縄文人の志葉楽さんのブログ

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●難波(なんば)●大阪

2020年06月28日 07時09分13秒 | 文化
●難波(なんば)●ミナミ●南地(なんち)●十三(じゅうそう)
★難波(なんば) https://ja.wikipedia.org/wiki/難波
大阪府大阪市中央区・浪速区の地域名称。または、中央区の町名。
★沿革
難波の地名の由来となった西成郡難波村は、もともと南船場・島之内・新町・堀江の一帯にあり、上難波村(南船場)と下難波村(他)に分かれていた。現在ではほとんど難波と認識されることのない南船場に、後述の難波別院・難波神社があるのはこのためである。大坂城下の拡張に伴い、上難波村はわずかに飛地を残す程度となり、下難波村は道頓堀以南へ移動となった。また、堀江の開発によって、木津川沿いの地域は西成郡西側町・材木置場として分割された。1700年、上難波村飛地を下難波村に編入し、難波村に改称された。

★「大坂」地名発生以前の大坂
https://ja.wikipedia.org/wiki/大阪#「大坂」地名発生以前の大坂
のちの「大坂」が位置する上町台地は、古代には「難波潟」と呼ばれる葦原の広がる湿地に突き出した半島状の陸地で、浪速(なみはや、なにわ)、難波(なにわ)、浪花(なにわ)、浪華(なにわ)などと書き表されてきた。
この地には、上代にはヤマト王権が遣隋使や遣唐使などの使節を送り出したり、返答使の迎接を行った住吉津や難波津が置かれ、運河難波の堀江が築かれた。また仁徳天皇の時代には難波高津宮、孝徳天皇の時代には難波宮、聖武天皇の時代には難波京(難波宮)が営まれ、都あるいは副都として機能した。律令制のもとでは都に置かれた京職に準じる特別の官署・摂津職によって管理された。
上代から奈良時代にかけて難波の地がこのように重要視されたのは、大阪湾が西日本の交通の要である瀬戸内海の東端に位置している上、難波高津宮、難波宮、以後の飛鳥古京・藤原京・平城京などから最も近い港湾であることによる。住吉津を管理する住吉大社は大和朝廷直属の社として別格であった。
難波津は土砂の堆積により外港としての機能が衰え、奈良時代末には神崎川河口の河尻泊(現在の兵庫県尼崎市)などに繁栄を一時譲る。しかし平安時代に淀川水系を利用して営まれた平安京が恒久的な都となったことから、、源氏渡辺氏によって難波津から渡辺津と名前を変え、瀬戸内海から淀川を通じて京都に通じる内港な水運の要衝として栄えたほか、北から淀川を渡り南の四天王寺や住吉大社、さらには熊野へと続く陸上交通熊野街道の起点な要衝としても栄えた。

★ミナミ    https://ja.wikipedia.org/wiki/ミナミ
大阪府大阪市中央区と浪速区、西区にまたがる日本最大の面積を持つ繁華街の総称。
島之内・道頓堀・難波・千日前といった地域に広がる繁華街の総称で、これらの地域が大阪市の中心業務地区である船場の南側に位置することや、大半がかつて存在した南区の区域にあたることからミナミと呼ばれている。
心斎橋は、船場と島之内を結ぶ橋梁名が由来であることからもわかるように、心斎橋筋に沿って船場側にも及ぶ地域名称であり、一概にミナミとは言えない。また、島之内側の心斎橋筋沿い、即ち心斎橋筋商店街は売買双方にとってステイタスエリアであり、ネームバリューの高い心斎橋をわざわざミナミなどと言い換えることも稀である。ただし、現行町丁名の東心斎橋は例外で、狭義では東心斎橋の歓楽街を指してミナミと呼ぶ程である。

★南地 - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/南地
南地(なんち)は大阪市の花街。
南地は、宗右衛門町、九郎右衛門町、櫓町、坂町、難波新地で構成され、これらを総称して南地五花街(なんちごかがい)と呼ばれていた。 江戸時代前期、道頓堀川南岸の道頓堀通の南側に芝居小屋が建ち並ぶと、それに随時して道頓堀通の北側に芝居茶屋が軒を連ねるようになった。

★十三 (大阪市) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/十三_(大阪市)
十三(じゅうそう)は、大阪府大阪市淀川区南西部、阪急電鉄十三駅周辺の地名。
地名の由来は、摂津国西成郡の南端を一条とし、北へ順次数えると十三条の場所に当たるという条里制に基づく説や、かつて当地に存在した中津川の渡しが淀川の上流から数えて13番目の渡しであったとする説など、諸説存在する。

★大阪の花街 - Wikipedia  https://www.wikiwand.com/ja/大阪の花街
大阪の花街(おおさかのはなまち)では大阪における花街の歴史について解説する。

★大阪五新地の歩き方 [今里・松島・滝井・信太山編] | Nostalgic ...
https://retro.useless-landscape.com/archives/2161
2019/12/04
今里新地は、昭和4年末に花街として産声を上げた。松島遊郭の移転をめぐって起きた事件、松島遊郭移転疑獄のすったもんだの末に開業したという何ともきな臭い歴史を持っている。       

★大阪の花街 - Wikiwand
https://www.wikiwand.com/ja/大阪の花街
大阪の花街(おおさかのはなまち)では大阪における花街の歴史について解説する。
概要
大阪には、江戸時代から新町、堀江、北新地、南地(現在のミナミ)の4つの大きな花街があり、昭和初期まで隆盛を極めていたが、戦後は大阪経済の低迷や後継者難などで凋落が続き、現在「花街」として辛うじて機能しているのは北新地と南地のみである。
大阪の花街の歴史
大阪における花街の歴史は京都の嶋原に模して作られた新町から始まる。商業の町として発展してきた大阪(当時は「大坂」と呼ばれた)には随時して非公認の花街が神社仏閣、芝居小屋の付近で誕生した。現在、北新地、南地の繁華街は江戸時代からの生き残りである。非公認の遊女のいた妓楼は「泊茶屋(とまりちゃや)」と呼ばれた。天保の改革などで複数の花街が整備され、明治に入って数箇所の花街を統廃合して松島遊廓が誕生し、大正に難波新地の火災により飛田遊廓が開設され、今里、住吉などの芸妓のみの花街が誕生していった。

★難波神社   http://www.nanba-jinja.or.jp/
■ 本社
  ご祭神 仁徳天皇
  配 祀 素盞嗚尊
反正天皇が大阪府松原市に柴籬宮を開かれたとき、父帝の仁徳天皇をご祭神として創建されたと伝えられる。
その後、天王寺区上本町に遷り、豊臣秀吉が大阪城を築城したのち天正年間(1583年)現在地に遷座。昭和20年(1945年)第二次世界大戦大阪空襲により全焼したため、仮宮によっていたものを昭和49年7月(1974年)再建され現在に至る。

★難波駅 - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/難波駅
難波駅
以下4つの難波駅(なんばえき)は、大阪府大阪市中央区・浪速区の近接地にある。
・難波駅 (南海) - 南海電鉄南海本線・高野線の駅。
・難波駅 (Osaka Metro) - 大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)御堂筋線・千日前線・四つ橋線の駅。
・大阪難波駅 - 近畿日本鉄道難波線(奈良線)・阪神なんば線の駅。
・JR難波駅 - 西日本旅客鉄道(JR西日本)関西本線(大和路線)の駅。

★なにわ     https://ja.wikipedia.org/wiki/なにわ
1 浪速
2 難波
3 浪花
4 浪華
5 なにわ
6 なみはや
7 関連項目
なにわ
・別読み:なみはや(転訛する前)、なには(歴史的仮名遣)
・漢字:難波(「なんば」の別読み)、浪速、浪花、浪華
・万葉仮名:奈尓波、奈仁波
漢字、万葉仮名は特に読み方が表記されていなければ「なにわ」と読む。

★難波京 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/難波京
難波京(なにわきょう、なにわのみやこ)は、古代日本において難波の地に設営された都城である。飛鳥時代に宮が設置された(前期難波宮)が、京の存在は確認できていない。奈良時代に設置された宮(後期難波宮)と合わせて京として実質を伴ったとする見解が有力である。

★難波宮跡公園(なにわのみやあと公園) | OSAKA-INFO
https://osaka-info.jp/page/remains-naniwa-no-miya-palace
大阪市中央区法円坂の一帯に広がっている史跡公園。昭和36年(1961)、大阪市立大学教授の山根徳太郎博士の発掘調査により、飛鳥から奈良時代にかけて前後2期の難波宮跡が確認された。現在では、宮殿の中心部とされる約9万平方メートル余りの範囲が国の史跡に指定され、史跡公園として整備がすすめられている。史跡は2種類の方法で示されていて、地表面より一段高くして、石造りで基壇を示すものが神亀3年(726)から造営された後期難波宮、一段低くして赤いタイルを敷き、赤い御影石で柱位置を示し、サザンカの生け垣をめぐらせているものが「大化改新」による難波遷都の後、白雉(びゃくち)元年(650)から造営が始められた難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)=前期難波宮となっている。また、公園の中央北寄りには、天皇が国家の公式行事をおこなう際に使用したとされる大極殿も復元されており、その上からは大阪城を眺望することができる。

★難波津 - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/難波津
難波津 (なにわつ、旧:なにはつ)とは、古代大阪湾に存在した港湾施設の名称である。現在の大阪市中央区付近に位置していたと考えられている。

★難波津 (和歌)   https://ja.wikipedia.org/wiki/難波津_(和歌)
難波津の歌(なにわづのうた)は、古今和歌集の仮名序で「おほささきのみかどをそへたてまつれるうた」として紹介されている、王仁の作とされる和歌。
・浪速区 - 区内の地域名である難波(なんば)との混同を避けるため、「浪速」表記が採用されている。

★仁徳朝に「咲くやこの花」|なんでも梅学 - 梅の月向農園
https://minabe.net/gaku/bungaku/sakuyakonohana.html
仁徳朝に「咲くやこの花」. 日本最古の漢詩集『懐風藻』(天平勝宝3年(751)成立)よりも、文献として成立した年代は遅れるが、 詩の詠まれた年代は『懐風藻』より古いとされているのが『古今和歌集・仮名序』。 その一節に、この短歌がある。
「難波津(なにはづ)に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」
王仁(わに)『古今集仮名序』
【通釈】難波津に、咲いたよこの花が。冬の間は籠っていて、
今はもう春になったので、咲いたよこの花が。


難波津・・難波の港。難波は大阪市及びその付近の古称。
この花・・「梅の花」を意味する。古今集仮名序に添えられた古注では、
編者の紀貫之が「梅の花を言ふなるべし」と注釈している。

★咲くやこの花館(さくやこのはなかん)https://www.sakuyakonohana.jp/
大阪市鶴見区の花博記念公園鶴見緑地内にある屋内植物園。日本最大の温室(延床面積6900m²)を有する。
熱帯から乾燥地帯、高山、極地圏までの、地球上の様々な気候帯に生育する植物を栽培展示している日本で最大の温室です。

★咲くやこの花賞    http://www.sakuya-konohana.com/
「咲くやこの花賞」は創造的で奨励に値する芸術文化活動を通して、大阪文化の振興に貢献し、かつ将来の大阪文化を担うべき人材(個人または団体)に対し、大阪市が昭和58年度から贈呈している。

★咲くやこの花賞 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/咲くやこの花賞
咲くやこの花賞(さくやこのはなしょう)は、大阪市が大阪から世界に文化人を発信し、また大阪文化の振興・発展を目指すために設けている賞である。

★心斎橋筋(読み)しんさいばしすじ
しんさいばしすじ ‥すぢしんさいばしすじ〔すぢ〕
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
大阪市中央区南西部を南北に通る街路。大阪の中心商店街をなし,東京の銀座に対応。地名は,島之内と船場 (せんば) を境して東西に流れていた長堀川に,寛文2 (1662) 年岡田心斎がかけたと伝えられる橋の名に由来。第2次世界大戦後,長堀川は埋立てられて道路 (地下は駐車場) となり,心斎橋も陸橋になっている。ここから南へ,戎橋 (えびすばし) までの間の街路で,デパートや服飾関係の老舗が多い。

★道頓堀(どうとんぼり)
大阪市中央部、中央区の道頓堀川南岸に沿う「ミナミ」の歓楽街。道頓堀川は、1612年(慶長17)平野(ひらの)郷の成安(せいあん)道頓が、許可を得て東・西横堀川を連絡して木津川に通じる運河の開削に着手。
 
★戎橋筋(読み)えびすばしすじ
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
大阪市中央区南部の繁華街路。道頓堀にかかる戎橋から南へ,南海電気鉄道難波駅までの間の街路で,北に続く心斎橋筋と一連の商店街をなし,ミナミ地下街 (通称「虹の町」) や難波地下センターとも結ばれる。衣料品店,装飾品店,飲食店などが多い。

★田辺聖子 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/田辺聖子
田辺 聖子(たなべ せいこ、本名:田邉 聖子、1928年3月27日 - 2019年6月6日)は、日本の小説家、随筆家、文芸評論家。
大阪府大阪市生まれ。淀之水高等女学校を経て樟蔭女子専門学校(現大阪樟蔭女子大学)国文科卒。恋愛小説などを中心に活動し、第50回芥川龍之介賞など数多くの文学賞を授与されている。文化勲章受章者。

★世界大百科事典内のミナミの言及
【大阪[市]】より
大阪府中央部にある府庁所在地。近畿地方のほぼ中央を占める大阪平野にあって,淀川河口の大阪湾岸に位置する。大阪の〈阪〉の字は,江戸時代まで坂を使うのが一般的であったが,明治以後阪に統一された。日本では東京に次ぐ経済力をもつ大都市で,西日本の地域経済活動の中枢をなし,大都市圏は大阪府下をはるかにこえて広がり,京都,神戸の都市圏と複合している。24の行政区からなり,市域の面積は212km2,人口260万2421(1995)。
【島之内】より
91年(寛政3)には大火のため全焼し,その後1845年(弘化2),58年(安政5),60年(万延1)にも市街地を焼失したが,そのつど復興した。船場を〈商いどころ〉というのに対し,島之内は〈粋どころ〉と称され,大阪ミナミの繁華街のもととなった。現在,中央区の中央部に町名島之内が残されている。
【道頓堀】より
現在は劇場の名称や上演内容も変わり,映画館,寄席,演劇場や,人形浄瑠璃文楽が興行され,また遊技場,飲食店などが集中している。千日前や難波(なんば)とともに大阪〈ミナミ〉を代表する歓楽街である。道頓堀橋,戎橋,太左衛門橋,相合橋,日本(につぽん)橋などが架設されている道頓堀川では,最近河水の汚染防止策がとられ,花壇や噴水を設けて盛場としての環境整備が進められている。

★岩おこし
いわおこし
デジタル大辞泉プラスの解説
大阪の名物菓子。米を原料にした板状のおこし。同じ原料で作られる「粟おこし」に比べて細かな挽き割り米を使っているため、隙間なく硬い食感。
★日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
糯米(もちごめ)を飴(あめ)で固めた菓子で、大阪名物。かちんと歯ごたえのある感覚から岩おこしの名がついた。創製は1752年(宝暦2)、道頓堀(どうとんぼり)二ツ井戸の「津の清(つのせい)」から売り出された。『守貞漫稿(もりさだまんこう)』には、「岩起売(いわおこしめ)、岩は剛堅をいうなり。大坂道頓堀西に津の国屋清兵衛もっぱらこれを製し、売りて今世名物となり、各月毎日所用の黒糖大約(おおよそ)二、三百斤、黒糖を用うることほぼ海内一とす」とある。原料は、アワ粒のようにひいた糯米、水飴(みずあめ)、黒糖だが、当初は粟(あわ)を用いた。[沢 史生]

★大阪(府)(読み)おおさか
大阪府
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
近畿地方の中央低地の西部にあり、北は京都府、東は奈良県、南は和歌山県、西は兵庫県に接し、南西部は大阪湾に臨む。古来、水陸交通の要地にあって、早くから先進地域をなし、現在も商工業が発達し、東の東京都と並び、西日本の中枢的地位を占めている。「大坂」の地名は、室町時代中期に石山御坊(のちの石山本願寺)を創建した蓮如上人(れんにょしょうにん)の『御文(おふみ)』にみえるのが最初で、古名は難波(なにわ)といった。「大阪」の字を用いるようになったのは江戸後期からで、明治以降行政地名となった。府の面積は埋立地造成により増加し、1988年(昭和63)には香川県を抜いて都道府県最下位を脱し、人口は東京都、神奈川県に次ぎ第3位にあり、人口稠密(ちゅうみつ)地域をなしている。面積1905.14平方キロメートル、人口883万9469(2015)。府庁所在地は大阪市。
歴史
近世
大坂の陣(1614~1615)で豊臣氏が滅亡した後は松平忠明(まつだいらただあきら)による戦後の復興が行われたが、忠明移封後は大坂は堺とともに江戸幕府直轄の天領となり、商都としての経営が進められた。ことに淀川の中之島(なかのしま)、堂島(どうじま)を中心に諸国各藩の蔵屋敷が設けられ、全国の米をはじめ特産物の集散が行われ、大坂は「天下の台所」と称された。巨利を博した豪商は、大阪平野の新田開発にも投資し、鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)の開発した鴻池新田をはじめ各地に新田の開発をみた。また文化面でも、西山宗因(にしやまそういん)、井原西鶴(いはらさいかく)、近松門左衛門などを輩出し、町人文化の華を咲かせた。
 地方では、交通路の整備が進み、守口、枚方などの宿場町、池田、佐野(和泉)の市場町、また特産木綿の集散地としての堺、貝塚、八尾(やお)、平野などの町々が発達した。幕府は摂津、河内、和泉の凝集力を恐れて分割統治を図った。在地大名領として明治の廃藩置県まで残ったのは、摂津の麻田藩(あさだはん)(1万石)、高槻藩(たかつきはん)(3万6000石)、河内の狭山藩(さやまはん)(1万1000石)、丹南藩(たんなんはん)(1万石)、和泉の岸和田藩(5万3000石)、伯太藩(はかたはん)(1万3500石)の6小藩にすぎない。そのほかは在外大名領(飛地(とびち)領)、旗本領、宮家・堂上家(公家)領、寺社領に細分割していた。[位野木壽一・安井 司]

★牡蠣船(読み)カキブネ
牡=蠣船
デジタル大辞泉の解説
1 カキを採取する船。
2 川岸に船をつなぎ、カキ料理を食べさせる屋形船。江戸時代に広島産のカキを積んでゆき大坂で供したのに始まり、道頓堀のものが有名。《季 冬》「―の薄暗くなり船過ぐる/虚子」
 
★日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
川筋に船をつなぎカキ料理を出す店。またその船をさす。とくに堂島川、道頓堀(どうとんぼり)川などでみられた牡蠣船は大阪の名物の一つであった。江戸中期ころ大坂に、安芸佐伯(あきさえき)郡草津村(現在の広島市)の小西屋五郎八が、養殖カキの販売を求めて進出したのが最初といわれている。そののち絶えていたのを同じ村の仁右衛門(にえもん)が再業するようになった。1708年(宝永5)に大坂で大火があったとき、カキ販売業者が救援に協力したので、その功によって大坂の諸川の岸に船をつなぎ止め、商いすることを許されたと伝えられている。江戸末期のようすは暁鐘成(あかつきかねなり)の『摂津名所図会(ずえ)大成』にみえる。それによると牡蠣船は浪速(なにわ)の処々の橋下にみられ、芸州草津の浦より20余艘(そう)、同仁保(にほ)の浦より15艘と、例年10月中旬に大坂に入津する。そしてなじみの所に船をつなぎ、川岸に小屋をつくり、カキを割って商いをする。その売り始めは10月20日ころである。なお、当時より船中でカキを調理し、汁やなますなどにしてもてなすことが流行したと同書に記されている。すなわち、当初は広島産のカキを割って売っていたのが、のちには船中に客を入れカキ料理を食べさせるようになったといえる。明治時代には客が桟橋を渡って船に入るようになっていたが、その入口で紺絣(こんがすり)に赤襷(あかだすき)をかけた娘たちがカキの殻を割る風景がみられた。当時は10月から大阪にやってきて、3月末になると船とともに広島に帰っていたが、のちには年中営業するものが多くなった。しかし、川の汚濁や臭気のため、年々その姿を消していった。[芳井敬郎]

★道頓堀角座 - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/道頓堀角座
道頓堀角座(どうとんぼりかどざ)は、かつて大阪市中央区の道頓堀にあった劇場、演芸場、映画館。
本項では、1652年[慶安5年/承応元年] - 2007年[平成19年]にあった「道頓堀角座」と、2013年(平成25年)夏から2018年(平成30年)7月22日にあった「松竹芸能 DAIHATSU MOVE 道頓堀角座」(しょうちくげいのう ダイハツ・ムーヴ どうとんぼりかどざ、略称:MOVE角座)について記述する。

★角座 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/角座
角座(かどざ)は、劇場、演芸場、映画館の名称。
劇場・演芸場
・角座 - 大阪市に存在した劇場。1652年(慶安5年/承応元年)開業。戦災で焼失後、1958年に松竹芸能の演芸場として再建。1984年閉鎖。道頓堀角座#沿革、道頓堀角座#演芸場(1958-1984)参照。
・B1角座 - 大阪市で2004年から2008年まで、松竹芸能が運営した演芸場。
・松竹芸能 DAIHATSU MOVE 道頓堀角座 - 大阪市で2013年から2018年まで、松竹芸能が運営した演芸場。
・新宿角座 - 東京都新宿区にある松竹芸能運営による劇場。2011年開業。
・DAIHATSU 心斎橋角座 - 大阪市で2019年に開業の、松竹芸能運営による劇場。

★絡繰り
読み方:からくり
別表記:カラクリ
機械や事物などが何らかの動力によって動作するときの、その仕組みやメカニズムを指す表現。

★から くり 【絡▽繰り・〈機関〉】
① 糸・ぜんまい・水などの動力を利用して、人形や器物を動かす仕掛け。また、その仕掛けを使った見せ物。
② 機械などの動く原理。また、仕組み。仕掛け。 「時計の-」
③ 計略。たくらみ。 「 -を見抜く」
④ 「からくり人形」の略。
⑤ やりくり。やりくり算段。 「 -の上手は内を能く見せる/柳多留 151」
★き かん -くわん 【機関】
① 種々のエネルギーを、機械的力または運動に変換することによって仕事をする機械・装置。蒸気・電気・水圧・油圧・熱・圧縮空気・原子力などの諸機関がある。原動機。発動機。エンジン。
② 国家・法人・政党その他の団体において、意思決定やその執行のために設けられた者または組織体。その行為は団体の行為とみなされる。 「議決-」 「執行-」
③ 特定の目的を達成するために作られた組織や施設。 「報道-」 「金融-」 「交通-」
④ 動くための仕掛けをもっている作り物。からくり。しかけ。 〔近世の中国の白話小説や洋学書に④ の意で用いられた。福沢諭吉「西洋事情」(1866~70年)に英語 engine の意としてある。② の意では、「英和対訳袖珍辞書」(1862年)に organ の訳語の一つとして載る〕
[句項目] 機関銃のように捲し立てる

★繰   隠語大辞典
読み方:からくり
くりまはしを為して、やりくり算段をすること。「-を為て商業を為ている」。「いろんな-をする」。

★からくり人形
知恵蔵の解説
自動的に動作する人形のこと。日本最古のからくり人形に関する記述は平安時代の『今昔物語集』に所収の、高陽親王(かやのみこ)の作った灌漑を促す機械人形の話にさかのぼる。欧米では、オートマタ(automata)と呼ばれる時計仕掛けの人形が存在し、紀元前のヘレニズム時代以前にまでさかのぼる。オートマタをベースに1801年フランスのジャカール(Joseph Marie Jacqurd)が開発したパンチカードシステムは、その後の自動制御技術やコンピュータープログラミングに大きな影響を与えた。岐阜県・高山祭のクライマックスを彩るからくり人形の作者としても名を連ねる「からくり儀右衛門」こと田中久重(1799〜1881)はその後、現在の東芝の前身となる製作所を設立しており、日本の機械技術がからくり人形に発することが見て取れる。

★竹田からくり
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
からくりの見世物。ぜんまい仕掛けや水を使って,人形や道具を動かす妙技を見せる。1世竹田近江が時計からくりを工夫し,寛文2 (1662) 年大坂道頓堀浜側でからくりの専門劇場「竹田の芝居」を創立。子供狂言や手踊りなどを添えて,安い料金で見せた。また,観客の種明かしを望む要求に応じ,『からくり訓蒙鑑草 (からくりおしえぐさ) 』 (1730) などの解説書を出版するなどして親しまれたが,明和5 (68) 年,4世のときに閉座。竹田からくりの機巧は,義太夫浄瑠璃に取入れられたほか,祭礼の山車人形などに残った。

★世界大百科事典内の竹田からくりの言及
【からくり】より
日本の機巧術が大きく発展するのは江戸時代のことで,日本の細工師たちはヨーロッパから渡来した機械時計にぜんまい,歯車,カム,クランクそして制御装置を目にし,これをもとに和時計をつくり,この時計技術を下敷きとして,からくりの夢を実現させた。竹田近江が考案した〈竹田からくり〉に代表される仕掛けものの人形芝居(竹田座)が盛況をみた江戸時代中期には,いっぽうで名古屋を中心に祭礼の〈屋台からくり〉が技術の粋をきそい,その遺品は今日では高山祭の〈竜神台〉や〈布袋(ほてい)台〉などの〈離れからくり〉にみることができる。いっぽう井原西鶴が〈茶をはこぶ人形の車はたらきて〉とよんで驚いた〈茶運(ちやはこび)人形〉に代表されるからくり人形も,江戸時代中期から精巧なものがつくられ,富裕な人々の玩具としてもてはやされた。

★機巧図彙 - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/機巧図彙
機巧図彙(からくりずい、きこうずい)は細川半蔵が1796年(寛政8年)に著したとされる和時計やからくりに纏わる書籍。この書籍を元に数多くのからくり人形が復元された。
和時計やそれに使用されていたぜんまい仕掛けや脱進機等の機構を応用したからくりに関して書かれている。日本における古典的な機構学の原典とも言える書物で、欧米以外で著された工学関係の書物としても資料的な価値がある。特に茶運び人形に関しては等速制御機構や入出力応答等の自動制御の原理を組み込んでおり、今日の技術立国の源流であるとの見方も散見される。
首巻、上巻、下巻の三冊から成る。首巻では掛時計、櫓時計、枕時計、尺時計の時計4種類、上巻では茶運人形、五段返、連理返のからくり3種類、下巻では龍門滝、鼓笛児童、揺杯、闘鶏、魚釣人形、品玉人形ののからくり6種類について解説している。

★義太夫節(ぎだゆうぶし)
浄瑠璃の一流派。創流者竹本義太夫に由来する名称。原則として,1場を1人の太夫が語り,1人の三味線弾きが伴奏する。太夫は1人で多くの人物を語り分ける。義太夫節の三味線は邦楽各流で最も大きく,太棹といわれ,まれに箏や胡弓を伴う。時代物は5段,世話物は3段が普通の形で,地,詞,節で構成される。竹本義太夫は作者近松門左衛門と提携,従来の古浄瑠璃のもつ中世的語り物性を後退させ,近世的演劇的要素を濃厚にし,当時数多くあった古浄瑠璃各派を集大成して,一流を編出し,貞享1 (1684) 年道頓堀に竹本座の旗揚げをした。以来人形芝居の伴奏音楽は義太夫節が圧倒。元禄 16 (1703) 年,門弟の竹本采女が独立して豊竹若太夫を名のり豊竹座を創設。地味な西風といわれる竹本座に対し,はなやかな東風といわれる芸風で対抗,双方刺激し合い全盛期を現出した。その後,次第に歌舞伎に押され,作者の独創性も乏しくなり,新作も少くなった。竹本座,豊竹座も興廃を繰返し,現在では寛政 (89~1801) 年間に植村文楽軒によって創始された文楽座のみが遺存したため,「文楽」という名称が,人形浄瑠璃芝居の総称となった。人形浄瑠璃は約 100本の狂言を伝え,重要無形文化財とされている。素浄瑠璃で行われたり,歌舞伎が人形浄瑠璃のものを上演する場合も多い。

★浄瑠璃(じょうるり)デジタル大辞泉の解説
1 仏語。清浄で透明な瑠璃(青金石)。また、清浄なもののたとえ。
2 語り物の一。室町中期から、琵琶や扇拍子の伴奏で座頭が語っていた牛若丸と浄瑠璃姫の恋物語に始まるとされる。のちに伴奏に三味線を使うようになり、題材・曲節両面で多様に展開、江戸初期には人形操りと結んで人形浄瑠璃芝居を成立させた。初めは金平(きんぴら)・播磨(はりま)・嘉太夫(かだゆう)節などの古浄瑠璃が盛行。貞享元年(1684)竹本義太夫が大坂に竹本座を設けて義太夫節を語り始め、近松門左衛門と組んで人気を博し、ここに浄瑠璃は義太夫節の異称ともなった。のち、河東・一中・宮薗(みやぞの)・常磐津(ときわず)・富本・清元・新内節などの各流派が派生した。浄瑠璃節。

日本音楽の一種目。平曲(へいきょく)・謡曲・説教などを源流とした語物(かたりもの)。現代では三味線を伴奏に使い、台詞(せりふ)と旋律によって物語を進めていく音曲(おんぎょく)の総称。義太夫節(ぎだゆうぶし)の異称でもある。 [執筆者:倉田喜弘]

★心斎橋筋(しんさいばしすじ) https://ja.wikipedia.org/wiki心斎橋筋
大阪市中央区南部を南北に通じる街路。大阪府大阪市中央区の町名。
または船場・島之内を南北に縦断する道路。
現行行政地名は心斎橋筋一丁目及び心斎橋筋二丁目。
心斎橋から南へ戎(えびす)橋に至る約750メートルをいう。
慶長(けいちょう)年間(1596~1615)には伏見呉服(ふしみごふく)町から道頓堀(どうとんぼり)へと移っていたものが、元和(げんな)~寛永(かんえい)初年(1620前後)に現在の西区新町1丁目付近へ ...

★すり、スリ    https://ja.wikipedia.org/wiki/すり
スリ(英語: pickpocketing、pickpocket)
他人の懐などから金品などを気づかれないようにかすめとる行為、またそれを行う者のこと。
行為には「掏摸」、行う者には「掏児」の字を当て、読みはどちらも「スリ」。
別称として「巾着切り」(きんちゃくきり)
すりのことを上方(かみがた)などでは「ちぼ」とよび、『摂陽奇観』には大坂・道頓堀(どうとんぼり)、島之内あたりをちぼ4人が騒がした記事が出ており、当時、市中にすりの出没したことがわかる。

★千日前      https://ja.wikipedia.org/wiki/千日前
大阪市中央区の南部、道頓堀(どうとんぼり)と難波(なんば)に隣接する大阪の代表的繁華街の一つ。千日前一丁目、二丁目の町名がある。江戸時代は大坂の市街地の南端で、刑場や墓地の並ぶ土地であった。 ...
★宗右衛門町    https://ja.wikipedia.org/wiki/宗右衛門町
「そえもんちょう」ともいう。大阪市中央区日本橋(にっぽんばし)北詰から戎(えびす)橋までの道頓堀(どうとんぼり)北岸の歓楽街。町名は江戸時代の町年寄山ノ口宗右衛門に由来する。 ...

★難波(なんば)  https://ja.wikipedia.org/wiki/難波
大阪市の中央区、浪速(なにわ)区にわたり、南海電気鉄道難波駅一帯の地。隣接する道頓堀(どうとんぼり)、千日前(せんにちまえ)とともに「ミナミ」と称される繁華街をつくる。

★人形浄瑠璃 基礎知識 - 人形浄瑠璃街道|関西人形浄瑠璃
https://bunraku.or.jp/about/index.html
人形浄瑠璃文楽は、日本を代表する伝統芸能の一つで、太夫・三味線・人形が一体となった総合芸術です。その成立ちは江戸時代初期にさかのぼり、古くはあやつり人形、そののち人形浄瑠璃と呼ばれています。竹本義太夫の義太夫節と近松門左衛門の作品により、人形浄瑠璃は大人気を得て全盛期を迎え、竹本座が創設されました。この後豊竹座をはじめいくつかの人形浄瑠璃座が盛衰を繰り返し、幕末、淡路の植村文楽軒が大阪ではじめた一座が最も有力で中心的な存在となり、やがて「文楽」が人形浄瑠璃の代名詞となり今日に至っています。

★文楽 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/文楽
文楽(ぶんらく)とは、人形浄瑠璃文楽のこと。大阪で成立し本拠地とする人形浄瑠璃の系譜。
1955年に(人形浄瑠璃文楽座の座員により演ぜられる)文楽が文化財保護法に基づく重要無形文化財に指定された。2003年ユネスコ「人類の口承及び無形遺産に関する傑作の宣言」、2008年「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」への掲載、そしてユネスコ無形文化遺産保護条約が発効した2009年9月の第1回登録であらためてユネスコの無形文化遺産に登録された。2019年現在、公益財団法人文楽協会を公演団体とし、大阪市の国立文楽劇場と東京の国立小劇場を中心に公演を行っている。

★「張子の虎」の意味と使い方は?類語・英語表現も解説 | TRANS.Biz
https://biz.trans-suite.jp/21235
2019/04/15
かつて、ドラマのタイトルとしても使われたことのある「張子の虎(はりこのとら)」とは、元々は首が動く虎のおもちゃですが、ことわざとして使われる場合はどのような意味を持つのでしょう。その詳しい意味と使い方を紹介します。「張子の虎」の類語や英語訳についても触れていますので、あわせて参考にしてみてください。

★寄席 - Wikipedia    https://ja.wikipedia.org/wiki/寄席
寄席(よせ)とは、日本の都市において講談・落語・浪曲・萬歳(から漫才)・過去に於いての義太夫(特に女義太夫)、などの技芸(演芸)を観客に見せる興行小屋である。
落語などを上演する小規模な常設演芸場。「よせ」とは「寄せ場」の略語であり、「人を寄せる場所」という意味である。江戸後期の『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』には「人をよする故なり」と記されている。要するに大ぜいの人々を寄せ集めて、落語、講談、浪花節(なにわぶし)(浪曲)、漫才(まんざい)、奇術などさまざまな大衆芸能を興行する場所であり、「寄席」の字をあてているが、単に「席(せき)」とよぶこともある。
『意味』
ただ頷いている人の例え
『類語』
見掛け倒し、羊頭狗肉、大言壮語
・羊頭狗肉 【読み】 ようとうくにく - 故事ことわざ辞典
羊頭狗肉とは、見かけと実質がともなわないことのたとえ。 立派なものをおとりに使い、実際は粗悪なものを売ることのたとえ。
【注釈】 「狗肉」とは、犬の肉のこと。
羊の頭を看板に掲げながら、実際には犬の肉を売ってごまかすことから。
『無門関・六則』に「羊頭を懸けて狗肉を売る」とあるのに基づく。
また、『晏子春秋』には「猶牛首を門に懸けて馬肉を売るがごとし」とある。
【出典】 『無門関』
【注意】 「羊頭苦肉」と書くのは誤り。
【類義】 看板倒れ/看板に偽りあり/牛首を懸けて馬肉を売る/牛首を門に懸けて馬肉を売る/玉を衒いて石を売る/羊質虎皮/羊頭を掲げて狗肉を売る/羊頭を掲げて馬脯を売る/羊頭を懸けて狗肉を売る/羊頭を懸けて馬肉を売る
【対義】 看板かくれなし/看板に偽りなし/言行一致
・大風呂敷を広げる【類義】大言壮語 - 故事ことわざ辞典
【出典】†【注意】†【類義】大言壮語【対義】†【英語】†【例文】「威勢よく大風呂敷を広げていたが、
◆目次
1 「張子の虎」とは
1.1 「張子の虎」は香川の名産、首が動く虎の工芸品
1.2 「張子」は「虎」以外にだるまや赤べこも有名
1.3 ことわざとしての「張子の虎」は「ただ頷いている人」のたとえ
1.4 「張子の虎」には「見掛け倒しの人」という意味も
2 「張子の虎」の使い方
2.1 「張り子の虎」はネガティブな意味合いで使われる
2.2 大阪など関西では端午の節句に縁起物として飾ることも
3 「張子の虎」の類語
3.1 「見掛け倒し」などが「張子の虎」の類語
3.2 四字熟語では「羊頭狗肉」や「大言壮語」が類語に
4 「張子の虎」を英語にすると?
4.1 英語で「張子の虎」は「paper tiger」と表現する
5 まとめ




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