旧・鎮西村の地域と歴史

福岡県飯塚市に昭和38年の市町村合併によって無くなった、旧・鎮西村がありました。
昔話や伝説が沢山あります。

旧・鎮西村(八木山村古戦場)

2013年06月03日 09時03分51秒 | 地域の伝説
(花瀬街道・石坂の戦い)で書いていたけど、筑前風土記(貝原 益軒著)にも八木山村古戦場と題して記載されている。

八木山村古戦場


上村に城が尾と云山有。南の高山龍王嶽につづけるひきゝ山也。

 


村民の云へるは、天正の比にや、立花の戸次氏の兵共、此所に取上りしを、秋月氏の軍勢來り責ける。

薩摩勢も秋月勢に助合て戦ひけるが、其時多くの人数討死せり。

其死骸を埋し所、城が尾の西に有。千人塚と云、今按ずるに、天正九年十一月の比、豊後大友家の軍勢、筑後國生葉郡にうち出ける故、秋月種實上座郡に出張して対陣するよし、風聞有けるにより、立花の戸次道雪、岩屋の高橋紹運、両家の勢五千餘人を卒し、秋月勢を遮り分させんため、秋月領内に働き、飯塚片島の邊まで悉く放火すれ共、出合敵なければ、同月六日に引取んとす。

秋月方には、種實上座出陣の留守なれば、道雪・紹運と平場にての合戦成難るべし。

只敵の引取時、山道のせばき切所、備のまはらぬ所に追懸て討べしと、兼て臼井、扇山、茶臼山、高の山、馬見などの城代共と、僉議し置たる事なれば、四五千人起りて、戸次・高橋兩家の勢、引拂ひ行跡を追てぞ懸りける。

道雪・紹運是を見て、すこしも敵にかまひなく、足輕共を後陣に立、遠矢に敵の付來るを防がせ、静々と引退く。秋月勢是を見て、急に討て競ひ懸る。

道雪・紹運八木山の東の坂にて、先陣後陣一度にとつて返して突懸る。

秋月勢の旗下の士共、暫し支へて戦ひしが、終にこらへず引退くを、追詰て討程に、穂波郡土師と云所迄三里餘の間、一ども返し合せず。

道雲・紹運の手に首數二百三十打取、今は是迄也とて閑に引返す所に、秋月留守居の家老共比由を聞付、上野四郎右衛門、坂田市之丞○豊前城井長野、上原が勢、上座出陣に催され、只今秋月に着陣したるを引率して、五千餘人臼井坂を打下し、屋山原より横合にぞ懸りける。

是を見て最前退散せし秋月勢ども力を得、一に成合て、都合八千八百餘人急に追懸たり。

道雪、紹運良將なりといへ共、今朝よりの合戦に人馬共につかれたり。秋月方はあら手にて、しかも大勢成ければ、返し合て戦ん様もなく、土井を下りに引退く。

秋月勢は勝に乗て、引おくれたる敵共を追詰々々、三百餘人討取けり。

上野坂田は種實に從て、多年軍功ある者共なれば、敵の返すべき廣みにては、遠矢に鐡砲を打懸、閑に追ひ、敵の返し難き切所にては、関を作り、追詰々々討程に、さしもの道雪、紹蓮一度も終に取て返さず。

され共さすがの良將なれば、糟屋郡へ難なく引取れける。かゝりければ、秋月勢も今は是まで也とて、八木山より引返し、追討にしたる首四百餘八木山村の東の嶺に切懸て、秋月に蝪歸りけるとぞ聞えし。



右にいへる城が尾千人塚なども此時の事にや。
 
(筑前国続風土記 巻之二十五)


八木山石坂古戦場について

 
中世八木山とは、現在「千人塚(皐月GC:竜王コース近く)」のある本村付近を指した。
 
筑前続風土記によれば八木山氏と云う地頭がいたようである。


 
当時、この付近は人里遠く山深いところであった。

篠栗へ下る直前に山伏谷という所があるが、この地名の由来は、この辺りに山賊が出没し、山伏せを殺していた事に由来すると言う。

 
風土記には「石坂は八木山村の東にあり」とある。嘉摩、穂波郡の諸村は眼下にあって佳景、田河郡(田川)まで見通せることが書かれている。
 
筑前続風土記に「石坂の戦い」は書かれていないが、石坂を取り上げて書いた事は、当時からこの場所が大変な通行の難所であった事が覗える。
 
只、筑前国続風土記の書かれた頃の「石坂」が今日と同じであれば、石坂は黒田長政の入国後「黒田如水」によって開かれたと路筋と言う。

 

 
元の路は「北方の山さがしき所にありて」とあって、「人馬のわづらひおおく」とあり、このためこの難所を避け、如水が今の石坂を開いたのである。

石坂の上には茶屋があり、如水の逗留した茶屋は、代々年貢が免除されたという。
 
いまある「茶屋」の地名はその名残り。当時は二本の松ノ木があったと書いているが、今残っていないようだ。

風土記の記述が正しいとすれば、戦国時代の路は今の石坂より北、飯塚へ流れる建花寺川の上流谷筋(蓮台寺)から山に取り付き、鎮西カツラの木のある辺りの上尾根を迂回したと見られる。
 
当時も建花寺川と呼んだかは分らないが、川の名称は中世は違って居た。

遠賀川は、このあたりは「嘉麻川、下って直方川、更に木屋瀬川、と呼んだ)
 
仮に、激戦地がこの戦いの戦死者埋葬した「千人塚」の説明板の記述にあるように「八木山展望台」辺りだとすると、合戦時ここは大変な急斜面、比高もあり攻め上がるは相当困難である。

こうして地形を見ると「石坂」と言っても、直接その場所指すのではなく、主戦場は十数町北の山地から、千人塚にかけてと見られ、石坂はその総称ではなかったか。
 
この戦いの戦死者葬った「千人塚」の位置からして、急坂急崖を千体もの死体集め、三十町も離れている所まで運び埋葬したとは思えない。

八木山千人塚

(飯塚市八木山本村:記事に重複有)


天正年間筑前国は、豊後大友氏の立花城「戸次道雪」、岩屋城「高橋紹運」と筑前筑後の諸将との対峙が熾烈を極めていた。

その中でも「秋月種実」は弘治三年七月十九日(一五五七)「戸次鑑連」率いる大友軍に古処山を攻められ父「文種」が自刃に追い込まれる。

当時十三歳の「種実」は家臣に守られ、かろうじて逃れ中国「毛利元就」のもとへ逃れる。
 
天正に入り(天正四年前後)「種実」は古処山城を奪回帰参する。古処山に戻った「種実」は父の仇敵大友に常に対峙、休松、柴田川、八木山、岩屋、立花など各地で大友軍と戦う。
 
天正九年十一月「戸次道雪・高橋紹運」は大友に反旗した筑後国生葉軍井上城「問註所鑑景」をめぐって、支援する「秋月種実」を撹乱するため、五千騎にて秋月領「嘉麻」「飯塚」に討って出る。

大友勢は「潤野」「大日寺」一帯に火を放ち、稲穂を刈るなど蹂躪。
 
これに秋月種実は同じく五千騎で追跡。篠栗と飯塚の間「八木山石坂」で「紹運」「秋月」が激戦となる。

その中「道雪」の伏せ兵千騎が秋月勢に襲いかかり、秋月勢は総崩れとなった。
 
この戦いを「八木山石坂の戦い」または「八木山村古戦場」という。
 
この合戦の戦死者、秋月七百六十、大友三百、あわせ千人を越えた。
 
「千人塚」は「石坂合戦」で戦死した両軍の死体を集め葬った所と言う。

激戦地は三十町ほど東「石坂」とされるが、このあたりも主戦の激戦地であったのではないか。

古戦場の近くには様々に戦死者を弔う塚や地蔵塔があるが、この「千人塚」は、実数で千体を埋葬したか分らないが、まるで古墳の様に丘陵をなし大きい。
 
恐らく延長は四十m近く、幅も二十五m高さ七~八m近くある。戦国のものとしては九州では一番大きな塚であろう。

八木山とは古くはこのあたりを指していた。

参考資料  筑前続風土記
筑前戦国史・引用  吉永正春 著
日本図誌大系 九州 Ⅰ


石坂の戦い ・・八木山峠(福岡県飯塚市)

参考資料にお読みください。(詳細が記載してあり・・解り易いと思います。


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