旧・鎮西村の地域と歴史

福岡県飯塚市に昭和38年の市町村合併によって無くなった、旧・鎮西村がありました。
昔話や伝説が沢山あります。

旧・鎮西村(人形芝居・桂木座)

2013年05月30日 09時02分19秒 | 地域の伝説
村の観世音堂(建花寺址)を守る友人の父親か祖父のお話です。

建花寺の古野には浄瑠璃にあわせて人形をあやつる一座があって、村人に伝えられていた記録がないのではっきりしないが、70年~80年前、村瀬甚次郎という人がいて浄瑠璃が好きで、また人形を扱うことが器用であった。

この人が主となって粕屋郡伊賀のあやつり師(姓名不祥)を招き同好の士とこれを習ったのがはじまりらしい。

後熊本県出身で鞍手郡若宮町に住む大西岩吉なる人を師としていよいよ研究し、最盛期を作りあげた。

そのころは地元の人で浄瑠璃を語らない人はないというくらいで、また三味線を弾く人もいたが飯塚や伊岐須にも浄瑠璃が好きでぜひあやつり人形をまわしてほしいという人もあって,この人たちは引き幕や舞台のうえの垂れ幕などを寄贈した。

これによって「建古座」ともいったことがわかる。

 

巡業は嘉穂郡内はもちろんのこと、直方・宮田・田川までいき,ことに日鉄二瀬の山神杜祭りや大隈では毎年演じてたいへんに喜ばれたものである。また遠くは佐賀県岩屋までいき三日間も開演したこともある。

村内でも春秋の祭りや,先祖の追善供養などにも農閑期にはほとんど家にいたことがない。zzzzz

出し物は太閤記十段目先代萩三十三間堂阿波の鳴門、御所桜、忠臣蔵など多彩で、人形も30体ほどあり、他に八尾の狐、馬、鼠、などの動物と、箱下駄、建具(35枚)、見台、引き幕などもあった。

演出者も義太夫,三味線を除いても15人ほどもおり、なかなかにぎやかであった。

このような立派な文化財も,浄瑠璃を語る人もなくなり,人形をあやつる人もだんだん少なくなって現在ではわずかに2人を残すばかりである。また人形もこわれ、衣装も破れ、狐、馬、鼠などの動物、箱下駄、建具、見台も散逸し、残ったものの維持にも困るありさまとなっている。

現在では三番そうを酒宴などに披露する程度にすぎず、これが衰微の一途をたどっているのは数少ない村の文化財としてまことに残念なことである。

先人たちが作った、伝統芸能であるが後継者が居らず、今は、人形の首や幕が残っているだけで・・ほとんど廃ってしまっている。(先人たちの心の豊かさ・娯楽の無い時代の潤いを感じています。)


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