◆●バツ -地獄 - 祟り- 憑依(ひょうい)(憑き物から転送)
◆罰(バツ) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/罰
法令や特定集団における決まりごと、道徳などに違反したものに対する公もしくは集団が行う、多くは当人に不利益または不快になることである。罰を与えることを制裁というが、制裁を罰の意味で使うこともある。仕置、懲罰とも言う。
◆身体的な罰
体罰(殴る・手足を拘束する)、死刑など。
◆精神的な罰
叱りつける・罵る・皮肉を言う・無視する・仲間はずれなど。
◆経済的な罰
経済的な罰には、罰金や課徴金を課したり、不正に得た利益、用いられた凶器を没収するなどがある。
戦争などにおける経済制裁という国家行為もある。
◆社会的な罰
仏教における罰、つまり仏罰については「仏罰」を参照
罰(ばち)、天罰(てんばつ)、神罰、仏罰(ぶつばち)
規則や規律に違反したものに対し、神仏の罰(目に見えない力による罰)があると考えられる場合。
◆罰の背景
何が罰の対象になるかは、時代により民族により全く異なる。例えば古代ギリシアでは少年愛は社会公認の風俗であったが、現代の先進国では刑罰と精神医学の対象になっている。
◆地獄(じごく)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%8D%84
宗教的死生観において、複数の霊界(死後の世界)のうち、悪行を為した者の霊魂が死後に送られ罰を受けるとされる世界。厳しい責め苦を受けるとされる。素朴な世界観では地面のはるか下に位置することが多い。
◆仏教における地獄
六道の最下層。閻魔の審判に基づいて様々な責め苦を受けるとされる世界。対比されるべきは、本来なら六道の最上層・天界のはずだが、実際には、成仏した者が行く六道のいずれでもない浄土(浄土は数多くあり、極楽はその一つ)と対比させられることが多い。
◆比喩表現
宗教(主に仏教)上の地獄から派生して、非常に苦難な状況・境地・場所を地獄と例える。たとえば、「生き地獄」、「地獄の一丁目」など。
また、以下のような用法もある。
・火山性ガスや温泉の蒸気熱などにより草木の生えない場所や、極めて高温の温泉が大量に湧出する源泉地帯。あるいは間欠泉などの一部の温泉の別名。例:「地獄温泉」、「地獄谷温泉」、「別府地獄めぐり」、「地獄釜(地獄蒸し)」、「雲仙地獄」
・劇場において、舞台の下にある空間。奈落。
・江戸時代において、格の低い売春婦。
・銃・刃物といった人を死に至らしめるもの、麻薬・殺し・強盗といった人を狂気に陥れるもの、貧困・失業・汚物といった人に苦しい生活を強いるものが処理されることなく、吹き溜まり、そして蔓延るようになり、いつまでもその状態が続いている街や場所が呼ばれたりする。
・非常な苦しみや試練が繰り返し続く状態や境遇。「試験地獄」(競争の激しい試験に合格するために大変な苦しみを味わうこと)や「今日の仕事は地獄だったよ」(その日の仕事の内容・状況が非常に苛酷であったこと)など。
◆祟り(たたり)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9F%E3%82%8A
神仏や霊魂などの超自然的存在が人間に災いを与えること、また、その時に働く力そのものをいう。
類似の概念として呪(のろ)いがある。祟りは神仏・妖怪による懲罰など、災いの発生が何らかの形で予見できたか、あるいは発生後に「起こっても仕方がない」と考えうる場合にいう(「無理が祟って」などの表現もこの範疇である)。これに対し呪いは、何らかの主体による「呪う」行為によって成立するものであり、発生を予見できるとは限らない。何者かに「呪われ」た結果であり、かつそうなることが予見できたというケースはあり得るので、両概念の意味する範囲は一部重なるといえる。
◆日本の神は本来、祟るものであり、タタリの語は神の顕現を表す「立ち有り」が転訛したものといわれる。流行り病い、飢饉、天災、その他の災厄そのものが神の顕現であり、それを畏れ鎮めて封印し、祀り上げたものが神社祭祀の始まりとの説がある。
現在では一般的に、人間が神の意に反したとき、罪を犯したとき、祭祀を怠ったときなどに神の力が人に及ぶと考えられている。何か災厄が起きたときに、卜占や託宣などによってどの神がどのような理由で祟ったのかを占って初めて人々に認識され、罪を償いその神を祀ることで祟りが鎮められると考えられている。神仏習合の後は、本来は人を救済するものであるはずの仏も、神と同様に祟りをもたらすと考えられるようになった。これも、仏を祀ることで祟りが鎮められると考えられた。しかしこれはあくまでも俗信であり、仏教本来の考え方においては、祟りや仏罰を与えることはない。
◆怨霊による祟り
後に御霊信仰の成立により人の死霊や生霊も祟りを及ぼすとされるようになった。人の霊による祟りは、その人の恨みの感情によるもの、すなわち怨霊である。有名なものとしては非業の死を遂げた菅原道真(天神)の祟りがあり、清涼殿への落雷や醍醐帝の死去などが祟りによるものと強く信じられるに至った。時の公卿は恐懼して道真の神霊を北野天神として篤く祀り上げることで、祟り神を学問の守護神として昇華させた。このように、祟り神を祭祀によって守護神へと変質させるやり方は、恐らく仏教の伝来以降のものと考えられ、それ以前の最も原始的な日本人の宗教観は「触らぬ神に祟りなし」のことわざどおり、御室の深奥でひっそりと鎮座する神霊を、機嫌を損ねて廟域から出ないように、ただ畏れて封印するものだったのかもしれない。
一方、怨霊として道真と並んで有名な平将門の将門塚周辺では天変地異が頻繁に起こったといい、これは将門の祟りと恐れられた。時宗の遊行僧・真教によって神と祭られて、延慶2年(1309年)には神田明神に合祀されることとなった。また、東京都千代田区大手町にある将門の首塚は移転などの計画があると事故が起こるという話もある。
◆様々な祟り
全国各地に見られる「祟り地」の信仰も原始的な宗教観を映し出していると見ることが出来る。祟り地とは特定の山林や田畑が祟ると恐れられているもので、そこで木を伐ったり、所有したりすると家人に死者が出るという。東海では「癖地」「癖山」などといわれ、地方により「祟り地」「オトロシ所」「ばち山」「イラズ山」などの呼称がある。こういった場所には昔、処刑場があったとか縁起の悪い伝承が残っていることが多いが、このような土地は古えの聖域、祭祀場であり、本来、禁忌の対象となっていたものが信仰が忘れられて祟りの伝承だけが残ったという見解もある。
神木や霊木の祟りも全国によく見られる話である。日本では今でも古くからの巨木・老樹に対する信仰が残っているが、民間にも老樹にまつわる祟り伝承があり、信州には斧で切ると血を流したという一本松の伝説があり、各地に似たような話が伝わっている。
同様に「動物霊」も祟ると考えられており、特に猫の怨霊は恐れられ、「猫を殺すと七代祟る」といった俗信がある。
近年では民間宗教者や新宗教により「水子の祟り」、「先祖の祟り」なども盛んに喧伝されるようになってきている。前者は人工中絶の増加に目を付けたもの、後者は核家族化により先祖供養が粗略となった実情に着目し、除霊、鎮魂、供養を行えば不幸・障害が取り除かれると説くものである。
◆古来、祟るとされた動物
稲荷信仰において狐は神使とされ、三輪山信仰では蛇が神の仮の姿とされる。したがってこれらの動物を害した場合は報いを受けると信じられる。
それとは別に、九尾の狐や猫又・化け猫といった怪異譚から、狐や猫に人を祟る能力があるとする俗信も広く存在した。猫にまつわるジンクスは西洋にも存在する。 犬や猫の斑毛が顔の中央で左右に別れ、鼻筋が白く通った模様を「ハチワレ」(鉢割れ、八割れ)と呼び、飼うと祟る、裏切る、化けると言われ禁忌の対象とされた
◆祟り神(たたりがみ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9F%E3%82%8A%E7%A5%9E
荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である。また、恩恵をうけるも災厄がふりかかるも信仰次第とされる。すなわち御霊信仰である。その性質から、総じて信仰は手厚く大きなものとなる傾向があり、創建された分社も数多い。
平安京、京の都で長くとりおこなわれている祇園御霊会は、祟り神を慰撫し鎮魂する祭りである。主祭神である「祇園神」「牛頭天王」はまさにこの意味での祟り神の代表格であり、疫病をもたらす厄神であると同時に、手厚く祀る者には守護神として働くとされ、全国各地に牛頭天王社が創建された。
素盞嗚尊によって退治された八岐大蛇などは代表的な祟り神である。[要出典]八岐大蛇から現れ出た宝剣天叢雲剣は三種の神器として神剣として祀られる。
しかしながら、『日本書紀』には天武天皇が天叢雲剣の祟りが原因で崩御、『日本後紀』には桓武天皇が十握剣(八岐大蛇を征服した宝剣)の祟りが原因で崩御したとあり、神剣の祟りは相当なものと認識されていたようである。
前者は熱田神宮から盗まれ行方不明だった天叢雲剣が献上され宮中にとどめおいたところ、後者は石上神宮から平安京へ無理矢理移動させたため祟ったとある。結局、畏れをなされた神剣は元の場所に戻されることとなった。
◆御霊信仰
非業の死を遂げ畏れられたもの、たとえば菅原道真や崇徳院、平将門は祟り神に部類される神として祀られている。
◆憑依(ひょうい)(憑き物から転送)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%91%E4%BE%9D
霊などが乗り移ること。憑(つ)くこと。憑霊、神降ろし・神懸り・神宿り・憑き物ともいう。とりつく霊の種類によっては、悪魔憑き、狐憑きなどと呼ぶ場合もある。
「憑依」という表現は、ドイツ語の Besessenheit や英語の (spirit) possession などの学術語を翻訳するために、昭和ごろから、特に第二次世界大戦後から用いられるようになった、と池上良正によって推定されている(#訳語の歴史を参照)。ファース(Firth, R)によれば、「(シャーマニズムにおける)憑依(憑霊)はトランスの一形態であり、通常ある人物に外在する霊がかれの行動を支配している証拠」と位置づけられる。脱魂(英: ecstassy もしくは soul loss)や憑依(英: possession)はトランス状態における接触・交通の型である[5]。
宗教学では「つきもの」を「ある種の霊力が憑依して人間の精神状態や運命に劇的な影響を与えるという信念」とする
◆神道・古神道
大相撲も、皇室に奉納される神事であり、横綱はそのときの「戦いの神」の宿る御霊代である。
◆祓い
昔の巫女は1週間程度水垢離をとりながら祈祷を行うことで、自分に憑いた霊を祓い浄める「サバキ」の行をおこなうこともあった。
◆日本語における憑依の別名
・神宿り - 和御魂の状態の神霊が宿っている時に使われる。
・神降ろし - 神を宿すための儀式をさす場合が多い。「神降ろしを行って神を宿した」などと使われる。降ろす神によって、夷下ろし、稲荷下ろしと称される[18]
・神懸り - 主に「人」に対し、和御魂の状態の神霊が宿った時に使われる。
・憑き物 - 人や動物や器物(道具)に、荒御魂の状態の神霊や、位の低い神である妖怪や九十九神や貧乏神や疫病神が宿った時や、悪霊といわれる怨霊や生霊がこれらのものに宿った時など、相対的に良くない状態の神霊の憑依をさす。
・ヨリマシ -尸童と書かれる。祭礼に関する語で、稚児など神霊を降ろし託宣を垂れる資格のある少年少女がそう称された。尚柳田國男は『先祖の話』中で憑依に「ヨリマシ」のふりがなを当てている
◆民俗学における憑依観
民俗学者の小松和彦は、憑き物がファースの定義による「個人が忘我状態になる」を伴わないことや、社会学者I・M・ルイスの「憑依された者に意識がある場合もある」という指摘以外も含まれることから、憑依を、フェティシズムという観念からなる宗教や民間信仰において、マナによる物体への過剰な付着を指すとした。そのため、「ゲームの最中に回ってくる幸運を指すツキ」の範疇まで含まれると定義する。さらに、そのような観点から鑑みるに、日本のいわゆる憑きもの筋は「possession ではなく、過剰さを表す印である stigma」であるとする[20]。また、谷川健一は、「狐憑き」が「スイカツラ」や「トウビョウ」など、蛇を連想させる植物でも言われることから、「蛇信仰の名残」とし、「狐が憑いた」という説明を「後に説明しなおされたもの」と解説している
◆医学と憑依
医学においては森田正馬(森田療法で有名)は祈祷性精神病を研究した。医学領域では、憑依とされているものの一部は、精神疾患の一種と解釈したほうがよいと判断することがある。
ただし、沖縄では「ターリ」あるいは「フリ」「カカイ」などと呼ばれる憑依現象は、その一部が「聖なる狂気」として人々から神聖視された。そのおかげで憑依者は、治療される対象として病院に隔離・監禁すべきとする近代西洋的思考に絡め取られることは免れた、ともされる。
沖縄の本土復帰以降には、同地に精神病院が設立されたものの、同じころ(西洋的思考の)精神医学でも「カミダーリ」なども、人間の示す積極的な営為の一つであるというように肯定的な見方もなされるようになったおかげで、沖縄は憑依(の一部)を肯定する社会、として現在まで存続しているともされている。
◆超常現象研究からの所見
職業霊媒のように、人間が意図的に霊を乗り移らせる場合もある[2]。だが、霊が一方的に人間に憑くものも多く、しかも本人がそれに気がつかない場合が多い[2]。
とりつく霊とされているのは、本人やその家族に恨みなどを持つ人の霊であったり、動物霊であったりする[2]。
何らかのメッセージを伝えるために憑くとされている場合もあり、あるいは本人の人格を抑えて霊の人格のほうが前面に出て別人になったり、動物霊が憑依した場合は行動や容貌がその動物に似てくる場合もある[2]。
こうした憑依霊が様々な害悪を起こすと考えられる場合は、それは霊障と呼ばれている
◆ピクネットによる説明
超常現象専門の研究者であるピクネットは、種々の文献や、証言を調査して以下のように紹介している。
◆歴史憑依は太古の昔から現代まで、また洋の東西を問わず見られる。すでに人類の歴史の初期段階から、トランス状態に入り、有意義な情報を得ることができるらしい人がわずかながらいることほ知られていた。部族社会が出現しはじめた頃、憑依状態になった人たちはいつもとは違う声で発語し、周囲の人々は霊が一時的に乗り移った気配を感じていたようである[25]。初期文明では憑依は「神の介入」と見なされていたが、古代ギリシャのヒポクラテスは「憑依は、他の身体的疾患と同様、神の行為ではない」と異議を唱えている[25]。西洋のキリスト教では、憑依に対する見解は時代とともに変化が見られ、聖霊がとりつくことが好意的に評価されたり、中世には魔法使いや異端と見なされ迫害されたり、近代でも悪魔祓いの対象とされたりした。現在でも憑依についての解釈は宗派によって、見解の相違が存在する。(→#キリスト教)近年でも憑依の典型的な例は起きている。例えばイヴリン・ウォーは『ギルバート・ピンフォードの苦行』という本を書いたが、これは小説の形で提示されてはいるものの、ウォー自身は、これは自分に実際に起きたこと、とテレビで述べている。(ただしこの事例では、酒と治療薬の組み合わせが原因とも言われている)。最近では「良い憑依」というのを信じる人々もいる。肉体を備えていない霊が、肉体の「主人」の許可を得てウォークイン状態で入り込み、祝福のうちに主人にとってかわることもあり得る、と信じる人たちがいる
◆矢作直樹のスピリチュアル的見解
救急救命医として大勢の生死の狭間にある患者を診てきた矢作直樹は、搬送されてきた患者に、医学的な疾患だけではない何かが憑いた状態になっている、 すなわち「別人の霊に乗り移られた』ような患者を何人も診てきたという。矢作は霊魂や霊性というものは一種の波動のようなものであり、目に見えないけれども、確実にそこに在るものだと解説する。そして憑依は、他者の霊と別の人間の波動が一致した時に起こるものだという。
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