寺子屋からの流れの行き渡った教育制度で、日本人の識字率はほぼ100%である。
文字は常に生活に寄り添っているし、むしろ文字が珍しく大仰にみなされる世界を想像しにくいほどである。
(それは過去にも、現在の異なる地域でも確かに存在する。)
読み書きを、呼吸と同じようにできる今この時代に貴重さを感じ、その恩恵を存分に受けられる今にありがたみが湧いてくる。
そこはかとない事を満足いくほどに表現し、形に残せる嬉しさ。
言葉のそういうところが好きだ。
寺子屋からの流れの行き渡った教育制度で、日本人の識字率はほぼ100%である。
文字は常に生活に寄り添っているし、むしろ文字が珍しく大仰にみなされる世界を想像しにくいほどである。
(それは過去にも、現在の異なる地域でも確かに存在する。)
読み書きを、呼吸と同じようにできる今この時代に貴重さを感じ、その恩恵を存分に受けられる今にありがたみが湧いてくる。
そこはかとない事を満足いくほどに表現し、形に残せる嬉しさ。
言葉のそういうところが好きだ。
「書きたい」の衝動でひとつめの組み合わせができたが、ふたつめの組み合わせ、つまり組み合わせの組み合わせが破綻している事がある。
異なった種類の部品が並べられている、でこぼこの状態みたいなものだ。
それを私なりに均していく。
これの巧拙が経験で培う技なのかなあ、とため息をついて。
少し悩ましい作業だけれど、完成した時の達成感を想像すれば、楽しくなる。
私の場合、あるのは、まず「書きたい」という衝動である。
「何を」なんてのは全くなくて、ただ「書きたい」だけが最初の波としてくる。
じゃあ書こうか、と環境を整えたら、あとはふとしたことをとめどなく書いていくことになる。
この時点ではコラージュや型を考えていない。
頭からそちらに重点を置いてしまうと書けない事に気付いてきた。
型とは、具体的に言うと、筋や起承転結や、そういうものである。
それより、自分の表現したい考えが文章になっていることと、考えが文章になれば目に見える量として測れ、未来に残る事の醍醐味を味わいながら書き進める。
書き終えた次に、コラージュ作業になる。
言葉というのは記号だから、文章を書くという事は、単純に考えて、言葉を組み合わせるだけの事なのかもしれない。
そうすると、その組み合わせの塊をひとつ頭に入れておけば、その組み合わせを組み合わせる事で、コラージュのようにまた違う表現ができるようになる。
組み合わせの組み合わせを「枠」や「型」というんだろう。
それは物語になったり、日々の記録になったり、あるテーマの考察になったり、論文や報告書になったりする。
コラージュと言葉が違うのは、組み合わせの内部を一から細やかにアレンジできるところにある。
単語という部品をとりかえて効果を試し、違えば簡単に他の部品を付け替えてみれるところにある。
ここまで書いておきながらなんだが、私はそれを念頭に置いて文章を書いてはいない。
ただ、文章作成の全体的なイメージは、そんな風にも考えられるという一つの例を挙げてみた。
このように文章に対するイメージを別のものに見立てるのが、最近の(あまり用をなさない)お気に入りなのである。
では実際はどうなのか。
台風のような音で強風が吹いている。
一昨日あたりか、もう少し前から、
エルニーニョ現象はなんのその、本格的な冬の寒さが訪れた。