第3話 創建の年代
明星寺開基の年代について伝えるものもあるがいずれもそのまま信ずるには多少擬問の余地があるように思われる。
すでに益軒も「開基の年代明ならず」といっているように寺院創建の年代を確証するものとしては残念ながら記録では見当らないようである。
しかしながら創建の年代推定には全くそのすべがないわけでもない。
むしろ次に揚げる諸点はきわめて有力な手がかりとなるように思われる。
寺院の立地条件と伽藍配置
聖光上人,明星寺常寂の門に学んだのは治承2年のことである
上人と叡山との関係
寺院の立地条件とは土地選定のことである。
明星寺北谷を登りつめた所でさらに百階段を数える石段を登る地形は明らかに山岳仏教の定石であろう。
かって奈良仏教の寺院が平地を選んだのに対して平安仏教の諸寺が好んで深山幽谷を選んだことは周知のことで、延暦寺の比叡山金剛峯寺の高野山はその好例であろう。
さらにその伽藍配置の点よりしても平安時代になって流行した山岳仏教といわれるものの特質をじゆうぶん示していると思われる。
すなわち龍王山東麓の峯や谷に堂塔を配した方式はまさしく平安仏教の典型である。
次に聖光上人入山の年が年譜に伝えるところによれば治承2年となっているが、治承はいうまでもなく平安後期の年号である。
しかもそのころには常寂の住んだ明星寺が存在したことは明らかである。
これらをあわせ考えるとき筑前国続風土記に「天台宗なり」(明星寺 参照)といっているのも真実を伝えているようである。
以上の諸点を総合するとき、もちろん文献によった充分ものとはいえないが、明星寺創建の年代を平安時代に推定することには大きな誤りはないように思われる。
また同時に奈良寺院としての建立説ももちろん考えられないことである。
開基の人が誰であるか知るべくもないが、いずれにしても天台、真言の二宗が盛んであった平安期に平安仏教の格好の場所として北谷の奥深い幽谷が選ばれたものであろう。
しかも聖光上人が叡山との間を往来したことからして恐らくは益軒のいうように天台系の寺院とみて誤りないものと思われる。
(鎮西村誌より抜粋)
明星寺
明星寺村にあり。
“平壽山妙覚院と号す。
天台宗也。
開基の時代分明ならず。
比叡山の末寺にして、虚空藏を本尊とす。
此寺中此頽破して、修理する人なかりしに、聖光上人(弁長と号す。仁元年に寂す。筑前の人なり。行年六十四暦)是をなげき再興をこころざし、大日寺山に入りて樹を切とり、路に三層の塔を立ける。
されば昔は大寺にて、堂舎敷多く、いといかめしき伽藍なりしとかや。
いまはただ虚空藏堂(昔は方九間の瓦堂也。今は横二間、縦三間の堂あり。当村の田の字に虚空蔵田など云て、昔の祭田の名残れり。)地蔵堂(昔は方四間の堂なり。今は方一間半の堂あり。)薬師堂(今横二間縦三間の堂あり。薬師田とて祭田の名残れり。)のみ残
れり。此外阿弥陀堂(方四間の堂に阿弥陀安置せりと云。あみだ田とて、今も田の字に祭田の名残れり。)観音堂(方四間の堂なりしと言い伝えたり。今に田の字に観音田とて祭田の名残れり。)
鐘楼(方二間の楼なりしと云い伝ふ。田の字に鐘楼田の名残れり。)など皆圃と成りて、ただ其の名のみ残りぬ。
湯屋池と云小池の形ある所あり。今竹林しげりて、池の形もさだかならず。
中に小島ありて石仏を安置しぬ。
此の池に明星の光怪しく映ぜし故に、寺号とせしとと云い伝わり。
又、昔は此の寺に十二坊ありしが、今は圃と成り、或民宅と成りて其の名のみ残れり。
(十二坊は本坊、是則座主坊なり。妙覚坊、籠蔵坊、俊光坊、定壽坊、楠田坊、花坊、横谷坊、峰坊、谷坊、土坊、春海坊是也。)此十二坊各当村の田地を以って、其産とせしと云。今此所を見るに、所々に古跡のこりて、むかしの繁栄を思ひやられ待る。
虚空藏堂の前には櫻の木数株あり。
凡此寺は山上なれぱ、堂前の跳望目をよろこぱしむ。
堂を下るに石階百八段あり。
鐘のこゑを表せりといふ。
此寺ありし故、今も村の名を明星寺と云。
此村の境内日敷が原と云所に松樹あり。
是は聖光上人、豊前彦山に参詣せし度ごとに植し松なる故に、日数原といヘり。
貝原 益軒著((以上は筑前国続風土記 巻之十二より抜粋)原文のまま記録する。
後一つ『明星寺虚空蔵菩薩霊場記念碑』が建立されている・・その中に、次のように記載されているそうです。
明星寺虚空蔵菩薩霊場記念碑〔原文〕
建設年月日 大正2年4月3日
熟ヲ明星寺虚空蔵菩薩霊場ノ縁起ヲ案スル二、
今ヨリー千百四拾七年(1,147)前称徳帝ノ御字釈叡尊ノ開基セシ旧址ニシテ、
後冷泉帝ノ康平年間大伽藍回禄ノ災二遇ヒシヲ、
後鳥羽帝ノ建久年中浄土宗鎮西派ノ始祖聖光上人再興ヲ志シ三層ノ塔ヲ建立セラル、
然レトモ天正年中兵燹二罹リ慶長年間マタ祝融二襲ハレ、サシモノ巨刹モ全ク頽廃二帰シ、
殊二明治年間二及ヒテハ其ノ域内極メテ狭隘トナリ懐古ノ念二堪ヘサラシム。
明星寺北谷区民深ク之ヲ歎キ境内フ拡張セソ為メ明治川卅二年附近ノ官林下渡ヲ福岡県庁二請願セシモ、曠日彌久事進捗セス、
穂波村杜掌秀村健氏大一区民ノ衷情ヲ察シ、或ハ熊本二赴キ或ハ県庁二出テ大二当路者二訴ヘ多年斡旋スル所アリ。
明治四十二年二至リ遂二明星寺北屋敷国有林四反八畝弐拾参歩ヲ割キテ虚空蔵菩薩堂ノ域内二編入スルヲ許可セラル。
之レ実二北谷区民ノ熱誠ト、秀村氏ノ努力ト二因ルモノ二シテ誠二名蹟ヲ保存スルノ途ヲ得タリトユフベシ。
聊カ其ノ事蹟ヲ勒シテ伝フルコト爾リ。
赤間富次郎撰
後藤彦四郎書
大正二年四月三日建之北谷区中
後藤彦四郎書
大正二年四月三日建之北谷区中
(解説)明星寺虚空蔵菩薩霊場記念碑
建設年月日 大正2年(1913年)4月3日 建立
明星寺虚空蔵菩薩霊場の縁起(霊場のいわれを)を案ずるに至るようになった。
記念碑建立の日より1147年(現在より1246年)前、称徳天皇(第48代・在位764~770年)の御世、釈叡尊の開基(天平神護2年(766年)する旧址であった。
後鳥羽天皇(第82代・在位1183~1198年)の御世、浄土宗鎮西派の始祖 聖光上人(地元では鎮西上人と呼ぶ)が明星寺再興を思い立ったのは、頼朝が将軍宣下を受けた前年の建久2年(1191)のことである。
建久4年(1193年)衆徒の請により明星寺に住み、廃塔の復興にあたり、建久8年(l197) 三層の塔が新装麗しく明星寺の境内に建立されたのである。
しかし、再興された大伽藍も、天正(1573~1592年)年中に戦による火災に罹り、慶長年間(1596~1615年)に再度火災に遭い、さすがの大伽藍(大寺)全てが焼失し荒れ果てるに至った。
とりわけ、明治年間(1868~1912年)に及んでは、明星寺霊場は極めて狭くゆとりがなく古の大寺だったころの思いに堪えがたく。
明星寺北谷区民たちは深く之を嘆き境内の拡張をするため、
明治三十二年(1899年)に境内の隣地の受け渡しを福岡県庁に請願するも、空しく日々が過ぎるのみで進捗することなく。
穂波村の社掌(神官)秀村 建氏は大一区民の嘘偽りの無い思いを察し、或る時は熊本に赴き、或る時は福岡県庁に赴いて担当の当路者(上司)に実情を訴え、仲介を行っていた。
明治四十二年(1909年)に至って遂に明星寺北屋敷国有林四反八畝弐拾参歩を分割していただき虚空蔵菩薩堂の境内に編入することが許可された。
この事実は北谷区民のあつい真心のこもった願いと、秀村氏の斡旋による努力の賜物である、この事に依り明星寺虚空蔵菩薩堂を保存する道を得たとゆうべきである。
とりあえず、その事の痕跡を残して伝えることと成る。
赤間 富次郎 撰
後藤 彦四郎 書
大正二年(1913年)4月3日 建立 北谷区中
後藤 彦四郎 書
大正二年(1913年)4月3日 建立 北谷区中