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家康が遠慮し続けた次男「結城秀康」の生涯

2019年10月26日 20時22分08秒 | 歴史

家康が遠慮し続けた次男「結城秀康」の生涯
●結城秀康 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/結城秀康
結城 秀康(ゆうき ひでやす)/松平 秀康(まつだいら ひでやす)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。越前北ノ庄藩初代藩主。
越前松平家宗家初代。
徳川家康の次男。
"天正2年(1574年)、徳川家康の次男として遠州浜松で生まれた。母は家康の側室の於万の方(長勝院)。"
出典結城秀康 - Wikipedia
"於万は家康の正室・築山殿の奥女中を務めていたが、家康の手が付いて秀康を身籠った。"
家康は正室築山殿の悋気を恐れ、於万を重臣の本多重次のもとに預けた。秀康は徳川家で同地代官や浜名湖周辺の船・兵糧の奉行を務めた領主中村正吉の屋敷で誕生した。
家康は正室に遠慮し、秀康出産後家来の家に預ける。

●お万の方 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/お万の方
お万の方(於万の方、おまんのかた)は、女性の名前。以下の人物が知られる。 徳川家康の側室。結城秀康の生母。→長勝院を参照。 徳川家康の側室。徳川頼宣・徳川頼房の生母。→養珠院を参照。 徳川家光の側室。→永光院を参照。 保科正之の継室。

"家康は正室築山殿の悋気を恐れ、於万を重臣の本多重次のもとに預けた。"
●出典結城秀康 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/結城秀康
 
●豊臣秀吉を激怒させた男・鬼作左といわれた「本多重次」とは?
https://matome.naver.jp/odai
2018/02/08
徳川家康(とくがわいえやす)の家臣で鬼の作左(おにのさくざ・おにさくざ)といわれた戦国武将・本多重次(ほんだしげつぐ)とは? 「一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥やせ」の手紙は、簡潔な文面で有名。「鬼の作左」というコミックにもなっている。
 
●本田重次
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E9%87%8D%E6%AC%A1
本多 重次(ほんだ しげつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。通称は作左衛門で、剛邁で怒りやすいので「鬼作左(おにさくざ)」と綽名された。
父家康に嫌われる
"幼名を於義伊(おぎい)と名づけられた秀康は、父・家康に嫌われ、満3歳になるまで対面を果たせなかった。"
冷遇の理由は双子で生まれてきたことにあるともされる。当時双子での出生は「畜生腹」と言われ、忌み嫌われていた。
兄・信康のとりなしで家康との対面を果たす
"その対面も、あまりの冷遇に異母弟を不憫に思った兄・信康による取りなしで実現したものであったという。"
 
●徳川信康
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%BA%B7
出典banshoin.com
http://banshoin.com/
曹洞宗 清瀧山 萬松院
徳川信康
萬松院(ばんしょういん)は、文禄元(1592)年、徳川家康嫡男 松平信康を供養するために 小田原城主 大久保忠世により建立された寺院です。
茅葺きの庫裏(くり)は、寛政12(1800)年の建築であり、境内には松平信康ゆかりの文化財が多く伝えられています。
徳川信康
徳川 信康(とくがわ のぶやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男(嫡男)。母は瀬名義広の娘で今川義元の姪・築山殿。
兄・信康が織田信長の命により切腹させられる
"天正7年(1579年)、武田勝頼との内通疑惑から、織田信長の命令により信康が切腹させられる。"
"このため、次男である秀康は本来ならば徳川氏の後継者となるはずであった。"
"しかし、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和解するときの条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)として差し出され、家康の後継者は異母弟の長松(後の徳川秀忠)とされた。"
羽柴秀吉の養子になる
"天正12年(1584年)12月22日、元服して、養父・秀吉と実父・家康の名から一字ずつ取った名を与えられ、羽柴秀康と名乗った。"
秀吉の「秀」、家康の「康」を一字ずつ取って「秀康」と名乗る。天下でこれほど贅沢な名前もないであろう。
秀康の活躍
"秀康は天正15年(1587年)の九州征伐で初陣を果たし、豊前岩石城攻めで先鋒を務めた。"
"続く日向国平定戦でも抜群の功績を挙げた。"
"天正18年(1590年)の小田原征伐、天正20年(1592年)からの文禄・慶長の役にも参加した。"
秀吉に実施鶴松が産まれる
"しかし天正17年(1589年)秀吉に実子の鶴松が誕生すると、秀吉は鶴松を豊臣氏の後継者として指名。そのため秀康は他家へ養子に出されることとなる。"
このころは、家康は秀吉の傘下にあり、秀康の人質としての価値もなくなっていたようです。
"秀吉は、秀康を北関東の大名の婿養子とすることを考えついた。"
今度は、結城晴朝の養子になる

"天正18年(1590年)に秀康は関東に下り黒田孝高の取り成しで結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督および結城領11万1,000石を継いだ。"

結城晴朝
出典  取手市/本多作左衛門重次の墓
https://www.city.toride.ibaraki.jp/shitebunkazai/hondasakuzaemon
2019/02/22
徳川家の重臣で「鬼作左(おにさくざ)」とあだ名された本多作左衛門重次は、天下人となった豊臣秀吉の勘気にふれ、家康もやむなく蟄居(ちっきょ)を命じ、そのまま許されること無く取手の地で亡くなりました。日本一簡潔な手紙「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」は、本多重次が、戦場から妻に宛てたといわれる手紙です。要領を得た簡潔な手紙文として余りにも有名です。
茨城県取手市吉田383.
結城晴朝
結城 晴朝(ゆうき はるとも)は、戦国時代から江戸時代初期の武将。下総国の戦国大名で、結城氏17代当主。結城城主。伯父の結城政勝の養嗣子となり、結城氏を継承。
結城氏は下野の守護に任命されたこともある名家であった。
きらびやかな弟たち
結城秀康は、豊臣秀頼(右大臣)の義兄であり、徳川秀忠(後2代将軍)の実兄であった。弟はいずれも天下人になる運命だが、最終的に秀康は実父家康によって越前に閉じ込められた。
 
●いっぴつ‐けいじょう【一筆啓上】
「簡単に申しあげます」の意で、男子の手紙の書き出しに使う語。
「一筆啓上仕(つかまつ)り候」
 
● 一筆啓上賞 日本一短い手紙コンクール特別後援
https://www.sumitomo.gr.jp/act/public-relations/ippitsu/
福井県坂井市丸岡町、この北陸の小さな城下町を一躍有名にした町おこし事業「一筆啓上賞 日本一短い手紙コンクール」を住友グループは特別後援しています。
このコンクールは簡潔で要を得た手紙として有名な「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」にちなんでいます。
この手紙は徳川家康の家臣・本多重次が陣中から妻に宛てて送ったもので、「お仙」は成長したのち、丸岡城主・本多成重となります。
住友グループ広報委員会では、グループメッセージ「大切なこと 人から人へ」の精神にかなう催しであること、また丸岡町が住友家初代住友政友の出身地で、ゆかりが深いことなどからこのコンクールを平成6年(1994年)から後援しています。
 
●豊臣秀頼 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/豊臣秀頼
豊臣 秀頼(とよとみ ひでより / とよとみ の ひでより、旧字体: 豐臣秀賴)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。太閤・豊臣秀吉の三男。

秀吉の側室であった茶々(淀殿)の第二子。子は側室・和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に国松と、小石の方(おいわのかた。成田氏)との間に天秀尼(彼女の生母については異説がある)。位階は正二位、官職は右大臣。幼名は拾丸(ひろいまる)。なお、豊臣とは名字ではなく、本姓である[注釈 2]。乳母は宮内卿局・右京大夫局(一説に両者は同一人物共)・正栄尼が伝わる。また、淀殿の乳母である大蔵卿局も養育係を務めた。
 
●徳川秀忠 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/徳川秀忠
徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。
 
●結城秀康 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/結城秀康
越前移封とその後
関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城10万1,000石から越前北庄68万石に加増移封された。結城旧来の家臣の中には越前への移転を拒否するものが少なくなく、それ故この越前移封は最終的な在地離脱の強制として機能 ...
"秀康は、関ヶ原の戦いの前哨戦である会津征伐に参戦する。"
"このとき、秀康には家康らが西に引き返す間、景勝を牽制するという留守居の役目が、家康によって与えられ、任を全うした。"
"関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城10万1000石から越前北庄67万石に加増移封された。"
戦後の論功行賞にて、徳川一門を含めた諸侯の中で唯一50万石を超える加封を受けている

越前北の庄城址
http://castle.jpn.org/prefecture/fukui.html
福井県の城 | 日本の城写真集
出典castle.jpn.org
越前北の庄城址
織田信長は北陸地方を手に入れると、越前国を柴田勝家に与え北陸方面の経営を任せ、
勝家はその本拠地として北ノ庄城を築いた。
上がった天守は9層もあったと伝わる。
本能寺の変によって信長が戦死すると、勝家は羽柴秀吉との決戦に敗北。
北ノ庄城に籠り、妻で信長の妹・お市の方とともに自害した。
 
・失意のうちに病没
慶長10年(1605年)、権中納言。慶長11年(1606年)9月21日には伏見城の留守居を命じられる。
だが病を得て職務を全うできなくなったため、慶長12年3月1日に越前へ帰国し、そのまま閏4月8日に死去。
享年34。死因は『当代記』に「日来唐瘡相煩、其上虚成」とあるから、梅毒ではなかったかとされる。
また梅毒が直接の死因ではなく、梅毒による衰弱症が死因とする指摘もある。
なお曲直瀬玄朔の『医学天正記』には、「越前宰相殿、瀉利・発熱・咽渇・五令ニ加滑」とあり、他の難病にもとりつかれていたようである。
始めは結城家の菩提寺である曹洞宗孝顕寺で火葬され、孝顕寺殿前三品黄門吹毛月珊大居士と追号されたが、徳川家・松平家が帰依していた浄土宗による葬儀でなかったことを家康が嘆いたため、知恩院の満誉上人を招いて新たに運正寺を作り、ここに改葬して戒名も浄光院殿前森巖道慰運正大居士と改められた。
越前68万石は、嫡男・忠直が継いだ。
・人物逸話
"武将としての器量は一流で周囲からも認められており、武勇抜群、剛毅で体躯も良かったと言われている。"
"伏見城において行われた秀忠将軍就任祝いの席には、上杉景勝が秀康に上座を譲ろうとすると、、先官の礼をもって景勝に上座を譲ろうとして譲り合いになってしまったという。結局秀忠の裁定で秀康が上座になったが、これを見た人々は秀康の礼節や謙譲の心の大きさに感心したという。"
"鉄砲を所持したまま江戸に向かおうとして、碓氷峠の関所で止められたが、秀康は自家が徳川家中で別格扱いであるのにそれを知らずにいた不届きな関守を成敗するとした。このため関守は懼れて江戸に伺いを立てたが、江戸の秀忠は、秀康に殺されなかっただけ幸いであったと言って事態は収まったという。"
"慶長5年(1600年)、家康が重臣たちに後継者を誰にすべきか質問したとき、本多忠勝と正信・正純父子らは秀康の後継を支持した。秀忠には大久保忠隣しか支持が無かったという。"
"伏見の馬場で馬を駆けさせていると、秀吉の寵臣が馬術を競うために秀康に馬首を並べて馬走した。秀康は「自分の許しもなく共駆けするとは無礼千万である」として無礼討ちした。しかし秀吉は秀康のこの行為を、「秀康の処置は天晴れである」と褒め称えたという。"
"家康と伏見城で相撲観戦していたとき、観客が熱狂して興奮状態になり騒ぎ始めた。すると秀康は観客席から立ち上がって観客を睨みつけた。その威厳に観客の誰もが驚き、騒ぎは一瞬で静まったと言われている。この秀康の威厳には家康も驚き「今日の見物ある中に、三河守(秀康)が威厳驚きたり」と述べたという。"
"秀康は天下三名槍の一つである鍛冶師義助の傑作「御手杵」を所有していたことでも知られている。養父・晴朝から譲られたこの槍は、槍身だけで全長210cm、穂先が138cmもあり、常人には振り回せないほど重く大きかったと言われている。"

●御手杵 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/御手杵
御手杵(おてぎね)ないし御手杵の槍(おてぎねのやり)は、「天下三槍」と呼ばれた名槍の1つ。室町時代に下総国結城の大名・結城晴朝が作らせ、その養嗣子・結城秀康(実父・徳川家康)に伝わり、秀康の五男で結城氏の名跡を継いだ直基の子孫、松平大和守家(前橋・川越松平家)が受け継いだ。駿河国嶋田の刀工、五条義助が鍛えた大身槍である。
・御手杵
御手杵(おてぎね)は、「天下三槍」と呼ばれた名槍の1つ。室町時代に駿河国嶋田の刀工、五条義助が鍛えた大身槍である。「お手杵の槍」とも呼ばれる。
越前松平家の祖となる
"秀康の子の5人の男子は徳川将軍家の御家門(越前松平家)となっており、現在も各子孫が続いている。"
"越前松平家は御三家などの序列とは別格の制外の家とされた。"
"なお、福井藩松平家・津山藩松平家の家格は、いわゆる親藩大名中でも高い。"

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幻の建造物「聚楽第」は黄金に包まれた巨大な城郭だったようです!
 
・尾道の道糞(どうふん)こと荒木村重!織田信長に謀反を起こして踏んだり蹴ったり!
https://yururito-sengoku.com/sengokubushiu/arakimurashige
織田信長が荒木村重に惚れた瞬間!有名な饅頭の逸話.
荒木村重と織田信長!…といえば、絶対にはずせないのが饅頭の逸話であります。
尾道,道糞,荒木村重,織田信長,謀反.
1570年前後の織田信長は、将軍・足利義昭に『信長包囲網』を敷かれ、大勢の敵を相手にしなくてはいけない…という大変な状況にありました。
けど、ワシ(信長)はこれらを順調に撃破していき勢力を拡大させていった!
そして1573年…、

織田信長は抵抗を続ける足利義昭と決着をつける為、軍勢を率いて上洛するのですが、この時、信長を近江逢坂で出迎えたのが荒木村重(と細川幽斎)でした。

荒木村重は上座に座る織田信長に謹んで平伏。
すると織田信長は、いきなり側に置いてある饅頭を刀の切っ 先に刺し
(信長)
食え。

と村重の前に差し出しました。

荒木村重(いきなり何?平伏したままで食えとかめっちゃ屈辱的…。)
といった状況ですが、村重はこれといって動じる事なくそのまま饅頭にかぶりついたので、信長は(日本一の大器なり。)
と感心し、村重に太刀を与えたのでした。

荒木村重の豪胆さを示すエピソードでもあるけど、織田信長のパワハラエピソードでもある。笑
 
・妻子一族を見捨てた「荒木村重」波乱の生涯 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2140713229764469501
一説には700人以上が皆殺しにされた、有岡城の悲劇をまとめました。
 
・豊臣家を滅亡へ導いた秀吉の子「小早川秀秋」 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2140696710847997001
 
・誰よりも生き延びた最後の戦国武将「宇喜多秀家」 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2146707621199914801

・「徳川四天王」功績まとめ - NAVER まとめ
https://matome.naver.jp/odai/2150120907545803501
徳川家康の創業を助けた徳川「四天王」の功績をまとめました。

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