第7話 光妙・安養の二寺はある・・
○ 光妙寺(蓮台寺)
蓮台寺字本村にあって天照山という。
本尊阿弥陀如来、本堂横四間、入四間、昔は法泉山と号したといわれ、真宗本派西本願寺末寺である。
寺伝によると、開基慶円は肥後の国の剣工、同田貫の子孫で道狸と号したが、後に仏法に帰依し厚信の余り得度して慶円と改めた。当地に来て法泉山蓮台寺の再興を志したが、浄土教に刺激されて京都にのぼった。
時に慶安2年(1649)「7月11日、本願寺良如上人にえっして浄土真宗の宗義を修得し光妙寺の寺号をたまわり、本尊と蓮如上人の御影を下付され、かえって現在の地天照山麓に一宇を建立したということである。
たまたま昭和三七年,境内に納骨堂建設の議が起こり墓地改葬のさい、慶円法師の火葬に付した骨壷が発見され、開基当時、340年前の面影をしのび恭しく納骨堂の階上に墓石とともに安置しねんごろに祭られた。
十一世住職円了の代昭和37年(1962)中秋のことである。
○ 安養院(建花寺)
建花寺字荒巻にあり、報土山と号し、本尊阿弥陀如来、本堂横五間、入五間、浄土宗鎮西派本誓寺末寺である。
この寺は、昔、現在大日如来を祭ってある禅定寺の地にあって、仏教が隆昌であつたころの名残りといわれる。
安養院の沿革によると、人皇第四九代、光仁天皇の御宇宝亀2年(771)行基菩薩、この地に錫を留められ、一宇を建立し、自ら三尺三寸の阿彌陀仏の立像彫刻して、安置したのが現本尊である。
その後・建久3年(1192)浄土宗第二相・鎮西国師により、法相宗を浄土宗に改め安養院と改称された。
後天正9年(1581)九月中句・豊後大友義連(大友宗麟)の兵火に焼き尽くされ、元禄二年(一六八九)現在の地に一小宇を再興したということである。
現本堂は前住職二十一世長崎宝誉の建立したるものである。
鎮西村誌より抜粋