慶長五年十月(一六〇〇)長政筑前に封ぜられ十二月初父孝高(如水)と共に豊前より筑前に入り、飯塚太養院に宿泊。
黒田長政はじめて豊前中津から筑前名島城に移る道中飯塚に泊り、花瀬街道を経て坂の下に出て、それから石坂の急坂を登り八木山を越えたことを書きとめたものである。
慶長六年には入国の際難儀した石坂の改修が行なわれている。
如水は自ら八木山茶屋に逗留して坂道改修を指図した。
当時八木山茶屋の百姓二名に与えた書状を今も伝えているが損敗はなはだしく判読しがたい。
筑前続風土記拾遣から引用した郡誌の記載によよると、慶長六年八月二四日(一六〇一)如水より八木山の両名宛に授けた書状に夫役末代免除、年貢は三年間免除、三年以後は三分の一、但し田畠の作料として月に薪一駄宛納めさせよ、その他は一切徴収してはならないという意味のものらしい。
おそらくは如水滞在中石坂改修に特に精励した恩賞であろう。
入国の翌年早々に如水自ら出向いて道路の改修を督励したことは特に注目すべきことのように思われる。
それはただに前年不便を感じたということではなく、筑前統治のうえに福岡、飯塚間の交通を非常に重要視したということも考えられるのではなかろうか。
かって天正の頃、秋月と嘉穂の地を争った粕屋の立花は幾たびかこの峠を越えて作戦し、天正九年追撃する秋月勢を引きよせ壊滅させたのも八木山石坂の合戦である。
戦国屈指の兵学者として名高い如水が軍事上からも天然要衝の石坂峠を見逃すことはなかったろう。
まして平時の支配においても福岡、飯塚の線は北の福岡、青柳、畦町、直方の線とともに旧藩時代の領内支配上重要路線であったと思われる。
福岡地方と筑豊を結ぶ街道として庶民の往来に益することもきわめて大であったに違いない。
宝永五年藩主綱政が八木山峠を越えて大分村に向かったのは(郡誌)その一例であって八木山越しの国主の巡狩もしばしばのことであったろう。
その間文人墨客の往来するのもまた少なくなかった。
幕末の歌人大隈言道もその頃の飯塚の歌人たちに昭かれて何回となく峠を越えて福岡から飯塚に往き来している。
彼が詠んだ
の歌は八木山越えの旅を詠んだものである。
彼が福岡飯塚問を往来したのは嘉永二年のころから安政五年までの十年間におよんでいる。
野村望東尼は言道が飯塚の門人らとことのほか親しみ深く福岡に気配もみえないのでわざわざ八木山の峻険を越えてしばしば飯塚を訪れている。
あるとき言道を尋ねんと飯塚にゆく道すがら時は神無月十六日路傍にいたいたしく咲きそめたなでしこの花をみいだし根こそぎて重治の庭に植えたという。
その歌に
野村望東尼は有名な幕末の女流歌人であり筑前藩の著名な勤王家である。
しかも言道に師事して幕末の歌人としても著名な人である。
望東尼もまた言道と同じように、かって慶長の昔黒田如水の改修した石坂を登りくだりして福岡飯塚の間を幾たびか往来したことであろう。
望東尼が根こそぎ抜いて飯塚の歌人小林重治の庭に植えて言道を慰めようとした路傍のなでしこはもしかすると飯塚の町がはるか遠くみえてきた石坂の道の端に咲いていたのか知れない。
今は全く荒廃して秋芒にみえかくれする旧道石坂峠を登りながら杖を片てになでしこの一株を提げてくだってくる望東尼を幻想の中に描いてみるもよい。
望東尼は歌集向陵集の中に
と詠んでいる、短い文章の中に美しい師弟の情愛がにじみでている。
筑前六宿として繁昌した飯塚と、国中第一の街であり藩公の城下でもあった福岡との行き来は花瀬街道をとおり八木山を越えて往来頻繁であったに違いない。
大宿・二十一宿の道筋ではなかったが福岡・篠栗・飯塚に制札場を設けて交通輸送の制度が定められていたことは、八木山越えの交通が江戸時代どの程度に利用されていたかを知るにじゆうぶんであろう。
篠栗制札場の制札によれば
と規定されている。
花瀬街道を今なお博多往還と呼んでいるように、江戸時代には福岡を中心にしたいくつかの重要路線の街道沿いの村として、そのころの村民の生活にも影響することが決して少なくなかったと思われる。
それは全く無形のものとして表面にこそあらわれなかったにしても村民の心の中に潜在するものとしていつの間にか村民の気性を作り思想を育てあげていったに違いない。
(黒田家譜)
黒田長政はじめて豊前中津から筑前名島城に移る道中飯塚に泊り、花瀬街道を経て坂の下に出て、それから石坂の急坂を登り八木山を越えたことを書きとめたものである。
慶長六年には入国の際難儀した石坂の改修が行なわれている。
如水は自ら八木山茶屋に逗留して坂道改修を指図した。
当時八木山茶屋の百姓二名に与えた書状を今も伝えているが損敗はなはだしく判読しがたい。
筑前続風土記拾遣から引用した郡誌の記載によよると、慶長六年八月二四日(一六〇一)如水より八木山の両名宛に授けた書状に夫役末代免除、年貢は三年間免除、三年以後は三分の一、但し田畠の作料として月に薪一駄宛納めさせよ、その他は一切徴収してはならないという意味のものらしい。
おそらくは如水滞在中石坂改修に特に精励した恩賞であろう。
入国の翌年早々に如水自ら出向いて道路の改修を督励したことは特に注目すべきことのように思われる。
それはただに前年不便を感じたということではなく、筑前統治のうえに福岡、飯塚間の交通を非常に重要視したということも考えられるのではなかろうか。
かって天正の頃、秋月と嘉穂の地を争った粕屋の立花は幾たびかこの峠を越えて作戦し、天正九年追撃する秋月勢を引きよせ壊滅させたのも八木山石坂の合戦である。
戦国屈指の兵学者として名高い如水が軍事上からも天然要衝の石坂峠を見逃すことはなかったろう。
まして平時の支配においても福岡、飯塚の線は北の福岡、青柳、畦町、直方の線とともに旧藩時代の領内支配上重要路線であったと思われる。
福岡地方と筑豊を結ぶ街道として庶民の往来に益することもきわめて大であったに違いない。
宝永五年藩主綱政が八木山峠を越えて大分村に向かったのは(郡誌)その一例であって八木山越しの国主の巡狩もしばしばのことであったろう。
その間文人墨客の往来するのもまた少なくなかった。
幕末の歌人大隈言道もその頃の飯塚の歌人たちに昭かれて何回となく峠を越えて福岡から飯塚に往き来している。
彼が詠んだ
ゆくさきは みなみにをれて なつかしく
末をもはする いひづかのさと
末をもはする いひづかのさと
の歌は八木山越えの旅を詠んだものである。
彼が福岡飯塚問を往来したのは嘉永二年のころから安政五年までの十年間におよんでいる。
野村望東尼は言道が飯塚の門人らとことのほか親しみ深く福岡に気配もみえないのでわざわざ八木山の峻険を越えてしばしば飯塚を訪れている。
あるとき言道を尋ねんと飯塚にゆく道すがら時は神無月十六日路傍にいたいたしく咲きそめたなでしこの花をみいだし根こそぎて重治の庭に植えたという。
その歌に
はぐくまん 草も枯れたる 冬野とも
知らで咲きぬる 撫子の花(さくらの歌)
知らで咲きぬる 撫子の花(さくらの歌)
野村望東尼は有名な幕末の女流歌人であり筑前藩の著名な勤王家である。
しかも言道に師事して幕末の歌人としても著名な人である。
望東尼もまた言道と同じように、かって慶長の昔黒田如水の改修した石坂を登りくだりして福岡飯塚の間を幾たびか往来したことであろう。
望東尼が根こそぎ抜いて飯塚の歌人小林重治の庭に植えて言道を慰めようとした路傍のなでしこはもしかすると飯塚の町がはるか遠くみえてきた石坂の道の端に咲いていたのか知れない。
今は全く荒廃して秋芒にみえかくれする旧道石坂峠を登りながら杖を片てになでしこの一株を提げてくだってくる望東尼を幻想の中に描いてみるもよい。
望東尼は歌集向陵集の中に
ささのせの 翁の年毎に 飯塚にゆきて 春を暮してのみ
帰らるれば 今年もやと言い遺しける。
春ごとに 君をとどむる飯塚の さとの桜はきりもすててん
帰らるれば 今年もやと言い遺しける。
春ごとに 君をとどむる飯塚の さとの桜はきりもすててん
と詠んでいる、短い文章の中に美しい師弟の情愛がにじみでている。
筑前六宿として繁昌した飯塚と、国中第一の街であり藩公の城下でもあった福岡との行き来は花瀬街道をとおり八木山を越えて往来頻繁であったに違いない。
大宿・二十一宿の道筋ではなかったが福岡・篠栗・飯塚に制札場を設けて交通輸送の制度が定められていたことは、八木山越えの交通が江戸時代どの程度に利用されていたかを知るにじゆうぶんであろう。
篠栗制札場の制札によれば
篠栗より博多まで 篠栗より飯塚まで
本馬妻 一〇四文 本馬妻 一七一文
軽尻同 六七文 軽尻同 一一五文
人足同 五十文 人足同 八四文
本馬妻 一〇四文 本馬妻 一七一文
軽尻同 六七文 軽尻同 一一五文
人足同 五十文 人足同 八四文
(県報告書四)
と規定されている。
花瀬街道を今なお博多往還と呼んでいるように、江戸時代には福岡を中心にしたいくつかの重要路線の街道沿いの村として、そのころの村民の生活にも影響することが決して少なくなかったと思われる。
それは全く無形のものとして表面にこそあらわれなかったにしても村民の心の中に潜在するものとしていつの間にか村民の気性を作り思想を育てあげていったに違いない。
私も 筑豊歴史好きもので
筑豊風土記なるプログ 書いてます
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ペンネーム 筑豊風土坊 と申します。