【過去ログ発掘シリーズ 2007/3/13 】
東京国立近代美術館の主任研究員( !! )の方から、再びお尋ねのメールを頂いた。
「このたび読売新聞都内版の連載「近代美術の東京」でこの作品を紹介させていただくことになったのですが、読売さんより、作家のお名前にルビを振りたいという希望がありました。「望月晴朗」は「せいろう」と読むのでしょうか、それとも「はるお」でしょうか。当館の登録は「はるお」、しかし画中のサインは「S Mochizuki」となっています」
それに対してオヤジの返信は、
「祖父はその当時カッコ良かろうと気取って「晴朗」にしたようなので、読みも「せいろう」でいっちゃって頂ければ本望ではないでしょうか」
という相変わらずのかる~いノリ。
だって、関係者が次々と他界して、事実を知っている人がいないんだからしょうがない。
記事は3月9日の読売新聞(都内版)に、「プロレタリアの記憶」と題されて掲載された。
文中に
「インターネットで偶然ご遺族(オヤジのことですな^ ^)のページ行き当たり、詳細を知ることができた」
とありがたくも書いて頂いた。
繰り返すが、画家・望月晴朗の1931年の作品「同志山忠の思い出」は、近代美術館にて3月10日から5月27日まで、「群衆の孤独-1920~40年代の人間像」に展示されているので、どうぞ皆様お誘い合わせの上ご鑑賞頂きたくお願い申上げます。
べつに昔のことを小出しにしているわけではないが、珍しい物を発見したので、望月の一族に繋がる者として、公開しちゃおう。
望月晴朗の父「徳次郎」が明治20年10月11日に、たぶん当時あったような気がする「内閣賞勲局」に宛てた「勲等年給御下渡願」である。
徳次郎本人が書いたものだが、あまりに達筆すぎて所々読めない。
が、だいたいの意味は次の通り。
「山梨県甲斐の国の平民左蔵の次男で、岩手県に住んでいる望月徳次郎は、勲八等(たぶん西南戦争の功績)で年給(年金)をもらっておりますが、この度東京府葛飾郡小菅村に引っ越すことになったので、ぜひ引っ越し先でも年金をちょうだいな、よろしくね」
てな感じだ。
まあ、小菅村に移り住んだ徳次郎と妻えき(徳次郎とさきは北野武監督の両親ね)は、そのあたりを終の住処として、子供たちを育てたのだ。
現在は水戸橋の近くの「蓮昌寺」に望月家の墓があり、徳次郎も晴朗もそこに入っている。
余談だがこのお寺、実は有名人の菩提寺で、世界の北野監督家や、いかりや長介家などの墓もある。
この「勲等年給御下渡願」は、望月晴朗の弟の家から発見された。
もう亡くなってはいるが、この家のおじさんがまことしやかに言い伝えたことは、徳次郎の父で甲斐の国に住まいしていた平民の左蔵さんからずずずぃーと遡ると、望月源太左ェ門という武将に突き当たるのだそうだ。
望月源太左ェ門は、なんと今をときめく武田信玄の二十七将の1人だと言う。
それを聞いたときはたいして興味もなかったが、今回あらためて調べてみたら、まったくのガセだということが判った。
まず、武田信玄の二十七将ではなく、二十四将だ。
(3つもサバを読みやがって)
そして、二十四将の中には真田源太左ェ門という人はいるが、望月源太左ェ門という名の武将はいない。
検索しても望月源太左ェ門ではヒットしない。
なんというオソマツ。
「いい夢見ろよ。あばよっ」
てな感じだ。
このおじさん、酒が好きだったようだし、徳次郎も晴朗もみんな飲んだくれだった。
ご先祖さまは有名な武将ではなかったが、酒好きで飲んだくれだったのは間違いなさそうで、その血を確かにオヤジは受け継いでいる。
今度の伯母の四十九日に親戚がそろったら、このへんのことを知っている人がいないか、あらためて聞いてみるとしよう。
意外な展開があったりして・・・・。
その時からまた幾星霜、もはや関係者はみな鬼籍に入り、会ったこともないご親戚はいるが、先祖のことを知ってそうな人は見当がつかない。
無論、意外な展開などなく、当時元気でブイブイしていたこのオヤジがポンコツになっただけだった。
だからこれ以上のことは分からず仕舞い、天下のNHKなら隅から隅までズズズィ~と調べてくれるだろうけれど、ネタになりそうな有名人でも何でもないからゼニをかけて調べるしかない。
しかしそこまでするほどの情熱も意欲もゼニもなく、それを伝えていく子孫もいないときた。
そう遠くない時期にこのオヤジもこの世からおさらばするだけだ( ; _ ; )/~~~