【過去ログ発掘シリーズ 2006年8月22日】
竹橋にある「東京国立近代美術館」へ足を踏み入れるのは、およそ20年ぶりのことだ。
入館料1300円のところ、65歳以上は無料なのでばあさんはフリーパス。
小僧の障害者手帳のおかげで、付き添い2名まで無料ということで、かあちゃんとオヤジもタダで入館できてしまった。
家族4人しめて5200円浮いたぁ、ありがたや。
ホッとするほど静かで涼しい館内は、芸術をご観賞の人々で賑わっている。
1階で開催中の「モダン・パラダイス展」では、ゴーギャン、モネ、マチス、カンディンスキーという巨匠たちの作品が展示されているが、我々一行は一瞥するだけで通り過ぎ、美術館の所蔵品ギャラリーの会場を目指した。
エレベーターがシンドラー製でないことを確認して4階に上がると、館内の案内表示板をたよりに奥へ進む。
岸田劉生、藤田嗣治などのそうそうたる大家の作品が並ぶ中、昭和戦前期の美術・都市の中の芸術家コーナーの一角に、その絵はあった。
1931年制作、50号のキャンパスに描かれたそのタイトルは「同志山忠の思い出」。
望月晴郎の作品である。
望月晴郎(1898~1941)
本名・望月晴一郎、明治31年北海道函館で二男二女の長男として生まれる。
父・望月徳次郎は平民であったが、“やっとう”の心得があるため西南戦争に官軍として従軍、戦後その剣術の腕前を生かし、各地の刑務所の刑務官に剣術を指導して歩くことを生業とする。
その道程の地、函館で晴一郎は生を受けた。
やがて一家はこの地を離れ東京に戻り、現在の千住中居町のあたりに居を構える。
折しも時は大正デモクラシーの波が日本中をうねり、多感な思春期にあった晴一郎を思想的に突き動かし、やがて社会主義、共産思想へと駆り立ててゆく。
そんな中で絵画の研究所へ通い始めた晴一郎のことを、父徳次郎は快く思わなかったようだが、息子が一本立ちする前に早世した。
晴一郎が20歳を過ぎた頃、富山で米騒動が起こり、全国に波及し、シベリア出兵、朝鮮の独立運動、国際連盟に正式加入、ベルサイユ条約調印、アインシュタイン博士の来日、野口英世が黄熱病の病原体を発見などなど、時代は急速な近代化と、その歪みを抱えながら、軍部の台頭に暗雲が立ち込めるなか、関東大震災の洗礼を浴び、昭和へと突入する。
もともと小柄で痩せていた晴一郎は、20歳の徴兵検査で丙種不合格であったのか、時代がまだ切羽詰まっていなかったため、軍隊にも行くことなく、関東大震災の頃結婚した。
大正14年に長女が誕生し、昭和3年に二女を授かる。
時代は若い画家を潤すほど穏やかではなく、家族は貧乏のどん底で肩を寄せ合い、芸術などは二の次に、羽子板、紙芝居など絵を描けるものにはなんでも描いて生活の糧にした。
満州事変の年、昭和6年の作品「同志山忠の思い出」を仕上げるも、それを納める額を作る金にも窮し、せっかく売れた作品の代金は借金の返済で瞬く間に消えてしまう有様だった。
だがその頃から、時局は共産思想の持ち主には特別厳しい風あたりで、特高警察にしょっぴかれることもしばしば、やっと釈放されたかとおもえば、飲み屋で安酒を呷り,生活は荒れていった。
昭和13年、三女が誕生。
幼子のために酒を控え、手当り次第に仕事をこなしていくが、まもなく戦争が始まり、それと同じくして、晴一郎の身体も変調を来たしてゆく。
昭和15年、結核を発症、寝たきりの生活を余儀なくされる。
昭和16年8月11日、自宅の八軒長屋で家族に見送られながら、晴一郎死去。
享年43歳。
20数年前に一般公開された時には、シャガールの隣りで、堂々の展示だった。
その時に晴一郎の長女が詠んだ歌を数首、
「シャガールの絵と隣り合い飾られし 父の絵今は地下に安らふ」
「戦災にも焼けず残りし一枚は 父の友らが身もて守りし」
「金持ちのロシア人に一枚の 絵売れたりと父に聞きしが」
「意にそはぬ世となりゆけば居酒屋の 酒を呑みては絵を描きイしと」
「悶々の父今にしてわかる齢 馴染みの店に昼も酔ひイし」
この絵のどこがいいのかはわからないが、当時の世相を表したものとして、戦災を免れた貴重な絵画として価値があるのだろう。
画家・望月晴郎の二女はばあさんで、不肖の孫はこのオヤジである。
前記の年譜は記憶も薄れてきたばあさんからの聞取りでまとめたものだ。
この絵の所有権は当然もう遺族にある筈もなく、今回の公開で美術館の倉庫に永久保存され、もう日の目を見ることはないらしい。
それではと、係の女性にワケを話すと
「望月画伯のお嬢様でいらっしゃいますか」
と言った方も言われた方も、ともにガラじゃねぇやと思いつつも、取りあえず写真撮影の許可をもらった。
撮影OKのシールを胸に貼り、静かな美術館に無粋なデジカメの電子音を響かせ、数枚の写真を撮った。
いずれもっと詳細な一代記をまとめたいという、なんとなく使命のようなものを感じつつ、満足して美術館を出た。
パーキンソンの震えが治まらない「画伯の令嬢」は、それでもしっかりした足取りで歩き、まだ将来のある「小僧画伯」は、家に帰ると早速チラシの裏に何やら描き、その気になっている。
今日も蝉時雨が休むことなく降り注いでいる。
画家・望月【晴朗】のこと・・・後日談 (2007年2月23日)
2006年8月22日に当ブログで「画家・望月晴郎のこと」と題して、結核病みで売れない画家だった祖父「望月晴一郎」のことを書いた。
昭和16年8月11日、43歳で早世した祖父の生前を語れる人は、その時点でも長女の伯母と二女のばあさんしかいなかった。
飲んだくれで家族に貧乏を強いる父を、ばあさんはあまり心良く思っていなかったようで、ほんの一面しか祖父のことを語れないし、記憶もあいまいになる歳も歳だ。
そこへいくと、シャキッとしている伯母は、
「意にそはぬ世となりゆけば居酒屋の 酒を呑みては絵を描きイしと」
「悶々の父今にしてわかる齢 馴染みの店に昼も酔ひイし」
という歌を詠むぐらいだから、祖父のエピソードをもっともっと記憶している筈だと あてにしていたが、落ちついて話を聞く間もなく、先日逝ってしまった。
伯母の突然の死からちょうど2週間後、思いもかけず「東京国立近代美術館」のスタッフの女性からメールを頂いた。
その内容をかいつまんで言うと、
『当館では、昭和56年に《同志山忠の思い出》をご寄贈いただいて以来、作者である望月晴郎氏についてのくわしい情報を確認できずにおりました。
次回の所蔵作品展特集展示「孤独な群集-1920-1940年代の人間像」(3月10日-5月27日)に同作品を展示させていただくことになり、ご案内申し上げるとともに、下記の点につきご確認・ご教示願えないかと思い、ご連絡さしあげる次第です。
当館では作者名が「望月晴朗」と「朗(ほがらか)」の字で登録されています。
作品をご寄贈いただいた際に、何らかの示唆があったものと思われますが、当時の作品受入担当者もかなり以前に美術館を去り、現在ではその経緯がわかりません。
貴ブログでは「晴郎」と「郎」の字をお使いのようです。もしよろしければ、これを機にキャプション等の表記を改めさせていただきたいと思います。どうぞご確認ください』
というひじょうに丁寧かつ、アカデミックな問い合わせに対し、
「さぁて、そんなことはもうわからない。あの世にメールでもFAXでも入れとくれ」
と言うばあさんの記憶を掘り起こした質問の回答だが、
『当方のブログで「晴郎」としたのは単に本名 の「晴一郎」からそうしただけで、仔細な理由があってのことではありません。
また、「晴朗」については、当時本人が“気取って”名乗ったようだ と、ただ1人生存している「晴朗」の娘(母です)が申しております』
ということでありまして、正確に歴史を検証したり、整理されている方々には、大変申し訳ないほどのお粗末な理由である。
また、
『絵の所有権は当然もう遺族にある筈もなく、今回の公開で美術館の倉庫に永久保存され、もう日の目を見ることはないらしい』
と書いてしまったが、じつは、
『《同志山忠の思い出》は、折々に所蔵作品展で活用させていただいています。当 館職員のご案内が足りなかったためかと思われます。お詫び申し上げます』
だそうで、これまたたいへん恐縮至極。
おまけに、3月10日~5月27日に開催される「孤独な群集-1920-1940年代の人間像」と、昭和初期に芸術家たちが集った「池袋モンパルナス」で異彩を放った画家「靉光(あいみつ)」の生誕100年を記念した展示会のチケットを、たくさん送ってくださった。
およそ芸術とはほど遠いオヤジだが、ばあさんの気と身体がたしかなうちに、もう一度画家・望月【晴朗】の作品を拝みに行くとしよう。
これをご覧の方々も、ぜひこの機会に「東京国立近代美術館」へお出かけ頂きたい。
まことにこの、ブログというのは、どこのどなた様が見てくださっているのか、計り知れないワケで、“いい加減なことをお気楽に書けないな”ということを、あらためて思い知らされるのであった。
この2007年のブログから15年も経ち、貧乏画家「望月晴郎」の次女(ばあさん)はあちら側へ旅立ち、不詳の孫はとっくに祖父の享年を超えて生きながらえつつポンコツと貧乏に甘んじている。
絵の才能は受け継がれず、飲んだくれの質も落ち目の三度笠、仕事もできず悶々と毎日を過ごしている有様。
もはや小僧の手帳のお世話にならずとも、自前の障害者手帳でロハで「東京国立近代美術館」には入れる身分、そしてとうとう16年前の婆さんと同い年になってしまった。
頭と体がしっかりしているうちにもう一度「望月晴郎」の絵を鑑賞しておこうかね、不肖の孫として。