調症〜その2

2021年11月27日 | 回想

2000年(29才)の配置替え以降、大阪府で上司と私による1対1の定期討論が始まった。私はここで病状の事実を毎回、詳細に述べた。上司もよく聞いてくれた。しかし、「自身に精神疾患はないのだから、精神疾患があると主張した自身を自己批判する」という趣旨の奇妙な文書を作成し党に提出する形で、終局した。

私はこの過程をたどることによって、6年ぶりに党の支配下からほぼ解かれる身になった。

前々年から大学で部落差別の攻勢を受けて立つ中で私が目標として描いていたのは、入学後(19才)、私を部落解放運動の基本から導いてくれたサークル活動だった。古代史学者の上田正昭を顧問とする「部落差別に反対する会」は形として消滅してしまったが、学内差別事件への対応、教室に分け入る活動も含めて、さまざまな活動の蓄積が私の中には残っていた。その蓄積を可能な限り、後輩に継承させたかった。

そこでこの年の新歓期を迎えるにあたり、演説・署名運動に代えて、教室でのアンケート収集·講話を宣伝方法の中心に据える方針を立てた。

環境問題に取り組む市民団体と兼ねて部落解放研究会に加入していた法学部3回生が、この年は最後まで一緒に行動した。

教室では、差別暴言をする学生が散発したものの、学生と教官は私の話をよく聞いてくれた。会員とは話し合いを重ねながら、フィールドワーク、部落史学習展示会などのイベントを成功させた。

その一方で私は、病状の苦しさを紛らわせるため、一人でのサイクリングや、川辺での寝泊まりをすることもあった。

01年(30才)、集合マンションに転居した。

国の庁舎での給与所得のみによって、生計維持が可能だった。

7月、登別市に住む父が腎臓癌のため入院したという知らせを受け、帰省した。10月、父が逝去した。享年60歳。

葬儀に臨む私の病状は変わらず、惨憺たる思いだ。

 


京都大学の部落差別事件(98∼00年)

98年4月の看板損壊を発端にして、大学本部構内に周辺する少なくとも5学部の男性トイレで部落民と在日コリアンを差別する落書きが発見され、その都度、学生や学部長の抗議アピールが出された。この世論に対して何者かが、99年3∼4月、部落解放研究会を標的とする本格的な攻勢を始めた。学生部などの学内団体に文書を一斉送付し、部落解放研究会の解散を迫るほか、戸籍調査による部落出身者の特定、同和対策事業の廃止を主張した。

大学は、文書作成者は学生ではなく、教職員と通じた関係者であるという認識をもち、研修などの対策を始めた。部落解放研究会は、実行者への報復を宣言して鎮圧をはかり、続いてサークルの再建をめざした。その後、差別事件の規模は収縮したが、部落出身者を名指しするビラを散布するなどの事件が発生した。


 

親族に関連する要因に関しましては、本連載では著述しません。

 


私と統合失調症〜その1

2021年11月17日 | 回想
本ブログでも度々ご紹介しましたように、私は、統合失調症という精神疾患を抱えていた時期が10年間、ありました。
その疾患がなくなってから12年が経過しました。
私がどのように統合失調症に対応してきたのか、関心をお持ちの方も多いのではないかと思います。
 
そこで、その10年間について著述し連載することにしました。統合失調症に関する知識として役立ててもらえるものと考えています。
 
 
 

 
1999年4月(28才)、この3か月の間にも、大学構内で、差別落書きの発見が相次いだ。その都度、立会、確認会、担当委員との個別交渉を続けた。「秘密警察のようだ」と実行者が驚くほど、私は学内で地道な働きかけをしてきた。通常の政治活動、深夜勤務、党務も怠っていない。新規会員の獲得に希望を託し、大学門前での演説も増やす反面、疲労感も隠せないほどになってきた。
 
異変を最初に自覚したのは、1年半前から始めた仕事の勤務中だった。職場は500平米の屋内作業場で、10人。積まれた50リットルプラスチックケースに入っている物を各自が持ち出し検品整理する作業をしていた。5メートル離れた他のスタッフが空にしてケースを床に置く際に発生する音を、私を強迫するために発せられていると幻惑せずにはいられなくなってしまった。作業を止めることはなかったが、時には真に受けて怒りの態度を示してしまうこともあった。それまで経験していなかった錯乱と、それを抑えるための疲労に悩む日々が始まった。
異変はまもなく、職場以外にいる時にも広がった。
大学で活動している時も、日常生活で歩行している時も、他者とすれ違いそうになるたび、私を暴行もしくは侮辱しようとしているとのではないかと妄想せずにはいられなくなり、ここでもその錯乱を抑えるため、呼吸を止めて落ち着きを戻すのを待つという作法を、限りなく繰り返していた。同年代の女性とすれ違う際には、頭の中は真っ白になっていた。
 
 

 

1999年初夏の頃(28才)の平常の生活スタイル

21:30~6:00 国の庁舎にて軽作業の勤務(週4日程度)  
7:30~8:00  食事
8:30~9:30  大学にて宣伝、作業(週3日程度)
12:00~13:00 大学にて宣伝(週4日程度)
13:00~13:30 食事
18:00~18:30 食事
18:30~21:00 ビラ作成、看板作成、左京区内にて戸別訪問
居住地は大学の学生寮、その一室を執務室兼寝室として他の党員とシェアしていた。
睡眠時間は覚えていない。

★精神障害の発症を判断するにあたって、労災申請を受けての審査基準が参考になる。

厚生労働省労働基準局では、「労災認定の対象となりうる精神疾患であること」「発病前の6か月間に業務による強い心理的負荷が認められること」「個人的な問題で発病したと認められないこと」とし、長時間労働、異常な出来事などの心理的負荷となる要因を、検討することにしている。

 


 
 
 
この異変について他者に打ち明けたのは、党の特別対策チームの会議の場の一度きりだった。この特別チームは、私の参加がなければ成立しないものだった。以降、私の異変について議題にのぼることはなかった。
私は、精神障害に該当しているのではないかと疑い、辞書で調べてみたりした。しかしそれだけでは判断できず、そのままの成り行きに耐えた。
 
やがて、隣の席に他者が座る際にも、妄想は始まるようになった。自分が出す何気ない音が逆に、自身の感情を露出するものになっているのではないかと想像するようになった。周囲で話し声がすると、私に関する噂をしていると妄想が始まった。電車やコンビニのようなスペースにいる時は、誰かが私を注視しているという妄想がよぎり、呼吸を抑えた。
デモに参加しても声を出せなくなり、闘争パフォーマンスができなくなった。
党員の間での私の孤立ぶりは、寮内に知れ渡った。
 
00年(29才)、 党での配置替えが決定した。執務室兼寝室は同じ寮内だが、党務は大幅に減った。