ある牧師から

ハンドルネームは「司祭」です。

コヘレト書を読む(6)「喜びの探求」―理性と欲望―

2020年07月17日 | コヘレト書を読む

コヘレト書を読む(6)「喜びの探求」―理性と欲望―

1 私は心の中で言った。「さあ、喜びであなたを試そう。幸せを味わうが良い。」 しかし、これもまた空であった。2 笑いについては馬鹿げたこと、と私は言い、また喜びについては、それが何になろう、と言った。3 私はぶどう酒で体を目覚めさせようと心に決めた。私は知恵によって心を導くが、しかし、天の下、人の子らが短い生涯に得る幸せとは何かを見極めるまで、愚かさに身を委ねることにした。(2:1~3、聖書協会共同訳パイロット版)

4 大規模にことを起こし、多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた。5 庭園や果樹園を数々造らせ、さまざまの果樹を植えさせた。6 池を幾つも掘らせ、木の茂る林に水を引かせた。7 買い入れた男女の奴隷に加えて、わたしの家で生まれる奴隷もあり、かつてエルサレムに住んだ者のだれよりも多く、牛や羊と共に財産として所有した。8 金銀を蓄え、国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた。男女の歌い手をそろえ、人の子らの喜びとする多くの側女を置いた。9 かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって、わたしは大いなるものとなり、栄えたが、なお、知恵はわたしのもとにとどまっていた。10 目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ、どのような喜びをも余さず試みた。どのような労苦をもわたしの心は喜んだ。それが、労苦からわたしが得た分であった。11 しかし、わたしは顧みた、この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。(2:4~12、新共同訳、10節の下線部分は聖書協会共同訳パイロット版)

日本聖書協会は、2018年末に「聖書 聖書協会共同訳」という新しい翻訳の聖書を刊行予定ですが、そのためのパイロット版が15年より発行され、この3月まで修正意見のフィードバックが集められていました。今回のテキストのうち1~3節は、そのパイロット版の翻訳が適切だと思いましたので、それを掲載させていただきました。

前回、知恵の探求に失敗したコヘレトは、今度は「喜び(シムハー / שִׂמְחָה)」の探求に向かいます。「さあ、喜びであなたを試そう」と自分自身に向かって語ります(1節)。この「喜び」も、コヘレト書において繰り返されている言葉です。前回、「知恵」は「神の知恵」と「世の知恵」に分けられているとお伝えしましたが、「喜び」は、コヘレト書全体を読みますと、「神から与えられた喜び」と「自分で得た喜び」に分けられるようです。さてでは、コヘレトが今回試した「喜び」は、どちらだったのでしょうか。

3節では、コヘレトは「知恵によって心を導くが、しかし、天の下、人の子らが短い生涯に得る幸せとは何かを見極めるまで、愚かさに身を委ねることにした」と語ります。「知恵によって心を導く」の「心」は、ヘブライ語で「レーブ(לֵב)」といいますが、「理性」と翻訳することもできます。ですから「知恵によって理性を導く」、言い換えれば「理性を保つ」ということです。3節の最後の部分、「愚かさに身を委ねる」は、直訳では「愚かさをつかまえる」となります。欲望、特に情欲やむさぼりといった、愚かしい欲望を満たすことを意味していると思われます。つまり、3節でコヘレトは「理性を保ちつつ、欲望を満たそう」と言っているのです。

コヘレトは欲望を満たすために、知者ソロモン王に扮した1章に続いて、今度は栄華を極めたソロモン王に扮します。4~8節にそのさまが記されていますが、まずはソロモン王の栄華について、列王記上から幾つか読んでみましょう。

ソロモンの得た食糧は、日に上等の小麦粉三十コル、小麦粉六十コル、肥えた牛十頭、牧場で飼育した牛二十頭、羊百匹であり、その他、鹿、かもしか、子鹿、肥えた家禽(かきん)もあった。(5:2~3)

シェバの女王は、ソロモンの知恵と彼の建てた宮殿を目の当たりにし、また食卓の料理、居並ぶ彼の家臣、丁重にもてなす給仕たちとその装い、献酌官、それに王が主の神殿でささげる焼き尽くす献げ物を見て、息も止まるような思いであった。(10:4~5)

ソロモン王の杯はすべて金、「レバノンの森の家」の器もすべて純金で出来ていた。銀製のものはなかった。ソロモンの時代には、銀は値打ちのないものと見なされていた。王は海にヒラムの船団のほかにタルシシュの船団も所有していて、三年に一度、タルシシュの船団は、金、銀、象牙、猿、ひひを積んで入港した。(10:21~22)

彼には妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室がいた。(11:3)

ソロモンは栄華を極め尽くした王です。4~8節によれば、コヘレトはこのような記述に照らし合わせて、ゴージャスな生活をしたのです。実際にそれをやったのか、架空のこととしてであったのかは分りません。ともあれその結果、コヘレトは「かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって、わたしは大いなるものとなり、栄えた」(9節前半)と言います。知恵の探求をしたときに、「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」(1:16)と言ったのと似ています。何だか知恵の探求と似たことになってきました。他者との比較で、自分を一番としているのです。自分が良ければよいのだという、ジコチューな思考です。

ヘブライ語の原典を読みますと、4節以後には「私のために(リー / לִי)」という言葉が繰り返されています。「私のために多くの屋敷を構え、私のために畑にぶどうを植えさせ、私のために庭園や果樹園を数々造らせ」(4~5節)という形においてです。「かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって、わたしは大いなるものとなり、栄えた」となったのは、自分のためだけに欲望を満たし尽くした、その結果だったのです。そして、9節の最後にもこの「私のために」という言葉が使われています。直訳すると、「私の知恵は私のためにとどまっていた」となります。知恵さえも、自分の欲望を満たすためだけに使っていたということでしょう。このような状態での知恵は、前回の箇所で言われていましたように、「狂気であり愚か」(1:17)にしか過ぎないでしょう。

そしてコヘレトは、「目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ、どのような喜びをも余さず試みた」(10節前半)と言います。「理性を保ちつつ、欲望を満たそう」と始まった「喜び(シムハー / שִׂמְחָה)の探求」であったのですが、「愚かしい欲望によって自分だけが得た喜び(シムハー / שִׂמְחָה)」になってしまったように思えます。

コヘレトは、自己満足に浸りきって「どのような労苦をもわたしの心は喜んだ。それが、労苦からわたしが得た分であった」(10節後半)と言っています。労苦と訳されている言葉は、ヘブライ語で「アーマル(עָמַל)」といい、この言葉もコヘレト書で大変多く使われている言葉です。この言葉の意味合いはとても広く、「労働」「骨折り」「困窮」「危害」といった意味も持ちます。ここでは「骨折り」とするのが良いと思います。欲望を満たすために骨を折ったということです。コヘレトは「欲望を満たすための骨折りを、私の心は喜んだ(シムハー / שִׂמְחָה の動詞形)」と言っているのです。「喜び」が、自分の満足のためのものとなってしまったのです。「理性を保ちつつ、欲望を満たそう」ということで始まった「喜び」の探求が、欲望を満たすことに専心されてしまったようです。

しかしコヘレトはここで理性に立ち返ります。「しかし、わたしは顧みた、この手の業、労苦(骨折り)の結果のひとつひとつを」(11節前半)と言います。「この手の業」とは、喜びを得るために自分がいろいろと求めたことを言っているのでしょう。この手の業と骨折りの結果を見てコヘレトは、「見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない」(11節後半)と言っているのです。これは、コヘレトが失敗したときに使う定型の言葉です。知恵の探求において、「世の知恵」に頼って失敗したコヘレトは、喜びの探求においても、「自分で求めた喜び」で失敗してしまったようです。「喜びについては、それが何になろう」と2節ですでに言っていましたが、そのことをその後の節で説明してきたことになります。

コヘレトはこれらの探求を通して、「学習」をしていると思われます。失敗も人生には不可欠です。失敗の結果、何を見いだすかが大事です。コヘレトも何かを見いだします。コヘレトはいったい何を見いだすのでしょうか。

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コヘレト書を読む(7)「思い悩み」―まず神の国と神の義を―

2020年07月17日 | コヘレト書を読む

コヘレト書を読む(7)「思い悩み」―まず神の国と神の義を―

12 また、わたしは顧みて、知恵を、狂気と愚かさを見極めようとした。王の後を継いだ人が、既になされた事を繰り返すのみなら何になろうか。13 わたしの見たところでは、光が闇にまさるように、知恵は愚かさにまさる。14 賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。しかしわたしは知っている、両者に同じことが起こるのだということを。15 わたしはこうつぶやいた。「愚者に起こることは、わたしにも起こる。より賢くなろうとするのは無駄だ。」これまた空しい、とわたしは思った。16 賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。17 わたしは生きることをいとう。太陽の下に起こることは、何もかもわたしを苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ。

18 太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。19 その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい。20 太陽の下、労苦してきたことのすべてに、わたしの心は絶望していった。21 知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。22 まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。23 一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。(2:12~23、新共同訳)

旧約聖書のダビデ、ソロモン、ヒゼキヤ、ヨシヤは、ダビデ王朝の4人の王ですが、私はこの4人を「4大王」と名付けています。主の目に適(かな)う歩みをしつつ、同時に国を発展させた王たちだからです。聖書には、この4人の王が犯した過ちはほとんど記されていません。しかし、ヨシヤを除くと、それぞれの王が犯したヘマが書き残されています。ダビデにはバト・シェバ事件があります(サムエル記下11~12章)。ソロモンには晩年の偶像崇拝があります(列王記上11章)。ヒゼキヤは、バビロンからの使者に宝物庫のすべてを見せてしまいます(列王記下20章、イザヤ書39章)。これらの出来事は、それぞれの王の存命中のこととして伝えられています。しかしソロモンについてはその死後にも、息子レハベアムの出来事の中で、失敗談が伝えられています。列王記上12章のその話を読んでみましょう。

すべてのイスラエル人が王を立てるためにシケムに集まって来るというので、レハブアムもシケムに行った。ネバトの子ヤロブアムは、ソロモン王を避けて逃亡した先のエジプトにいて、このことを聞いたが、なおエジプトにとどまっていた。ヤロブアムを呼びに使いが送られて来たので、彼もイスラエルの全会衆と共に来て、レハブアムにこう言った。「あなたの父上はわたしたちに苛酷な軛(くびき)を負わせました。今、あなたの父上がわたしたちに課した苛酷な労働、重い軛を軽くしてください。そうすれば、わたしたちはあなたにお仕えいたします。」 彼が、「行け、三日たってからまた来るがよい」と答えたので、民は立ち去った。

レハブアム王は、存命中の父ソロモンに仕えていた長老たちに相談した。「この民にどう答えたらよいと思うか。」 彼らは答えた。「もしあなたが今日この民の僕となり、彼らに仕えてその求めに応じ、優しい言葉をかけるなら、彼らはいつまでもあなたに仕えるはずです。」 しかし、彼はこの長老たちの勧めを捨て、自分と共に育ち、自分に仕えている若者たちに相談した。「我々はこの民に何と答えたらよいと思うか。彼らは父が課した軛を軽くしろと言ってきた。」 彼と共に育った若者たちは答えた。「あなたの父上が負わせた重い軛を軽くせよと言ってきたこの民に、こう告げなさい。『わたしの小指は父の腰より太い。父がお前たちに重い軛を負わせたのだから、わたしは更にそれを重くする。父がお前たちを鞭で懲らしめたのだから、わたしはさそりで懲らしめる。』」

三日目にまた来るようにとの王の言葉に従って、三日目にヤロブアムとすべての民はレハブアムのところに来た。王は彼らに厳しい回答を与えた。王は長老たちの勧めを捨て、若者たちの勧めに従って言った。「父がお前たちに重い軛を負わせたのだから、わたしは更にそれを重くする。父がお前たちを鞭で懲らしめたのだから、わたしはさそりで懲らしめる。」 王は民の願いを聞き入れなかった。(列王記上12:1~15)

どうやらソロモン王は在位中に、イスラエルの民、わけても北イスラエルの住民に過酷な労働を課し、北イスラエルの住民から反発を買っていたようです。このことは存命中のソロモンの話からは分らない、彼の失敗談といえるものでしょう。そして、親の失敗を繰り返さないようにするのが「賢い人」であると思うのですが、息子のレハベアムは、長老たちの忠告には従わず、父と同じことを繰り返すどころか、さらに過酷な労働を課すとまで言ってしまったのです。レハベアムは、この失敗で結果的に北イスラエルを失うことになります。父の失敗に学ぼうとしなかったレハベアムの「愚かさ」を示した出来事であろうかと思います。

今回コヘレト書から取り上げる箇所では、「また、わたしは顧みて、知恵を、狂気と愚かさを見極めようとした」(12節前半)と、コヘレトが「知恵と愚かさの探求」を行ったことが、まずは伝えられています。ソロモン王に扮(ふん)していたコヘレトは、王の息子のレハベアムを持ち出すことで、「愚かさ」を語ろうとしていると考えられます。「王の後を継いだ人が、既になされた事を繰り返すのみなら何になろうか」(12節後半)というのは、レハベアムがソロモンの失敗を繰り返した出来事を指していると、私は捉えています。

コヘレトは続けて、「わたしの見たところでは、光が闇にまさるように、知恵は愚かさにまさる。賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に」(13~14節前半)と言います。知恵を愚かさよりも優位に置いているのです。旧約聖書において、コヘレト書と同じ知恵文学である箴言に、「知恵ある子は父の喜び、愚かな子は母の嘆き」(10:1)とあることなどからすると、「知恵を優位とする『知恵と愚かさの比較』」という考え方は、コヘレトの生きていた時代には、すでにあったものと思われます。コヘレトに固有なことはむしろ、次の「しかしわたしは知っている、両者に同じことが起こるのだということを」(14後半)、「賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか」(16後半)ということでしょう。死において知者も愚者も等しくなるということ。コヘレトはそこに、知者になろうとする「骨折り(アーマル / עָמַל =前回を参照)」の空しさを感じ取っているように思えます。

18~19節では、レハベアムを通してのことからもう一つ、「後継者」に関することが取り上げられていると思われます。「太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい」 ソロモン王は、自分の築き上げた富を、レハベアムという「愚者」に引き渡すことになってしまいました。コヘレトも「知恵と知識と才能を尽くして労苦(アーマル / עָמַל‘)した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えねばならない」(21節)と言います。

結局、「一生、人の務めは痛みと悩み」(23節)とコヘレトは言います。この「悩み」という言葉はヘブライ語で「カアス / כּעַס」といいます。1章18節で読んだ「知恵が深まれば悩みも深まり」の「悩み」と同じ言葉です。ヘブライ語辞典を引いてみますと、この言葉には「心痛、悲しみ、怒り、苛(いら)立ち」といった意味があるようです。動揺している様を表している言葉であるように思えます。私はこの言葉が、新約聖書の「思い悩み(メリムナオー / μεριμνάω)」という言葉に該当すると捉えています。

私にとって、「思い悩み」という言葉が語られている最も印象的な箇所は、イエスの山上の説教の中の次の言葉です。

なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ6:28~34)

イスラエルを旅行したことがありますが、その時に「山上の説教の丘」と呼ばれている所に行きました。花がとても美しく咲いていました。「イエス様はこういう花を見ながら語られたのだろうなぁ」と思わされたものです。「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」という言葉が響いてきました。「だから思い悩む必要はない」と、イエスは言われたのです。この「思い悩み」が、コヘレトの言う「悩み(カアス / כּעַס)」に該当するのではと考えています。

後継者の問題で将来を案じ、「一生、人の務めは痛みと悩み」と言ったコヘレトが気付いていくことは、「思い悩む必要はない」ということではないかと考えています。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」 これはコヘレトよりずっと後のイエスの言葉ですが、コヘレトはさまざまな探索の結果、この視点に向かわされるように感じています。ソロモン王に扮し、「栄華を極めた」体験をしたコヘレトは、しかし結局「思い悩み」から抜け出せませんでした。けれども「神の国と神の義」を求めたコヘレトは、「喜び(シムハー / שִׂמְחָה=前回を参照)」を得ることになる。私はそう考えています。(続く)

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コヘレト書を読む(8)「神様からのプレゼント」―食べることと飲むこと―

2020年07月17日 | コヘレト書を読む

コヘレト書を読む(8)「神様からのプレゼント」―食べることと飲むこと―

24 人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは、神の手からいただくもの。25 自分で食べて、自分で味わえ。26 神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる。だが悪人には、ひたすら集め積むことを彼の務めとし、それを善人と認めた人に与えられる。これまた空しく、風を追うようなことだ。(2:24~26、新共同訳)

24 人にとっては、食べたり飲んだりして、自分の労苦によって得たものを楽しむほかに、何も良いことはない。わたしはこれもまた、神の手からのものだとわかった。25 神から出なければ、だれが食べ、だれが飲むことができようか。26 神は御心に適う人には知恵と知識と喜びとを与える。しかし、罪人には富を集めたり貯えたりする仕事を与える。これは神のみ心にかなう人に、それを残すためである。これもまた空しく、風を追うようなものである。(同、フランシスコ会訳分冊)

24 人には、食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。そのようにすることもまた、神の御手によることであると分かった。25 実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。26 なぜなら神は、ご自身が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた空しく、風を追うようなものだ。(同、新改訳2017)

24 人が飲み食いし、その労苦で自分によきものを見させるのは、人の側の善ではない。それは神の手によること、そのことをこそわたしは見た。25 人が食べたり、楽しんだりするのは、たしかに自分を離れてはあり得ない。26 しかしみ前に良しとされる人に神は知恵と知識と楽しみとを与える。罪人には集めたり、貯えたりする業を与え、神のみ前に良しとされる人にこれをさらに与えることになる。これも空で風を追うことだ。(同、関根正雄訳)

24 人にとって食べることと飲むこと、彼の労苦で得た良いものを彼の魂に見させることより良いことはない。これもまた神の手によることを見た。25 私以外に、誰が食べ、誰が楽しむのか。26 彼は彼の前に良い者には知恵と知識と喜びを与え、間違うものには労苦を与え、集めて積ませ、神の前に良い者に与える。これもまた空であり、風を追うことだ。(同、西村俊昭訳)

今回は新共同訳以外に、個人的に好んでいる翻訳聖書(西村訳は注解書)を4点掲載させていただきました。まずは翻訳の比較ですが、24節の冒頭は、新共同訳と関根訳が「飲み食い」としていますが、その他は「食べたり飲んだり」となっています。ヘブライ語原典と照らし合わせるならば、後者の方が良いと思います。「飲み食い」では享楽的な印象を与えますが、原文のニュアンスにはそのようなものはなく、私たちのごくありふれた「日々の糧」のことを指しているからです。

25節は解釈が分かれます。節の最後にあるヘブライ語「ミンメニー / מִמֶּנִּי」は、通常は「私以外に」と翻訳されます。ですから通常通り翻訳するならば、「自分で食べて」(新共同訳)、「自分を離れては」(関根訳)、「私以外に」(西村訳)となるでしょう。しかし七十人訳聖書(紀元前1世紀までにギリシャ語に翻訳された旧約聖書)で、「彼を離れては(パレクス アウトゥー / πάρεξ αὐτοῦ)」と翻訳されているため、それを受けてさらに「彼=神」であると解釈して、フランシスコ会訳は「神から出なければ」、新改訳2017は「神から離れて」と翻訳しているものと思えます。私は、七十人訳を考慮して翻訳するよりも、ヘブライ語原典に忠実に、「私から離れて、誰が食べ、誰が楽しむか」というニュアンスの翻訳で良いと思います。

26節は西村訳が一番良いと思います。西村訳が「間違うものには」としているところを、他の翻訳は「罪人」と訳していますが、それではきつ過ぎると思います。コヘレトは探求において、「自分の欲望だけを満たすためにことを起こす」という間違いを犯しましたが、そのように間違う者には、富を集めて貯えさせるという意味です。しかし、「富を集めて貯える」というテーマは、5章9節から詳しく展開されますので、そこを取り上げる際に考えることとして、今回はこのテーマには立ち入りません。

さてこれまで、各回のコラムの末尾で以下のように述べてきました。

コヘレトは、彼が生きていた時代に、神様のなさってくださる御業を、どのように捉えていたのでしょうか。そして彼は、何を探求し、何を見いだして、何を大切にしていたのでしょうか。(第1回)

(コヘレトは)神様から与えられるプレゼントを、喜んで受け取ることのできる人生の素晴らしさを、知っていた人であったと考えています。(第2回)

しかしコヘレトは、空しさを追求しつつも、その空しさの外側をきちんと見ています。神との関わりにおいて得ることのできる「神様からのプレゼント」を見ているのです。ではそれは一体何なのでしょうか。(第3回)

しかしコヘレトは、神は「無限」の外側におられる方であることを知っていて、その神とつながっていること、あるいは「神様からのプレゼント」を受け取ることを大事にしていた人なのです。(第4回)

けれども「神の国と神の義」を求めたコヘレトは、「喜び」を得ることになる。私はそう考えています。(第7回)

今回、これらに対するコヘレトの答えが、いよいよ初めて導き出されます。それは「日々の労働によって食べて飲む。それを神様からのプレゼントとして受け取る」ということです。牛や羊をたくさん所有して食材としたり、酒で肉体を刺激したりするのは「空しい」のですが、ささやかであっても日々の糧を神の手から頂くこと、すなわち「神様からのプレゼント」として受け取ることは、「空しい(ヘベル / הֶבֶל)」ことではなく、「良い(トーブ / טוֹב)」ことなのです。

この「食べて飲むことを神様からのプレゼントとして受け取る」というテーマは、コヘレトが一番大切にしていることであり、コヘレト書の中で何度も繰り返し書かれることになります。コヘレトは、イエスの言われた「神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)という言葉を先取りする形で、神を畏れ敬い、与えられたものとしての日々の糧を食べ飲むということを大切にしていたと、私は考えています。

ところで、ディートリッヒ・ボンヘッファー(1906~1945)というドイツ人牧師の書いた「Von guten Mächten wunderbar geborgen(善き力にわれ囲まれ)」という詩に、ジークフリート・フィーツというドイツ人音楽家が曲を付けた賛美歌(『讃美歌21』の469番ではありません)が最近、ドイツや日本で大変人気を集め、愛唱されています。上記のリンクは作曲者フィーツ自身によるピアノ弾き語りですが、私が所属している「愛知牧師バンド」による練習中の演奏も公開していますので、よろしかったらご覧ください。しかしボンヘッファーは本来、ナチスに殺害された殉教者としての生き様と、多くの著作で知られている牧師です。

その著作集の中に『現代キリスト教倫理』という1冊があります。この本に、「究極のものと究極以前のもの」という大変すぐれた論文が収められていて、次のことが書かれています。「恵みによる罪人の義認」という「究極のもの」が最も大切である。しかし「究極以前のもの」も大切にしなければならない。そう言ってボンヘッファーは、「究極以前のもの」を列記します。その一つの項目が「身体的生活の権利」です(同書149~161ページ)。

そこでボンヘッファーは、コヘレト書で繰り返される前述のテーマを、コヘレト書の幾つかの聖句と共に、身体的生活の権利の根拠として取り上げています。「食べることと飲むことは、ただ肉体の健康を維持するという目的に役立つのみではなく、身体的生活における自然的喜びをつくり出すためにも役立つ」。聖句の引用の後、こう書き出したボンヘッファーは、「『身体的生活の意味は、決して何か他の目的に従属するものではなく、それに内在している喜びの要求が満たされたときに初めてその意味は十分に汲(く)み尽くされるのである』と結論しても良いだろう」と書いています。喜びが大切だというのです。

26節には「彼(神)は彼の前に良い者には知恵と知識と喜びを与え」(西村訳)とあります。コヘレトは、自分のための喜びを追求して「空しい」と言いましたが、神から与えられる喜びは「良い」としているのです。ボンヘッファーがここで「喜びの要求」と言っているのも、人間が本来神から与えられている「権利としての喜び」ということではないかと思います。

25節の「私以外に、誰が食べ、誰が楽しむのか」(西村訳)も、ボンヘッファーが書いていることを理解すると、分かりやすいと思います。ボンヘッファーは「身体的生活の権利」の中で次のようにも書いています。「身体は、それぞれの場合において常に、『私の身体』である。身体は、決して、たとい結婚の場合においても、それが私に属しているのと同じような意味で、他の人に属することはありえない。私の身体は、私を、空間的に他の人から分かち、私を、ほかの人間に対して、人間として対置させるものである」。ここでは、「私の身体は、神に造られたかけがえのない私である」と、ボンヘッファーは言っているように思えます。このことに照らして、25節の「私以外に、誰が食べ、誰が楽しむのか」を読むならば、「食べること、楽しむことは、神に造られた私という、かけがえのないものが行うことなのである」と、コヘレトは言っているように思えるのです。

食べることと飲むことを、神様からのプレゼントとして「私」が受け取るということ、それが、コヘレトが伝える第一の重要なメッセージです。それは「空しい(ヘベル / הֶבֶל)」ことではなく、「良い(トーブ / טוֹב)」ことなのです。コヘレト書はその後、第二のメッセージへと進んでいきますが、その前にコヘレトは、この第一のメッセージを「時」という観点で展開させます。(続く)

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コヘレト書を読む(9)「4つの時」―点的な時・時間・無限・神の永遠―

2020年07月17日 | コヘレト書を読む

コヘレト書を読む(9)「4つの時」―点的な時・時間・無限・神の永遠―

前回、「食べて飲むことを神様からのプレゼントとして受け取る」ということを、コヘレトが最も大切にしていると書かせていただきました。今回は、大切にしているそのことを、コヘレトが「時」という観点で展開させていることをお伝えしたいと思います。

さて、今回は3章1~17節を取り上げますが、この箇所は大変綺麗な「集中構造」によって書かれています。集中構造といいますのは、第2回でもお伝えしましたように、修辞法(レトリック)の一つで、文章が、ABC〔D〕C´B´A´というように、ある部分を中核にして対称の形になっているものです。そう言っても分かりにくいと思いますので、一つ分かりやすい具体例を示してみたいと思います。第3回でも取り上げた、創世記4章1~17節のカインとアベルの話が、とても分かりやすい事例だと思いますので、この話を集中構造分析してみたいと思います。1~17節の中核部を見いだし、対称形に抽出し、対称になっている部分をA~Hのアルファベットとそのダッシュでつなぎます。〔 〕内に、それぞれの対称部の題と考えられる言葉を付けさせていただきました。

A〔妻を知る〕さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。
B〔主のみ前(に出る・から去る)〕(略)時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
C〔目を留められる主〕主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。
D〔顔〕カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」
E〔罪〕「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。」
F〔呪い〕「お前はそれを支配せねばならない。」
G〔アベルの血〕カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
H〔主の問い掛け〕主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」
I〔中核〕カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」
H´〔主の問い掛け〕主は言われた。「何ということをしたのか。」
G´〔アベルの血〕「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。」
F´〔呪い〕「今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」
E´〔罪〕カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。」
D´〔顔〕「今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて(略)」
C´〔目を留められる主〕主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。
B´〔主のみ前(に出る・から去る)〕カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。
A´〔妻を知る〕カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。

(創世記4:1~17、新共同訳)

このように分析してみますと、この話は、中核部I「カインは答えた。『知りません。わたしは弟の番人でしょうか』」を軸にして、ABCDEFGH〔I〕H´G´F´E´D´C´B´A´という対称形になっていることが分かります。このような文章の構造がまさに集中構造です。聖書には旧約にも新約にも、この集中構造によって書かれているものがたくさんあります。なぜこのような構造になっているのかといいますと、古い時代には、聖書の話が文章ではなく、口から口へ伝承されたというところに理由があるようです。このように対称の形に話をまとめれば、先代から後代へと口で伝えやすかったのでしょう。しかし、元来は伝承のためのものであったこの集中構造が、次第に修辞的に美しさを求めるものになっていったともいわれています。集中構造、特に聖書の中のものについては、森彬(あきら)著『聖書の集中構造』()において、詳しく学ぶことができます。

集中構造というのは、カインとアベルの話の分析で分かるように、1)中核があり、2)対称箇所が共通した内容になっています。集中構造を検討することによって読者が得られることは多々あるのですが、私は重要なことは2つだと考えています。それは、1)集中構造では中核が一つの話の中心になっている。だから中核を見つけ出せれば、その話において何が一番中心的なことであるかが分かる。2)対称箇所に共通することが書かれているので、読んでいて分からないところがあれば、対称箇所を見ることによって、そこからヒントを得ることができる、ということです。この2つを活用するだけでも、聖書を読む楽しさはグーンと膨らみます。

ちなみに、このカインとアベルの話の中心は、集中構造分析によるならば、カインがアベルを殺害したことではなく、中核部の「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と、カインがその殺害について神に対してシラを切ったことであることが分かります。なるほど、確かにそうかもしれない、カインの犯した罪で最も重いものはそれなのか、と思わされるものです。

さてそれでは、今回の本題にまいります。コヘレト書3章1~17節の集中構造分析をして、そこから何を得られるのか探ってみましょう。以下がその分析ですが、やはりこれも、対称部ごとに題を付けてみました。

A〔すべてに時がある〕
1 何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
B〔すべては神の御手の内に〕
2 生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、3 殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、4 泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、5 石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時、6 求める時、失う時、保つ時、放つ時、7 裂く時、縫う時、黙する時、語る時、8 愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時。
C〔考察〕
9 人が労苦してみたところで何になろう。10 わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
D〔神による時の支配〕
11 神はすべてを時宜にかなうように造り、
E〔無限〕
また、「ハーオーラーム / הָעֹלָם」を思う心を人に与えられる。
F〔神の永遠への畏れ〕
それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。
G〔ヤーダゥティー / יָדַע‏ְתִּי〕
12 わたしは知った。(ヘブライ語の原文は上記〔 〕内)
H〔中核〕
人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。13 人だれもが飲んで食べ、その労苦によって満足するのは、神の賜物だ、と。
G´〔ヤーダゥティー / יָדַע‏ְתִּי〕
14 わたしは知った。(ヘブライ語の原文は上記〔 〕内)
F´〔神の永遠への畏れ〕
すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。
E´〔無限〕
15 今あることは既にあったこと、これからあることも既にあったこと。
D´〔神による時の支配〕
追いやられたものを、神は尋ね求められる。
C´〔考察〕
16 太陽の下、更にわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。
B´〔すべては神の御手の内に〕
17 わたしはこうつぶやいた。正義を行う人も悪人も神は裁かれる。
A´〔すべてに時がある〕
すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある。

(3:1~17、新共同訳、11節の「ハーオーラーム」はヘブライ語原語、13節下線部は新共同訳以外の多数の聖書翻訳)

以上のように分析してみました。ただこれは、あくまでも私の分析です。集中構造分析は、分析者によって若干の差が出るものであることを付言させていただきます。しかし、このテキストの集中構造分析においては、私が知る限り、どの分析者も中核部については一致しています。ですから、このテキストの中心が、コヘレトがこの書の中で最も大切にしている「食べて飲むことを神様からのプレゼントとして受け取る」であることは明らかです。これが前述した「集中構造によって分かる重要なこと」の1つ目によって得られることです。

この集中構造をよく見てみますと、「時」というテーマによって貫かれたものであることが分かります。出だしの「何事にも時があり」(1節前半)の「時」は、ヘブライ語で「ゼマーン / ז‏ְמָן」という単語です。これは「季節・時間・期間」と翻訳できる、一定の長さを持った「時」のことです。それに対して1節後半の「すべて定められた時がある」の「時」は、「エート / עֵת」という単語です。こちらは「点的な時」です。2~8節には、14対28個の「時」がありますが、これらはすべて「点的な時・エート / עֵת」です。

しかし考えてみますと、対になっているその2点の間は、すべて「時間」なのです。植える時と抜く時の間は「時間」です。「愛する時」を持っていた2人が、何らかの要因により「憎む時」を有するようになる。その間は「時間」でしょう。つまり、「何事にも時(ゼマーン / ז‏ְמָן=長さのある時)がある」なのです。

そしてさらに考えてみますと、「植える時・抜く時」という対句を例に取れば、抜いた植物から取った種をまいて苗を育て、また植えるというように、これらの対句は、無限に循環を繰り返していることも分かります。「時間」からさらに「無限」へと、時は広がっていくのです。

第4回で書かせていただきましたが、コヘレトはこの「無限」という概念を知っていたと思います。1章3~11節には、太陽の下における始めから終わりまでという「無限の循環」についての観察がなされ、無限の循環を表している幾つかの句が列記されています。「風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き、風はただ巡りつつ、吹き続ける」(6節)、「川はみな海に注ぐが海は満ちることなく、どの川も、繰り返しその道程を流れる」(7節)といった句が列記されていました。そしてコヘレトは、この3章においても「無限」について記しているのです。

11節の、ヘブライ語原語のまま記した「ハーオーラーム / הָעֹלָם」を、新共同訳は「永遠」と翻訳し、「(神は)永遠を思う心を人に与えられる」としています。他の日本語訳聖書もだいたい同じです(ただし岩波書店版月本昭男訳は「永遠性」)。しかし私は、人の心に与えられる「ハーオーラーム」とは、太陽の下での始めから終わりまでを示す「無限」と翻訳すべきであると考えています。「ハーオーラーム」は、「永遠」を意味する名詞「オーラーム / עוֹלָם」に、定冠詞「ハ / ‎הַ」が付いた形のものです。第3回でも書かせていただきましたが、ヘブライ語においては、定冠詞は名詞を限定化させます。ここで「永遠」という名詞を、太陽の下という場所に限定化させた場合、それは「無限」でありましょう。

「ハーオーラーム」を「無限」と考えるもう一つの理由は、前述した「集中構造によって分かる重要なこと」の2つ目、「対称箇所には同じことが書かれているので、分からないときなどは対称箇所を見る」の援用によるものです。「ハーオーラーム」が記されている、Eの対称箇所であるE´を見ますと、「今あることは既にあったこと、これからあることも既にあったこと」とあります。これは1章にある無限の循環を意味している幾つかの句の中の一つ、「かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる」(1:9)とほぼ同じです。つまり、E´には「無限」について観察した結果を示す句が書かれているのです。ですから、このE´の対称箇所である、Eに記されている「ハーオーラーム」の意味するところは、これもやはり「無限」であるということが、集中構造の検討によっても説明できるのではないか、と私は考えているのです。

コヘレト書において、「ハーオーラーム」という語はここで一度使われているだけですが、実は、このハーオーラームの解釈と翻訳はさまざまです。ユダヤ教を代表する哲学者ヘッシェルは、著書『人間を探し求める神』の中のコヘレト書に関する一文の中で、「ハーオーラーム」を「神秘」と訳出しています。「ハーオーラーム」にはその他にも、「持続」「過去」「常に起こる新しい繰り返し」「時空」などの解釈・翻訳があるようです。しかし私は上記の通り、1)「永遠」という名詞に、名詞を限定化する定冠詞が付いていることにより、太陽の下における「無限」を指すものと考えられる、2)集中構造の対称箇所に「無限」を示す句が置かれている、という2点から、「ハーオーラーム」は「無限」であると考え、11節の当該箇所を「(神は)また、無限を思う心を人に与えられる」と解釈します。このことは、紀元前3世紀の人といわれているコヘレトの時代までのギリシャ哲学において、「無限」が論じられていたことと(例えばアリストテレスによって)、関係があるのかもしれません。

しかし、「無限」はあくまでも、太陽の下という場においての始めから終わりまでです。コヘレトはさらに、「それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」(11節)と続けています。人間は「無限」を思うことはできても、「神の永遠」を見極めることはできないというのです。つまり、太陽の下の無限の外側に、「神の永遠」という、別次元の「時」があることもコヘレトは知っており、「無限」と「神の永遠」を峻別し、「神の永遠」をより高い次元に置いているのです。コヘレトは、「ギリシャ哲学では無限ということが言われているが、ヘブライで信仰されている神ヤハウェは、ギリシャ哲学の思考の枠外の、さらに高い次元におられる方なのだ」ということを語ろうとしているのかもしれません。

コヘレトは3章1節から「時」を語り始め、11節までにおいて、「点的な時」→「時間」→「無限」→「神の永遠」と、山に登るように4つの時を積み重ねてきたのです。そして14節から17節では今度は逆に、「神の永遠」から「点的な時」へと降っていっているのです。このように集中構造によって描かれた山の頂上部分ともいえるクライマックスに、「人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲んで食べ、その労苦によって満足するのは、神の賜物だ、と」(12〜13節)という、2章の最終部において明らかにされた、あの最も大切なテーマを置いているのです。

なぜそのようにしているかといえば、飲んで食べることを、永遠の神からの賜物、すなわち「神様からのプレゼント」として受け取ることを、コヘレトが本当に大切にしていたからだと、私はそう考えています。(続く)

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