ある牧師から

ハンドルネームは「司祭」です。

クリスチャントゥデイ連載・コヘレト書(伝道の書)を読む(1)「集める人」―書名・著者・執筆年代について― 

2020年08月11日 | コヘレト書を読む


(神学校での恩師の著作)

クリスチャントゥデイ社の許可を得まして、私が同ニュースサイトに連載しておりました「コヘレト書を読む」をこのブログでも連載させていただきます。クリスチャントゥデイ掲載分から少し変更させる場合もあります。


エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。(1:1、新共同訳)

今回からコヘレト書を読んでまいりたいと思います。私はまだ学びの途上にありますが、コヘレト書について考えているさまざまなことを世に問いたい思いもあり、コラムの執筆を引き受けさせていただきました。皆様のご意見をいろいろと伺えれば幸いです。

私自身は、口語訳聖書を使用していたときの「伝道の書」と題されていたこの書の、以下の4つの聖句を鮮明に記憶しています。

空の空、空の空、いっさいは空である。(1:2)
天(あま)が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。(3:1)
神のなされることは皆その時にかなって美しい。(3:11)
あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。(12:1)

掛軸や御言葉カードなどに記されていた聖句であったように思います。そのような印象深い聖句がちりばめられている本書を、丁寧に読み進めてまいりたいと思います。

ヘブライ語聖書のコヘレト書の表題“QHLT”に、一番近い発音の日本語表記は「コヘレト」でしょうか。ユダヤ人が旧約聖書を朗読している録音を聞いてみても「コヘレト」と聞き取れます。コヘレトとはヘブライ語の動詞カーハールの分詞形で、「集める人」といった意味の語です。

日本の各翻訳聖書でのこの書のタイトルを見てみますと、「コヘレトの言葉」(新共同訳、聖書協会共同訳)、「伝道の書」(口語訳)、「伝道者の書」(新改訳、旧版・2017年版共に)、「コーヘレト書」(岩波書店版月本昭男訳)、「コヘレト」(フランシスコ会訳)、「コーヘレト」(関根正雄訳)となっています。

「伝道の書」あるいは「伝道者の書」という解釈は、この書の七十人訳(ギリシャ語訳)聖書のタイトルが「エクレシアステース」であり、その意味が「集会で語る人」ともなり得ることによるものでしょう。しかし「集める人」とは、「書かれているものを集める人」(12章9節参照)と解することもできます。筆者がこの書を読む限りでは、どうもそのような要素が強いように思えます。「古今東西の書物を集め、探求し尽くした人」の言葉集であるように思えるのです。

ですから「伝道(者)の書」と狭義に解釈してしまうよりは、「コヘレト」とヘブライ語の表題そのままに呼ぶ方がふさわしいと考えています。また、旧約聖書の預言書などが日本語では「○○書」と呼ばれていることにも鑑み、本コラムにおいてはこの書を「コヘレト書」と呼ばせていただきます。

さて、コヘレト書は1章1節において「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」と書き出されています。ダビデ王の子といえば、通常はダビデ王の次の、紀元前10世紀のイスラエルの王、ソロモンを指しますから、この書は「ソロモン王の言葉集である」とも読めるでしょう。実際、伝統的にはそう解釈されてきたようです。しかし、今日においては、この書をソロモン王自身の言葉集であるとする説は、聖書学的にはほとんど受入れられていないようです。私もソロモン王のものではないと解していますが、その理由を私自身の視点で3点挙げておきます。

理由1:1章12節に「わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた」とあり、コヘレトとされる人が、王としてエルサレムに滞在していたことが過去形(ヘブライ語聖書では完了形)で記されています。しかし、列王記上11章42節によれば、ソロモン王は終世エルサレムで王でした。ですから「エルサレムに滞在していたことが完了形」は考えにくいのです。つまり「コヘレトとされる人が、自分をソロモン王にしたてていることは虚構である」ということが、ここでバレてしまっているのです。というよりも「わざとバレさせている」と解した方が良いかもしれません。

理由2:8章9節に「今は、人間が人間を支配して苦しみをもたらすような時だ」とあります。このことは、コヘレトとされる人が生きた時代のイスラエルが、他国に支配されていたことをほのめかしています。ソロモン王の時代であればそれはあり得ません。

理由3:8章11節に「条例」という語があります(口語訳、フランシスコ会訳、聖書協会共同訳は「判決」、新改訳は旧版・2017版共に「宣告」)。この語は原文ではピトゥガームですが、これはペルシャ語からの借用語です。そうであれば、コヘレト書が書かれたのはペルシャ支配時代以後、つまり捕囚帰還後の第2神殿時代である、紀元前5世紀以後であるということが言えましょう。したがってこの書は、紀元前10世紀のソロモン王によるものではないことになります。

以上3点が、私自身が「コヘレト書はソロモン王自身の言葉集ではない」と考える理由です。コヘレト書の注解書・研究書の多くは「この書は、イスラエルがプトレマイオス王朝支配下にあった紀元前3世紀に書かれた、コヘレトとされるある賢者の言葉集である」としています。そこまで断言する解釈力は私にはありませんが、そのように見ることが妥当なのでしょう。ただ、ソロモン王の言葉集とされているということは、コヘレトが知恵者ソロモン王を受継いでいることを意味していることではあり、「ソロモン王はこのように言っています」としているような、コヘレト書を引用した説教文などを読んでも、違和感を感じるようなことは私にはありません。

著者や執筆年代の問題には、それほどこだわる必要はないのかもしれませんが、この書のところどころに見いだされる「時代の影」を読み取るためには、押さえておいた方が良いと思います。コヘレトは、彼が生きていた時代に、神様のなさってくださる御業を、どのように捉えていたのでしょうか。そして彼は、何を探求し、何を見いだして、何を大切にしていたのでしょうか。そんなことに着目しながら、コヘレト書を読み進めてまいりたいと思います。

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コヘレト書(伝道の書)を読む(2)「真理の言葉」―修辞法に考慮しつつ―

2020年07月17日 | コヘレト書を読む

クリスチャントゥデイコラム・コヘレト書を読む(2)「真理の言葉」―修辞法に考慮しつつ―

コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し、編集した。コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした。賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。(12:9~11、新共同訳 / 新共同訳聖書旧約P1048、新改訳聖書P1115、2017版P1154)

前回、1章1節をお読みしました。「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」。これによって「コヘレト書は伝統的にはソロモン王の言葉集とされていたが、今日の聖書学においては、この書はもっと後代のコヘレトとされるある賢人の言葉集であるといわれている」とお伝えしました。ところでこの1章1節は、コヘレト自身の言葉ではなく、弟子による編集の言葉であるとされています。「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」と3人称で書かれていますから、他者によって書かれたことは感じられます。

ところで、コヘレト書は「修辞法」を多用していることが知られています。当該箇所でお伝えすることになると思いますが、3章1~17節は大変綺麗な「集中構造」という修辞法によって書かれています。コヘレト書では集中構造の他にもう一つ、「インクルージオ(囲い込み)」といわれる修辞法も使われています。「文章の最初と最後が対称形になっていて、その間の部分を囲い込んでいる」ということです(ただし、集中構造はインクルージオの1つといえるかもしれません)。

コヘレト書を最後まで読みますと、12章8節で1章2節と同じような言葉が繰り返されていることが分かります。1章2節は「コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」ですが、12章8節は「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と」です。よく似た言葉です。この2つが対称形となっていて、その間を囲い込んでいるのです。この修辞法が「インクルージオ」と呼ばれるものです。

そうするとどうでしょうか。1章2節と12章8節の外側の言葉も対称形になっていると考えられないでしょうか。私は12章9~11節が1章1節の対称箇所に当たると考えています。これもまたインクルージオ構造となっているのです。ただ、コヘレト書全体の結びの言葉である、その後の12章12~14節は、インクルージオ構造の枠外になると考えられます。

コヘレト書のインクルージオ

A´ 1:1 エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。
B´ 1:2 コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。

1:3~12:7

B´ 12:8 なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と。
A´ 12:9~11  ・・・コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした。・・・

聖書を読む場合、通常は1章1節の次は1章2節を読みますが、インクルージオ構造の場合は、対称箇所を先に読むという読み方もアリです。そう読んだ方が、囲い込まれている部分をより理解しやすくなるのです。ですので今回は、前回の1章1節の次に、対称箇所である12章9~11節を読んで、それから次回の1章2節に進みたいと思います。

この12章9~11節も、1章1節同様、コヘレト自身の言葉ではなく、弟子による編集の言葉であるといわれています。「コヘレトは」と3人称で書き出されていますから、そう読むのが自然でしょう。おそらく1章1節と同じ編集者によるものではないでしょうか。ともあれ、12章9~11節を1章1節につなげて読むならば、コヘレトという人がどういう人であるかを「編集者から説明してもらえる」といえると思います。

新共同訳聖書の12章9節前半「コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた」は、翻訳が適切ではないと思われますので、原典に忠実に「コヘレトは知者であった上に、常に民に知識を教えた」と私訳しておきます。コヘレトは知者であったのです。前回書きましたように、コヘレトは、イスラエルがプトレマイオス王朝支配下にあった紀元前3世紀に生きた人であるというのが、今日の聖書学での定説です。アレクサンダー大王が東方遠征により広大な領土を築き上げた後の人です。

エジプトでは、プトレマイオス王朝の首都アレクサンドリアが繁栄していました。アレクサンドリアは、ギリシャ文化が融合された街です。1章7節に「川はみな海に注ぐが海は満ちることなく、どの川も、繰り返しその道程を流れる」と記されている川は、海に注いでいるため、パレスチナの川ではなくナイル川が想定されるとして、「コヘレトはアレクサンドリアに留学経験があったのではないか」とする聖書学者もいます。私もそのように考えています。

いずれにしても、コヘレトあるいはその弟子がギリシャ文化を知っていた可能性は十分にあるのです。ヘブライの書物だけでなく、東西の書物を集め、探求し尽くした知者であったのです。9節後半の「多くの格言を吟味し、研究し、編集した」が、ギリシャの詩人テオグニス(紀元前6世紀末~5世紀前半)の言葉と一致するとの説もあります(関根正雄著作集第5巻444ページ)。もしそうであれば、コヘレトあるいはその弟子がテオグニスを知っていたということです。私は、コヘレト書の中に見られるギリシャ的思想にも関心を持っています。

10節には「コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に書き記した」(下線部は私訳)とあります。コヘレトは著述家だったのです。「古今東西の書物を集め、探求し尽くし、真理の言葉を忠実に書き記した」のです。「真理の言葉(複数形)」は、七十人訳(ギリシャ語訳)聖書では「ログース アレーセイアス(λόγους ἀληθείας)」ですが、これはパウロの言う「真理の言葉、神の力によってそうしています」(コリント二6:7)の「真理の言葉(単数形)」と、複数形と単数形の違いはあるものの同じです。私は、コヘレトは古今東西の書物を集め、それらを探求しながら「真理の言葉・神の御業」を見いだし、書き記した人であったと考えています。

11節「賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した」。突き棒というのは、飼い主が家畜をつつく棒のようです。釘と共に痛いもののことでしょう。コヘレトが探求した言葉の中には、厳しいものもありました。しかし「ただひとりの牧者」(詩編23編参照)から与えられたプレゼントを、この書の中に見いだしてほしいという、編集者の願いがここには込められているように思えます。

コヘレト書を「哲学の書」と捉える解釈もあるようですが、私はそのようには考えません。この書は「神の言葉の書」です。またコヘレトを厭世(えんせい)主義者と捉える解釈もありますが、そのようにも考えません。世界の厳しい現実と向き合い、呻吟(しんぎん)しながらも、神様から与えられるプレゼントを、喜んで受け取ることのできる人生の素晴らしさを、知っていた人であったと考えています。コヘレトが「真理の言葉」と語る神様からのプレゼントを読み味わっていきたいと思います。
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コヘレト書(伝道の書)を読む(3)「すべては空しい」―コヘレトは厭世主義者か―

2020年07月17日 | コヘレト書を読む

クリスチャントゥデイ掲載の拙コラムです

クリスチャントゥデイコラム・コヘレト書を読む(3)「すべては空しい」―コヘレトは厭世主義者か

コヘレトは言う。なんという空(むな)しさ、なんという空しさ、すべては空しい。(1:2、新共同訳)

なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と。(12:8、同)

前回お伝えいたしましたように、コヘレト書にはインクルージオ(囲い込み)といわれる修辞法が使われています。1章2節と12章8節を見比べますと、その内容はとてもよく似ています。この2つの節によって、その間の部分がサンドイッチされているわけです。コヘレト書は冒頭の1章2節で、読者に対して重要な問題提起をして、その提起を最後に再度行っているといっても良いでしょう。しかしその提起が何とも奇妙です。「すべては空しい」という提起なのです。

私は以前、口語訳聖書を読んでいましたが、口語訳でここを読んだときのインパクトは強烈でした。「空の空、空の空、いっさいは空である」と書かれていました。「聖書にもこんな言葉があるんだなあ」と思ったものです。何だか聖書らしくないのです。実際にこの言葉から、コヘレトを厭世(えんせい)主義者と見る向きもあるようです。また、仏教における空思想との関連を指摘する人もいます。しかし私は、いずれのようにも考えてはいません。前回示したように、コヘレトは「真理の言葉を忠実に書き記した」人です。コヘレト書の中にある言葉でいうならば「真理の言葉」という「神様からのプレゼント」に目を向けていた人なのです。

ではなぜ「すべては空しい」と言うのでしょうか。ここで「すべて」と翻訳されている言葉を、ヘブライ語原典で見てみたいと思います。1章2節も12章8節も、この言葉は「ハッコール(הַכֹּל)」です。これはすべてを意味する「コール(כֹּל)」に、定冠詞「ハ(הַ)」が付いたものです。ヘブライ語において、名詞に定冠詞が付く用法には、その名詞を限定化するというものがあります。「すべて」という言葉を限定化しているのです。ある限定化された範囲での「すべて」ということなのです。私はそのように捉えています。

1章14節に「わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな(この「どれもみな」もハッコール)空しく、風を追うようなことであった」とあります。コヘレトは「太陽の下におけるすべては空しいのだ」と言っていると、そう解釈したらどうでしょうか。ですから「太陽の下」の外側の存在を、コヘレトは「空しい」とは言っていないのです。

コヘレト書を読んでまいりますと、「空しい」という言葉が繰り返されますが、半面「良いこと」「幸福」「満足」という言葉も繰り返されます。日本語ではさまざまな言葉になっていますが、これらの言葉はヘブライ語「トーブ(טוֹב)」の翻訳です。ヘブライ語で「おはようございます」を「ボケル トーブ」と言いますが、「good morning」と同じニュアンスです。トーブ=good です。コヘレトが厭世主義者で「この世は嫌だ、嫌だ」と言っているだけの人物であるならば、「トーブ」が繰り返されているのはなぜでしょうか。私は「コヘレトはこの世(太陽の下)の空しさを徹底追求し、そのことによって、この世の空しさの外側にある『トーブ』を探求している人」であると考えています。

コヘレトにとって神は「太陽の下」をすべて支配される方ではありますが、しかし「神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」(3:11)と書かれているように、神は「太陽の下」を超えた存在なのです。コヘレトは「太陽の下におけるすべては空しいのだ」と言います。しかし「太陽の下」を超えた、神との関わりにおけること、あるいは神との関りにおいて「神様からのプレゼント」を受け取ることを「空しい」とは言いません。コヘレトにとってそれは「トーブ」なのです。コヘレトは「トーブ」を導き出すために、「空しさ」の徹底追及を行っているのです。

そうなりますと、「空しさ」という言葉の意味を理解することは、コヘレト書を読む上ではとても大事なことです。今まで申し上げてきたことを前提にして、空しくはならないで、「空しさ」という言葉の意味を理解してみましょう。まずは旧約聖書の創世記4章に書かれている「カインとアベル」の話を読んでみます。実はこの話の中には「空しさ」が隠されているのです。

さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献(ささ)げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。(中略)カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。(創世記4章1~8節)


(ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作 「カインとアベル」)

聖書が伝える人類最初の夫婦、アダムとエバの間に生まれた兄弟の話です。ある時、兄カインは自分の作った農作物を、弟アベルは自分の飼っている羊から初子をそれぞれ持ち、神の御前に出ます。礼拝を献げたのです。しかし神は、カインの献げた農作物は退け、弟アベルの献げた羊の初子に目を留められました。カインは怒り、アベルを誘い出し、野原で彼を殺害してしまいます。この話の構成は、本当はもっと複雑なのですが、今回はここまでにしておきましょう。

実はこのアベルこそ「空しさ」なのです。コヘレト書に繰り返される「空しさ」は、ヘブライ語で「ヘベル(הֶבֶל)」ですが、アベルもヘブライ語聖書では「ヘベル(הֶבֶל)」なのです。私は、アベルの人生こそ「ヘベル」を最もよく具現していると考えています。

神に目を留められた献げ物を献げたのに、兄に殺害されてしまった人生。これこそが「ヘベル」なのです。ヘベルには「はかなさ、不条理、蒸気」という意味もありますが、私はコヘレト書において「空しい・空しさ」と繰り返される言葉を読むときには、アベルの人生を想起しながら読んでいます。アベルの人生は「空しさ、はかなさ、不条理」そのものです。

新約聖書のヘブライ人への手紙11章4節に「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています」とありますから、アベルに対する聖書の総合的な解釈は、少し変わってくるかもしれません。しかし創世記4章におけるアベルの人生は「空しさ、はかなさ、不条理」なのです。ただ付言しておくならば、カインとアベルの話は、創世記においてはカインを断罪する話ではありません。最後にカインは、神の憐(あわ)れみの内に置かれることになります。しかしアベルの人生は「空しさ、はかなさ、不条理」として伝えられています。

「空しさ、はかなさ、不条理」、そのことが、この1章2節と12章8節では、ヘブライ語原典を見ますと複数形を用いて書き出されています。日本語としてはふさわしくないかもしれませんが、直訳すると「空(から)っ空(から)の空しさ」にでもなるでしょうか。「空っ空の空しさ、すべては空しい」という書かれ方になっています。英語訳の聖書では大概のものが、“Vanity of vanities” となっています。いずれにしても「とてつもなく空しい」という意味の言葉で始まっているのです。

確かに、神とつながっていなければこの世界は「とてつもなく空しい」のかもしれません。しかしコヘレトは、空しさを追求しつつも、その空しさの外側をきちんと見ています。神との関わりにおいて得ることのできる「神様からのプレゼント」を見ているのです。ではそれは一体何なのでしょうか。少し時間をかけますが、コヘレトが見ている「神様からのプレゼント」を、じっくりと導き出していきたいと思います。それが、私にとっての本コラム執筆の大きな目的です。

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コヘレト書(伝道の書)を読む(4)「無限」―太陽の下(もと)の循環―

2020年07月17日 | コヘレト書を読む

クリスチャントゥデイコラム・コヘレト書を読む(4)「無限」―太陽の下(もと)の循環―

3 太陽の下(もと)、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。

4 一代過ぎればまた一代が起こり、永遠に耐えるのは大地。
5 日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。
6 風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き、風はただ巡りつつ、吹き続ける。
7 川はみな海に注ぐが海は満ちることなく、どの川も、繰り返しその道程を流れる。

8 何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず、目は見飽きることなく、耳は聞いても満たされない。

9 かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。10 見よ、これこそ新しい、と言ってみても、それもまた、永遠の昔からあり、この時代の前にもあった。11 昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも、その後の世にはだれも心に留めはしまい。(1:3~11、新共同訳)

今回の箇所も、前回の1章2節と12章8節のように、コヘレト書の終盤の11章7節~12章7節とインクルージオ(囲い込み)を構成していると考えられます。今回「『無限』―太陽の下の循環―」という題と副題を付けさせていただきましたが、11章7節~12章7節も、同じ題と副題が付けられる内容だからです。今まではインクルージオに目を向けて、インクルージオをセットにして書いてきました。しかし今回は、セットで取り扱うことはしません。11章7節~12章7節は、このコラムの終盤において、当該の章・節を扱う際に取り上げます。

さて、今回の箇所は「太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう」と書き出されています。実はコヘレト書は、「太陽の下の出来事」によって書き出されているひとまとまりの文が多いのです。

「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た」(4:1)
「太陽の下に、大きな不幸があるのを見た。富の管理が悪くて持ち主が損をしている」(5:12)
「太陽の下に、次のような不幸があって、人間を大きく支配しているのをわたしは見た」(6:1)
「わたしはこのようなことを見極め、太陽の下に起こるすべてのことを、熱心に考えた」(8:9)
「太陽の下、再びわたしは見た。足の速い者が競争に、強い者が戦いに、必ずしも勝つとは言えない」(9:11)
「太陽の下に、災難なことがあるのを見た」(10:5)

以上は、これらの節を書き出しとする、ひとまとまりの文のその書き出し部分です。これらの文は、コヘレトがこの世界の現実をしっかりと見つめている部分であるように思えます。今回の1章3~11節も、世界における自然や人の営みの現実について書かれている部分であり、それが「太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう」(3節)として書き出されているのです。

4節から7節は、「太陽の下」の自然についての観察がなされています。大地(4節)、太陽(5節)、風(6節)、川(7節)について、それぞれ観察がなされています。この4つが古代ギリシャにおける4元素「火、風、水、地」と一致することから、「コヘレトは古代ギリシャ思想に精通している」とされることもあります。あるいは、この4つの節がそれぞれ、古代ギリシャの格言(ことわざ)であるとする見方もあります。一方で、この4つの節には、「大地における世代の循環」「太陽の循環」「風の循環」「川の循環」が書かれているということもいえます。そしてよく読んでみますと、それらの循環はすべて「無限」であるということです。

コヘレト書を読むときに、この「無限」という概念はとても大切です。私は専門家ではありませんが、「無限」についてはアリストテレス(紀元前384~322)もその概念を書いているようです。紀元前3世紀の人といわれるコヘレトが、アリストテレスを知っていたかどうかは分かりませんが、コヘレトの「無限」の概念には、ギリシャ思想の影響を見ることができるのかもしれません。その意味でも、4~7節に4元素論を見ることができるのは、大変に興味深いことです。

ただし、コヘレト書を読み進めてまいりますと、コヘレトは「無限」と「神の永遠」を峻別していることが分かります。コヘレトにとって「無限」とは、「太陽の下」での「限りのない始めから終わりまで」のことです。しかしコヘレトは、「それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」(3:11)と、人間には知ることのできない、「無限の外側の始めから終わりまで」があることを知っています。コヘレトの無限概念が、ギリシャ思想からのものであるのかどうかは、確かなことは分かりません。ただ、コヘレトにとって「無限」とは、「太陽の下」のものであり、「神の永遠」とは次元が違うものなのです。

コヘレトは、無限を「もの憂い」と言います。「何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず、目は見飽きることなく、耳は聞いても満たされない」(8節)。大地において世代が繰り返されることも、太陽が昇り沈みまた昇ることも、風が巡り巡ることも、川の水が流れ続けることも、「もの憂い」のです。

コヘレトは、「太陽の下」の人の営みも観察します。9節と10節では、「太陽の下」の人の営みに新しいものは何もないと言います。

かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても、それもまた、永遠の昔からあり、この時代の前にもあった。(1:9、10)

新しいと思えることであっても、実はそれは昔からあったのだと言います。コヘレトは、「太陽の下」の人の営みも、無限に繰り返し(循環)がなされているのだと言うのです。そして11節ではさらに、そういった昔からあってこれからまた繰り返し起こることも、いつかは忘れられてしまうと言います。「昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも、その後の世にはだれも心に留めはしまい」(11節)。太陽の下の人の営みの無限の循環も、時が過ぎれば忘れられてしまう。「それはヘベル(空しさ)なのだ」と言っているように思えます。

コヘレトは、「無限」がすべてだとする世界観に、限界を感じていたのではないかと私は考えています。それで、「もの憂い」「ヘベル(空しい)」と言っているように思えます。しかしコヘレトは、神は「無限」の外側におられる方であることを知っていて、その神とつながっていること、あるいは「神様からのプレゼント」を受け取ることを大事にしていた人なのです。コヘレト書がそこに到達するには、もう少しコヘレトの探求を経なければなりません。そこは少々辛抱していただいて、次回以後はコヘレトのその幾つかの探求を読んでみたいと思います。

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コヘレト書(伝道の書)を読む(5)「知恵」―神の知恵と世の知恵― 

2020年07月17日 | コヘレト書を読む

コヘレト書を読む(5)「知恵」―神の知恵と世の知恵―

12 わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。13 天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。14 わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。

15 ゆがみは直らず、欠けていれば、数えられない。

16 わたしは心にこう言ってみた。「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」と。わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、17 熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。18 知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す。(1:12~18、新共同訳)

12節からは文章が改まります。ヘブライ語聖書では、12節の前に文章を区切るマークが挿入されています。前回まで取り上げたところまでがコヘレト書の序文であり、12節から本文に入るといわれています。コヘレトは本文の最初の単元である12~18節において、「知恵による探求」と、「知恵そのものへの探求」について語ります。知恵についてはコヘレト書全体で触れられています。それはやはり、コヘレトが知恵というものを重視しているからでしょう。ちなみにコヘレト書は、旧約聖書において、ヨブ記、箴言と並んで「知恵文学」と呼ばれています。

知恵という言葉はヘブライ語で「ホクマー(חָכְמָה)」と言いますが、これは旧約聖書においてはとても重要な言葉です。箴言8章12節には「わたしは知恵」と書かれていますが、知恵はこのように、旧約聖書ではしばしば「人格」として取り扱われています。

箴言8章22節以下ではその知恵が、

「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。わたしは生み出されていた、深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが、わたしは生み出されていた」(8:22~25)

と語っています。知恵は「天地創造の時に神と共にあった人格」として伝えられているのです(詩編104編24節「あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた」も参照)。

新約聖書においては、パウロがキリストを「神の知恵」(コリント一1:24、30)と言っています。パウロにそのように言わしめているのは、旧約聖書に「知恵が人格である」と記されているからでありましょう。パウロはそして、「神の知恵」と「世の知恵」(コリント一2:6)を峻別しています。実はコヘレトも、パウロと同じように、知恵を「神の知恵」と「世の知恵」に峻別しているように思えます。そのことについても、コヘレト書全体にわたって読み取っていきたいと思います。

12節でコヘレトはまず、自分がソロモン王であると名乗ります。これはソロモン王が知恵を極めた人と伝えられているからでしょう。列王記上には、ソロモン王に語り掛ける神の言葉が記されています。

あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。(列王記上3:11、12)

ソロモン王は神によって「知恵」を与えられたのでした。また同章28節には、「王の下した裁きを聞いて、イスラエルの人々は皆、王を畏れ敬うようになった。『神の知恵』が王のうちにあって、正しい裁きを行うのを見たからである」とあります。ソロモン王に与えられた知恵は、「神の知恵」であったのです。

ソロモン王に扮したコヘレトは、最初に天の下に起こることをすべて知ろうと、知恵を尽くして調べました(13節前半)。つまり「知恵による探求」を行ったのです。しかしどうやら、この最初の探求は失敗したものと思われます。「神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ」(13節後半)と、コヘレトは愚痴をこぼしているように思えます。

箴言によれば、「主を畏れることは知恵の初め」(9:10)であり、神を畏れ敬うことによってこそ「神の知恵」が与えられるのです(ヨブ記28章28節「主を畏れ敬うこと、それが知恵」も参照)。しかしコヘレトは、どうもこの最初の探求では「世の知恵」を追い求めてしまったように感じられます。実はそのことからも、コヘレトがソロモン王本人ではないことが分かってしまうわけです。ソロモン王は「神の知恵」を用いた人として伝えられているからです。

コヘレトは「世の知恵」による探求の結果、「ゆがみ(曲がったもの)は直らず、欠けていれば、数えられない」と言います。この言葉はコヘレト自身の言葉ではなく、格言を使用しているともいわれています。実はこの「ゆがみ(曲がったもの)は直らず」ととてもよく似た文が、7章13節にあります。「神が曲げたものを、誰が直しえようか」という言葉です。両節はヘブライ語原典でも似た文です。7章の方は「神の御業の絶対肯定」というコヘレトのモチーフに沿っての「神の曲げたゆがみ」という意味のことですが、1章の「ゆがみは直らず」は、神の曲げたゆがみのことではなく、一般的なゆがみについて言っているのだと思われます。人間社会におけるゆがみなどでしょう。そういったゆがみは「人間の知恵」を用いても、簡単には直せないというのです。

この話は、申し上げておりますパウロの手紙と読み比べると、分かりやすいように思えます。パウロもまた、ゆがみに直面した人でありました。パウロは宣教者でしたから、彼の直面したゆがみは、教会の中に起こっていたゆがみでした。コリントの信徒への手紙一は、コリントの教会内に起こっていたさまざまな「ゆがみ(問題)」に対処するために書かれたものです。

パウロは「世の知恵」の空しさを知っていたのでしょう。教会内のゆがみを解決するために「世の知恵」を使いませんでした。コリントの信徒への手紙一の冒頭にはこうあります。

知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。(コリント一1:20、21)

パウロは神からの示しによって、「世の知恵」でなく「宣教という愚かな手段」を用いることによって、教会内のゆがみを解決しようとしたのです。なぜ宣教は愚かな手段と言われるのでしょうか。コリントの教会への手紙のその後の部分にはこうあります。「神の愚かさは人よりも賢く・・・」(1:25)

「世の知恵」では、それをどんなに使ってもゆがみをなおすことはできない。しかし「神の知恵」であれば、それは愚かなように思えることでも、「世の知恵」より賢いのです。そしてそれが宣教、言い換えるならば、神が人となったイエス・キリストの十字架の出来事なのです。イエス・キリストの十字架によって、教会内のゆがみを直そうとしているのが、コリントの信徒への手紙一なのです。

パウロは「世の知恵」に頼ろうとしませんでしたが、コヘレトの最初の探求は、どうも「世の知恵」に頼ってしまったようです。その結果が「ゆがみは直らず、欠けていれば、数えられない」だったのです。コヘレトは次に「知恵そのものへの探求」を行います(16節以下)。しかしそれも「世の知恵」への探求であったようです。その結果としてコヘレトは、「知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎない」と言うことになってしまいます。

「世の知恵」に頼っての2つの探求の結果、コヘレトは「風を追うようなこと」という言葉を繰り返します(14、17節)。この言葉はコヘレト書において何度も出てきますが、「空しい」という言葉とセットにされている場合が多いです。この世の価値観を探求した場合に、そのように言われていることが多いように思われます。

コヘレトは、当初は「世の知恵」に頼って探求をしてしまったのです。コヘレト書を読み進めてまいりますと、「神の知恵」について語られている箇所があり、コヘレトが「神の知恵」と「世の知恵」を峻別していることが分かりますが、ここでは「世の知恵」に頼って失敗してしまったようです。そして失敗を率直に認めているように思えます。しかし失敗を認めたコヘレトは、次のさらなる探求に向かいます。

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ソロモン王に謁見するシバの女王(エドワード・ポインター)
ソロモン王を訪問するシバの女王

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