とめさんは80代。骨太のガッシリとした体型。立位保持は可能。手引き介助で歩行も少しは出来る。認知症は中程度から、やや重度のほうに傾いている。黙って座っている時は一見、気難しそうなおばあさんに見える。ところが、話し掛けると印象は一変する。活発な発言が続き、表情も豊かになる。
とめさんは誰かが一緒に座ってさえいれば、自分の話したいことを語り続ける。相手が聞いていてもいなくても、それは関係ない。だだ話しの内容は断片的で、わかりにくい。
先日、入浴介助の機会があったので、試しに少し簡単な質問をしながら聞き出してみた。いつも「お父さんが、お父さんが、、」という言葉をよく使っているが、お父さんとはとめさんの実のお父さんのことで、亡くなった旦那さんのことではなかった。とめさんも先に記したきょう子さんと同じく、最後まで記憶に残っているのは子供時代の事のようだ。とめさんの産みの母はとめさんが5歳の頃、病気で亡くなった。お母さんは死の間際「お母ちゃんはマンマンちゃんの所へ行くけど、お父ちゃんの言うことよう聞いて、お父ちゃんに可愛がってもらうんやで」と言われたという話しを繰り返す。5歳だった自分には、マンマンちゃんの所に行くが、もうすぐ死ぬという事だとはわからずに、母親は病気が治れば帰ってくるんだと思っていたと寂しそうに話してくれた。とめさんの心の中の小さな5歳のとめさんは、まだお母さんとお別れを出来ていないのかな?と思った。とめさんの下には、妹さんがいたそうだ。他に私が確認出来たとめさんの記憶に残っている兄弟は、お兄さんが二人、お姉さんが一人だった。お父さんは山陰地方で製紙工場を営んでいて、お父さんの存命中はそこそこ裕福だった。ただ、とめさんのお母さんが亡くなった後、程なくして継母がやってくる。二人の連れ子を伴ったこの女性は、とても意地悪だった。商談のため、遠方まで出掛けることもあったお父さんがいない時には、とめさんと妹はご飯を食べさせてもらえなかったという。家の裏で妹と寄り添い、ひもじい思いを噛みしめた時のことは忘れられないようだった。
でも、この継母が連れて来た二人の男の子は優しかったという。自分達のお母さんの目を盗んでこっそり食べ物をくれた。「早よ食べ。うちのお母ちゃんに見つかったら、怒られるから。早よ、早よ、、」って、ご飯を届けてくれたそうだ。
程なくして、この継母の行いは、ご近所の人々から父親にも伝わり、継母と連れ子達はお里に返された。それでも一年以上は辛い思いをしたという。
とめさんの話しは、断片的にこれらの出来事の繰り返しが多い。時系列に話してくれる訳ではないので、うわの空で聞いていると、それはただの雑音と変わらない。聞く側が整理して聞かないと理解出来ない。
実母と継母、この二人の母との関係が、とめさんにとっての思い残しなのかもしれない。
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