本書は、1921年のノーベル物理学賞受賞者であるアルバート・アインシュタインと、心理学者として名高いジグムント・フロイト(表記はいずれも本書による)が、1932年に交わした往復書簡を書籍化したものです。そして後半部に、医師で『バカの壁』の著者である養老孟司氏と、精神科医である斎藤環氏の解説が加えられています。
以下はアインシュタインとフロイトが交わした往復書簡 『ひとはなぜ戦争をするのか』 : 書籍 : クリスチャントゥデイでお読みください。
知り合いの韓国人牧師に、「ヨハネ福音書の良い解説書はないか?」と聞いたところ紹介されたのがこの本である。
「序文」「しるし」「聖霊」「永遠の命」などの項目に分けて書かれているが、これが非常に良い。コラム「ヨハネ福音書を読む」を書くための良い参考書になっている。
本書は、ノンフィクション作家・編集者の最相葉月(さいしょう・はづき)氏が、2016年から22年にかけて、小笠原諸島の父島や奄美大島などの離島を含む全国各地を巡って、135人のキリスト者(キリスト教徒)にインタビューをし、まとめたものです。1月中旬に発売された後、すぐに購入しました。千ページを超える大部な本で、まだ全てを読みきったわけではありませんが、ぜひ紹介したいと思い、筆を執りました。未読の箇所についても、これから時間をかけて読み、一人一人の「証し」を味わっていきたいと考えています。
最相氏は、1997年に『絶対音感』で小学館ノンフィクション大賞を受賞し、2007年には『星新一 一〇〇一話をつくった人』でさまざまな賞を受賞しています。本人はキリスト教徒とはなっていないようですが、キリスト教と日本のキリスト教界のことを深く調べ、学んでいることが、本書の脚注など随所から伝わってきます。
インタビューをした135人は、カトリック、正教会、聖公会、日本基督教団、在日大韓基督教会、在日ブラジル人系教会、無教会、バプテスト、ルーテル、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド、救世軍、単立教会など、さまざまな教派・教団にわたります。教職・信徒を問わずに話を聞いており、年齢層も20~90代と広がりを持っています。
構成は、インタビューに基づく部分が、「回心」「洗礼」「家族」「献身」「開拓」「奉仕」「社会」「差別」「政治」「戦争」「運命」「赦(ゆる)し」「真理」「復活」をキーワードにした14章に分かれています。これらの章の間に、最相氏ご自身が執筆された「十字架の風景」と題された短い記事が5つ入れられています。そして、「現在」のキーワードがあてがわれた終章「コロナ下の教会、そして戦争」が最後に加えられています。
一口に「日本のキリスト者」といっても、実に多様であることを実感させられます。私は、日本基督教団に教職として所属しており、愛知県内の教会の牧師をしています。自教団や地域で交流のあるプロテスタント諸教団の人たちの話はよく聞く機会がありますが、カトリックや正教会の人たちの信仰に触れる機会はほとんどありませんでした。そのため、本書に収められた一つ一つの「証し」は、「日本のキリスト者」の一人である筆者にとっても新鮮で、最相氏の取材の努力には感嘆せずにはいられませんでした。
プロテスタントに身を置く者としては、カトリックの信仰、特に聖母マリアについての捉え方には、正直に申し上げますと、多少の違和感を持ちます。また、プロテスタントの中でも、いわゆる「メインライン」と呼ばれるところに身を置く者としては、いわゆる「福音派」と呼ばれる人たちの信仰、特に入信の動機が語られる部分には「驚き」を感じたものもあります。
しかし、そうしたこと全てが、一つの体としての日本の教会の姿を物語っているように思えます。セクシャルマイノリティーの当事者もいれば、それに批判的な人もいます。そこには、日本のキリスト教界の現状を見るような思いを持ちます。
私は牧師をしていますので、信徒の信仰の多様性については寛大でなければと考えています。その観点では、本書で読み取れる信仰の多様性は、牧会する自教会の信徒の信仰の多様性をはるかに超えたところにあり、有用でした。礼拝の説教で、本書の中のある人の信仰について触れたところ、早速お2人の信徒が読みたいと言われ、注文されました。このお2人にも感想を聞きたいと思っています。
価格は3500円ほどですが、内容の深さからすると、価格よりずっと価値があるように思える本です。お薦めできる一冊です。
本書は以下のような構成になっています。
序論 人間に挑みかかる旧約聖書の神
第1章 神は男性か
第2章 神は残忍か
第3章 神は好戦的な暴君か
第4章 独善的な神の前に人間は罪人に過ぎないのか
第5章 神は暴力と復讐(ふくしゅう)の神なのか
第6章 神は理解可能か
結論 旧約の神と新約の神
序論では、「洪水による人間の滅ぼし」「イサク献供」「金の子牛を拝んだ者たちの殺害」など、神による残酷な話が取り上げられ、それらの記述がキリスト教の歴史の中でどのように見られてきたかが記されています。レーマー氏は、こうした神の残酷さは、バビロン捕囚前のイスラエルの王や民が神を礼拝せず、律法を守らなかったことに起因した、申命記史家による表現方法によるものであったとしています。さらに、ヤハウェという神の名を説明し、ヤハウェとイスラエルの民の出会いの歴史の中で、聖書はヤハウェを衝撃的に描くことがあるとし、さまざまな疑問を抱かせる記述について論じている本論へ導いていきます。
第1章では、神の性別が論じられており、神ヤハウェは、詩編では王として、預言書、特にホセア書、エレミヤ書、エゼキエル書では、イスラエルの夫または恋人として描かれており、つまり男性的イメージで伝えられていることが述べられています。しかし、創世記1章27節「神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された」(聖書協会共同訳)の記述から、男性と同様に女性も神のかたちを映しているとして、ヤハウェにも女性的な特徴があるという論述が展開されていきます(77ページ以降)。この部分が本章のキモだと思いますので、詳しくは本書をお読みいただきたいのですが、レーマー氏の見識の高さに感服しました。
第2章では、神の残忍さが論じられています。ここで大きく取り上げられているテキストは、創世記22章のアケダー(イサク献供)と、士師記11章のエフタの娘の犠牲の話です。アケダーでは、アブラハムがイサクに手をかけて犠牲にしようとするところで、代わりの羊が与えられますが、エフタの娘は犠牲となってしまいます。そこで描かれている神は残忍な神なのでしょうか。レーマー氏は、これらについても、特にこれらの記事が書かれた時代の背景を通して、自身の考えを述べておられます。これも、実際に読まれるときのお楽しみにしていただきたいと思いますが、本章で述べられている結論を導くことは、レーマー氏にとっても困難であったことが読み取れます。
第3章では、神は好戦的なのか、ということが論じられています。ここでは、「申命記における君主ヤハウェ」と「ヨシュア記における征服の神ヤハウェ」について、大きく取り上げられています。これについても、レーマー氏は、これらの記事が書かれた時代の背景、特にアッシリアによって征服されていたことの影響を見ています。しかし、本章では末尾において、旧約聖書における神には好戦的な部分があることを否定できないとしつつも、「常に戦争神であるわけでは決してないことを強調せねばならない」としています。そして、ヘブライ語聖書の最終部分である歴代誌下36章23節「ペルシアの王キュロスはこのように言う。天の神、主は地上のすべての王国を私に与えられ、ユダのエルサレムに神殿を建てることを私に任された。あなたがたの中で主の民に属する者は誰でも、その神、主がその人と共におられるように。その者は上って行きなさい」(同)を引き合いに出し、「神は神殿の再建によって、平和な未来を約束するのだ」と結んでいます。
第4章では、神は独善的なのか、ということが論じられています。わけても、性についての旧約聖書における一部の記述は、「神は人間同士の性的関係に何の価値も認めていない」と解釈せざるを得ないとしています。人間の自由が制限されているようにも思われるというのが、本章前半の論点です。しかし、後半では雅歌で展開されている「愛とエロティシズムへの賛歌」を取り上げ、雅歌においては愛と性愛が「神からの贈り物」であると宣言されているとして、本章を結んでいます。雅歌を読みますと、その非宗教性にポカーンと口を開けてしまうことがありますが、本章を読むとやはり雅歌は正典として大切であることを思わされます。
第5章では、神の暴力と神の復讐について語られています。神の暴力については、創世記4章のカインとアベルの話が取り上げられ、神がアベルの供え物だけを受け入れ、カインのそれを受け入れなかったことがカインのアベル殺害につながったとして、論を進めています。神の行為が人間の暴力につながったことを論じつつも、「暴力に向かい合うとは、関ること」として、神の暴力への関りを、人間への神の関りの一つとして捉えているように思えます。神の復讐については、詩編、イザヤ書、ナホム書から論じられていますが、神の復讐も神の愛とのバランスの中で書かれていることが語られています。
第6章では、神は理解可能か、ということが応報思想の捉え方を中心に論じられており、ヨブ記とコヘレトの言葉が大きく取り上げられています。コヘレトの言葉については、「コヘレト書を読む」「コヘレトと新約聖書」という2つのコラムを書かせていただいたように、私はこの書の魅力を強く感じています。コヘレトの言葉の大きな特徴の一つは、「神は理解不能であることを、コヘレトは受け入れている」ということですが、レーマー氏も同じことを記しています(214~215ページ)。また、ヨブ記の著者とコヘレトが応報思想に異を唱えているとしています。個人的に非常に興味深い章でした。
結論では、1~6章の内容が、新約聖書でどのように捉えられているかが論じられています。1~6章においては、旧約聖書の多岐性が示されていますが、新約聖書との関連を記すことによって、旧約聖書だけでなく新約聖書にも多岐性があることが示されています。