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大内麻紗子の【好きなことを好きなだけ】ブログ

デジタル社会は決して進化ではない

「進化」という言葉は難しい。

使い方もだか意味もである。


進化とは生物が、単純微小な原始生命から、段階的に、複雑多様なものへと変化して来たこと。更に広く、事物が一層すぐれたものに発展すること。


とあるが、何を〝すぐれたもの〟とするのかが問題である。

似たような言葉で先進というのがある。

こちらは

「進歩の段階が先に進んでいること。先に立つこと」

と辞書にあり、よく先進国という使い方をされてきたが、いまこの言葉を使おうものなら途端に白い目で見られる。

なぜならそれぞれの国や人種や民族などを比較して優劣をつけるような言い方をすること自体がおかしいからだ。

例えば文字を持たない民族があったとして、しかしそれは遅れているわけではないし、そもそも進んでいるだの遅れているだのという発想自体が差別であり間違いということである。

デジタル技術が発展している国を何となく時代の先端のように感じているが、それは単に欧米化が進んでいるだけであって先進しているわけではない。

しかしなんとなく100年後を想像するに、人類とデジタルから生まれたAIとが融合し、人類と枝分かれしたルートでシン人類として変化を遂げていくか、AI AIで独自の進化を歩んでいくような気がする。

この場合、AIを生物と呼ぶかどうかも難しい。

生物とは、生きて活動し繁殖するもののことを指す。

おそらく活動して繁殖はしているだろうが〝生きて〟いるかはわからない。

一方で人間はAIへの依存が高まることで思考が衰え、言語が失われ、感情が単純化されていく、そんな未来のイメージが湧く。

となるとその未来はやり「進化」とは言い難いのではないか。


私はそういった世界が良いとも悪いとも思わない。

どんな選択や生き方をしても、人類がどんな進化を遂げようとも、それは地球の活動の一部で、宇宙の変化の過程のほんの一瞬でしかない。

ではなぜ生きているのか?

このところぐるぐるとそんなことばかり思いを巡らしている。

生物として強い種を残すためなのか。

そのための取捨選択なのか。

しかし結局はそれも宇宙の変化の極々一部にすぎず、宇宙にとって人類はいてもいなくてもいい存在なのかもしれない。

けれど長い長い時を経てこうしてひとつの生命体として誕生し存在している以上、どんな生き方にしろ生をまっとうすることが定められた務めのように思う。

だから私は考える。

自分という小さな小さな生命体がどうその命を燃やすか、生きるかを。

〝生きる〟ことの蓄積が宇宙をつくっていく。

それならばせめて私は燃え尽きるまで自分の生を楽しんで宇宙の一部になりたい。


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