縄文人の志葉楽さんのブログ

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●サンカ 漂泊の民  秀吉  家康 と 役行者

2020年09月11日 14時35分41秒 | 日本人の気質
●サンカ 漂泊の民  秀吉  家康 と 役行者
天皇との関わりとか外国とかとの関わりを著わす人も出てくる。
サンカとも サンガとも言われている。
固有文字を持っていたとかいないとか胡散臭いものは沢山有る。
アイヌからの流れとも言う人が居る。
民族として最低の集落として最少人数でこうしていたと学説には言われているようだ。
石器時代 縄文時代などは 最低限の手段であっただろう。
学者の中で仲良く生活するには 五人いたら十分。
なにかの時は 集まって色々したみたい。
人は五人だと 二対二になった時 一人がついた方の意見で決めていく。
これ以上の 人数が集まると 大事なときは良いけど 決めるのは少人数がやりやすい。
学者の人はそう言っています。
日本は楽しい。
アメモバーで 油団(ゆとん)とが キーワードとして上がっていた。
 
★油団(ゆとん)。それは、江戸時代に生まれた「科学で解明できない」夏の快適グッズ   2019/08/14
https://sunchi.jp/sunchilist/sabae/64743
福井県鯖江「紅屋紅陽堂」の職人に聞く、夏を涼しく過ごすエコアイテム
大人になると夏休みも数えるほど。外に出かけてゆくのも楽しいですが、ただ寝そべって涼む時間も贅沢だなと思う今日この頃です。
天然素材の「涼感マット」?
その名は「油団 (ゆとん) 」。エアコンなどの電化製品の普及とともに姿を消しつつありましたが、近年のエコ意識の高まりで、改めて注目されるようになった暮らしの道具です。
 
★サンカ (山窩)(民俗学)- Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/サンカ
日本の山地や里周辺部で過去に見られたとされる不特定の人びとを指す言葉である。
その言葉が指し示す範囲は、時代や使用者によって大きく変わり、語義を明確にすることは難しい。
漢字では「山窩」、「山家」、「三家」、「散家」などと表記される。ポン、カメツリ、ミナオシ、ミツクリ、テンバ(転場)など、地方によってさまざまに呼ばれた不特定の人びとの総称として用いられることが多い。
定住することなく、山間を移動しながら生業に携わる生活形態をとることがほとんどであり、人別帳や戸籍に登録されないことも珍しくなかった人びとであったとされている。
それぞれの呼称は、「ホイト」、「カンジン」など、特定の芸能を指す言葉と併用されることも多かった。
その生業や生活形態は多岐にわたり、また、必ずしも非定住であったり無籍だった者だけを指す言葉ではなかった。
その実態を「サンカ」という同一の語で表現することは、実態に即しておらず、はなはだしく無理がある。
山里周辺部のさまざまな生業について論じる際にも、「サンカ」という言葉を用いることは合理的ではない。

★サンカ(山窩)を考える - 自然の中へ そして心の中へ!
http://www.kumanolife.com/History/kenshi1.html
まずはじめに
サンカ(山窩)に対する想いを、Webページにするにあたり、僕の拙い知識と文章で掲載することに戸惑いがありました。しかし、あまりにもサンカ(山窩)に関する情報が少なく、戦後生まれにおいては、その存在すら知らない人が殆どだと思います。それは意図的な山窩隠しが、国家側によるものなのか、あるいは自らの手によるものかは分かりませんが、明らかにおこなわれてきた結果 だと思います。僕としてみれば、この行き詰まった状態にある今の地球にあって、自然を愛して共生する、自発的貧困ともいえる質素で簡素、素朴な生活を送り、本当の豊かさを知り、自由で誇り高く、弱者に対して慈しみの精神を持った山窩の生き方こそ、現在の日本に光りをそそぐ生き方だと思っています。山窩を知る人達の中には多少綺麗事だと云う人もいるかも知れません。確かに犯罪を犯したりヤクザになった人達もいたでしょう。明治から昭和へと加速度的に物質的豊かさを求めた時代の中、その質素で被差別 的な生活を嫌い、瀬降りを捨て一般社会に溶け込み、物質的豊かさを追い求めた人達もいたでしょう。しかし、ヤクザの中にも一般 に溶け込み何代か経て、山窩の流れを汲む意識も自覚も無く普通に暮らしている人達、また政治的、経済的、社会的に成功した人達、また周辺から差別 された処において生活している人達の中に、今も山窩の魂は生き続けていると思いたいのです。ですから魂よ蘇れと云う思いで掲載するに至りました。僕は民俗学を学んだこともなく、また研究者といえるほどのこともありません。ただただ山窩の真実が知りたくて、自分なりに調べ、感じ、思ったことを書いたにすぎない旨を汲んで頂けたらと思います。なにぶん若輩者ですので随時書き直しをすることがあると思いますが、ご了承下さい。

★柳田國男のサンカ思想 発行年2014-03-25 日本思想史研究 著者油座 圭祐
file:///C:/Users/asahi/AppData/Local/Temp/0386-8974-2014-46-52.pdf
一、序
柳田國男の思想においてサンカとはいかに位置づけられるのか、これを明らかにするのが本論考の目的である。明治四十一年に行われた九州旅行、その旅の途上での椎葉村の発見が若き農政官僚柳田國男に平地とは一線を画す山の習俗への関心を喚起し、後の「後狩詞記」、「石神問答」、『遠野物語』といった初期柳田学への道行きを用意したことはよく知られている。

★日本人と日本文化の形成  https://irdb.nii.ac.jp/en/01342/0002276964
1. 古代の日本と渡来の文化 / 上田 正昭 文化の重層性 朝鮮の道教 道教の流伝
2. 日本文化における南北構造 / 中西 進 「北」の詩人たち 反措定としての「北」 表象としてのサケ
3. 飛鳥・白鳳仏と渡来系工人 / 久野 健 飛鳥・白鳳仏の制作者 第一類に属する仏像 第二類に属する仏像 第三類に属する仏像 制作者からみた白鳳仏
4. アイヌ語とオーストロネシア語 / 村山 七郎 略号 オーストロネシア系と見られる若干のアイヌ語単語 幹収縮の問題 アイヌ語及び中央カロリン語の抱合的動詞活用
5. 日本語の系統とオーストロネシア語起源の地名 / 崎山 理 従来の「南方語」語源地名説 オーストロネシア語族の渡来と地名形成
6. 高句麗・新羅・百済語の数詞と日本語 / 塚本 勲 数詞一と單 数詞三 彡 数詞八 数詞六 数詞九 数詞十 数詞二 数詞四
7. アイヌ風俗の和人社会における受容・模倣について : アットゥシ衣を中心に / 大塚 和義 津軽・下北における様相 蝦夷地における和人の様相
8. 東南アジア・オセアニアの犬祖説話 / 大林 太良 カラング型 癩病型 漂着型 洪水型 親孝行型 文化史的位置づけ
9. 縄文のカミのイメージ / 小山 修三 縄文のイコン 民族考古学による手がかり ヒト 土偶のつかわれかた ヘビ 具象と抽象:アボリジニ社会の例 情報としての文様 ツルツル、ピカピカ ヘビの意味するもの 土着のカミ

★『上記』(うえつふみ)ウエツフミとは? - ウガヤフキアエズ王朝実在論
https://ugaya.jimdofree.com/%E3%82%A6%E3%82%AC%E3%83%A4%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E3%81%A8%E3%82%A6%E3%82%A8%E3%83%84%E3%83%95%E3%83%9F%E3%81%A8%E3%81%AF/
「上記」「上つ記」「上紀」「上津文」
 それは、豊国文字という神代文字で書かれた「神話」であり、
 わが国の成立過程を記述した膨大な「歴史書」でもあり、
 さらに古代文明の記憶が満載された「百科事典」でもあります。
※ウエツフミにはいろいろな表記方法があるので、このサイトではカタカナで統一します。

★古史古伝『上記』 - 古代ジパング探求   古史古伝『上記』(うえつふみ)
http://www.plan.gr.jp/kodai/koshi01.htm
●特徴
全文が豊国文字と呼ばれる神代文字で書かれている。内容、文体などから判断して『古事記』との関連が深い。天文、暦制、薬学、医学、産業など古代生活科学に関する記事も多く載せられている。
●サンカとの関係
『上記』はサンカ(日本のジプシーといわれた漂泊の山の民集団)の伝承と極めて類似している。さらに、豊国文字とサンカ文字も類似性が認められる。
また、大友能直に文字と歴史を盗まれたという伝承が山の民の一部にあるらしい。これらのことから、『上記』は山の民の文書といえよう。

★カタカムナ文献と山窩(サンカ) - 自然の中へ そして心の中へ!
http://www.kumanolife.com/History/katakamuna.html
六甲山中での不思議な出会い
戦時中、一部の産業界や軍部から天才科学者と評価されていた楢崎皐月という人物がいました。その楢崎皐月が戦後、才能を高く買ってくれていた星製薬社長の星一氏の依頼で、当時の食糧難と将来に備えた農業技術の開発という名目で研究を始めることになりました。そこで、助手の青年数名と一緒に六甲山系・金鳥山に入り六十日余りの穴居生活をしながら研究をしていたろころ、穴居の扉をドンドンと叩く者がいました。楢崎皐月が出ていくと、初老の猟師が鉄砲を持って立っていました。猟師は「山に何しに来た。お前さんたちが泉に妙なものを仕掛けるから、森の動物たちが水を飲みに行けなくて困っておるのじゃ。すぐに除けてやってくれ。あそこは動物たちの水飲み場なんじゃ」と訴えるのでした。それは楢崎皐月たちが泉に電線を張り巡らせて水の成分も分析していたからでした。翌朝、楢崎皐月たちが電線を外すと、その夜に再び猟師が現れました。「お前さんたちは感心な人たちじゃ、穴居しなければ本当のことは分からんものじゃ。これは、すぐに外してくれたお礼じゃ」といってウサギを1羽くれたといいます。

★(山窩)サンカ文字
https://fuushi.k-pj.info/5-anc/5h-genngo/5h-genngo-a7.htm
サンカ(山窩)と云うのは差別語であることを最初に断っておく。
ミカラワケヤヨロヅノモノハコビ(身殻別八万物運)が正しい呼び方で、
時にはテンバモノ(転場者)と自称する。
彼らは、生活場所を転々と移動するため、浮浪者と間違われることが多いが、
明確な違いが幾つかある。
1つは、誇り高い古部族であると云うこと。
2つには、天の群雲の剣を写したという、ウメガイという両刃の山刀を持つこと。
3つには、グミ材で作られたテンジン(天人)と呼ぶ自在鉤を用いること。
4つには、ヤエガキという厳しい掟に従って暮らしていること。
などである。

★山窩(サンカ)とは何か  名称の由来
http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-23.html
 サンカは散家、山稼、山家などとも書かれ、民間では箕作り・箕直し・テンバモン・カワラコジキ・ポン・ノアイ・オゲ・ヤマモンなどと呼んでいた。
 山窩という名前は、明治維新後に警察によって作られた言葉であるといわれる。
 「山の窩(あな)にひそむ盗賊」くらいの意味であろう。
 漂泊民をあたかも犯罪者集団と見た名残がある。三角寛は、ながく山窩と表記してきたが、サンカには大きく三つの仕事の系列があることから、三家と書くのが適当ではないかと言っている。
 ルポライターの朝倉喬司も別の角度から、やはり三つの家で三家ではないかという説を立てている。
 四国高松地方で三界に家なき者のことをサンカまたはサンガイというのと同じだとか、ジプシーの故郷といわれる西インドのサンガタの住民サンガニに語源を発するとかという説もある。
 異端の歴史家矢切止夫は、大和朝廷は海からやって来て平地に棲(す)みつき、原日本人は、山でサンカとなり、海で海人(アマ)となったとことから。
 原日本人は山海族であり、サンカは山海なのだと言っている。
 サンカは自分自身を関東ではナデシ、関西ではケンシ、ショケンシ(世間師)、ケンタと呼ぶが、これは、Gypsyという言葉が外部からの呼称で彼ら自身はRom(人間という意味)と呼んでおり、Eskimo(生肉を食う人)がInuit(人)の蔑称であることと似ている。

★Mさんの記事を読んで - 行政調査新聞  2009/06/04
http://www.gyouseinews.com/p6_dokushatoukou/dokusya2009060401.pdf
本紙5月号記事でお伝えした「『最後のサンカ』の孤独死と、預金を勝手に引き出す東松山市職員!」。
“最後のサンカ”であったMさんに対し、東松山市が「殺人的」ともいえる扱いをしたあげく、Mさんの預金を勝手に引き出し、彼女の死後は市が勝手に遺産分配していた事件を報じた。
この記事をお読みになった「東松山の一市民」様からご投稿を戴いた。
以下にご紹介する。
(改行のみ本紙。原文まま)Mさんの記事を読んで始めまして。
私は東松山市在住の一市民です。いつもインターネット行政調査新聞を拝見させて頂いています。
最近、何かと東松山市の醜態がさらされていますが、今回も「またか」といったところです。
官製談合、リーマンブラザーズ、配食サービスと話題が尽きない我が東松山市ですが、今、私は「坂本市長は何をやっているんだ。」と叫びたいです。
今回の記事のサンカと呼ばれるMさんの話には、痛く切ない気持ちにさせられました。
一人寂しくコタツにもぐって寝ていたのでしょう。
信頼できる人も少なく、役所の人間を半強制的に信用させられていたのではないのでしょうか。このようなことを考えさせられました。
また、東松山市が法的手続きもふまずに市民の通帳を管理し、財産分与まで行うという、まるで弁護士気取りの職員の行動は、正気の沙汰ではありません。
このようなことを落ち度無く手続きをして、間違いなく行うことが行政でなければなりません。

★【資料】 サンカ(山窩)とは http://asyura.com/sora/bd3/msg/468.html
1999 年 9 月 11 日
明治以降明らかにされた時点では、川筋伝いに村から村へと渡り歩き、主に蓑つくり、笊(ザル)つくりなど竹を主原料とする製品を作り、農家で穀物と交換する、といったことで生計を支える、関東以南から九州までをテリトリーとする漂白集団だった。定住しないため、テントをもって移住し、一夫婦と子供で一家族六~七人、五家族くらいの単位で共同歩調をとった。
サンカの語源はいろいろあるが、サンケチ(三つの職掌区分)からきたとする説もある。サンカ自身は自分たちをセブリ、(テントの意味、一セブリ=同居する家族)セブリモノなどと呼ぶといわれる。
・ミツクリの一(カミ)(蓑つくりの総領)
・フキタカの一(笛つくりの総領)
・エラギの一(遊芸の総領)

★漂泊の民 サンカとの出会い (2011.6.11)
http://teikoku-denmo.jp/history/honbun/nanboku4-5.html
第二の明治維新(21世紀平成IT維新革命)・漂泊の民 サンカとの出会い ~みんなに伝えておきたいサンカのこと。
以下に記すものは、インターネット歴史作家兼構成作家の地家ヤスマサ氏(G氏)より、ホームページへの公表・掲載を依頼されたものです。先回同様、今回も私は以下の内容について一切検証せず、地家氏の文章をそのまま掲載しており、内容の真偽等については、読者の皆さん一人一人の判断に委ねたいと思っています。尚、以下の文章は、私の筆によるものではありませんので、ご質問には一切お答え致しかねますし、ご批判の類に対しても一切の責を負いかねます事を予め表明させて頂きます。
竹下義朗

★私はサンカ系?
https://academy4.5ch.net/test/read.cgi/min/991634884/
1 :孤児:2001/06/04(月) 15:08
私の出身は三重の藤原・鈴鹿山脈の麓のです。
町名が「さざらい」というのですからサンカでしょうね。
親族は長身で色白で毛深く日本人離れしているので、
昔から、私は変な視線をを受け育ち、母は結婚差別を
受けたとか(内容は語らない)。下の記述はその根拠と
なるでしょうか?
.....

★サンカ手袋の編図と編み方 - たた&たた夫の編み物入門
http://tata-tatao.to/knit/sanquhar/howtoknit.html
・謝辞
サンカ手袋の編図を作成するにあたり、ニットデザイナーの佐藤ちひろ氏より、所蔵のサンカ手袋をお借り致しました。貴重な手袋を快くお貸しいただいた佐藤ちひろ氏に対して、この場を借りて心よりお礼申し上げます
・この手袋作成に必要な技術
きわめて細かい編み込みに加えて、狭い部分での細工が多い手袋です。この作品を完成させるには技術と根気の両方が必要です。通常の手袋をすでに編んだことがあり、新しいものにチャレンジしてみたい中級・上級者向けの作品です。この手袋はゲージが密で極めて暖かく、三角柱に編んだ指は指を締め付けず、パターンの流れはどこからどこまでつながっていて、とても実用的で美しい手袋です。

★山窩(サンカ・サンガ) : 皇統と鵺の影人検索キーワードダイジェスト集
https://jiyodan.exblog.jp/11543632/     2009/07/17
元々の列島の先住民・蝦夷(えみし/縄文人)は調和の民で、自然と調和し互いに調和して暮らしていた。
そこへ破壊混乱の氏族が武力を持って征服に来た。
この時から、まったく違う価値観を持った氏族と良民(民人)・(賎人)、つまり破壊混乱の氏族と調和の民が同居する二重国家体制の日本列島が徐々に形ち作られて行く事に成る。
日本人は、原日本人系縄文人と比較的後期の渡来系との同化二重構造の中で、混血が今でもまだ続いている。

★三角寛 - Wikipedia    https://ja.wikipedia.org/wiki/三角寛
三角 寛(みすみ かん、みすみ ひろし、1903年(明治36年)7月2日 - 1971年(昭和46年)11月8日)
小説家、山窩(サンカ)作家、映画館経営者。本名は三浦守。僧名は釈法幢。
・サンカ研究
三角による山窩(サンカ)に関する研究は、現在でも多くの研究者が資料とするところだが、実は彼の創作である部分がほとんどであり、小説家としての評価は別として、学問的価値は低い。
これはその後、多くの研究者により虚偽であることが証明された。
よって、三角によるサンカ資料は、三角自身による創作小説と見るのが適当である。
三角は当時、自分以外の者がサンカについて言及・研究すると激しく抗議し、サンカ研究を独占していた。
・家族
妻は三角よしい。長女の寛子は舞踏家の林寛枝。婿養子(寛子の夫)は映画評論家の三浦大四郎。孫に日本舞踊家の林千永。曾孫に歌舞伎俳優の市川弘太郎。

★サンカ    https://ja.wikipedia.org/wiki/サンカ
サンカは、日本にかつて存在したとされる放浪民の集団である。本州の山地に住んでいたとされる。サンカの定義については後述のように激しく論争されてきた。サンカという呼称は日本の警察による便宜上のものであり、差別用語としても使われる。
漢字では「山家」「山窩」という字があてられるが、「山にひそむ盗賊」の意味。
かつて日本列島で箕(み)作りや竹細工、川魚漁などを生業とした漂泊民のこと。1950年代末に消えた。

★51.戸籍を持たない「日本国民」~日本のジプシー「サンカ」
http://teikoku-denmo.jp/history/honbun/sanka.html
皆さん(日本国民のあなた)は「戸籍」を持っていますか? こう言うと、「バカ言うなよ。誰だって戸籍があるに決まっているだろう!!」と思われるでしょう。でも、日本には「日本人」でありながら、「日本人の戸籍」を持たない人々が存在したのです。と言う訳で、今回は「戸籍を持たない日本人」について触れてみたいと思います。
戸籍を持たない日本人。「サンカ」(「山窩」、「山家」等と表記)と呼ばれる「彼ら」は街場(里)に住む我々(里人)とは違い、北は青森の下北半島から、南は鹿児島の大隅半島に至る日本列島の脊梁山脈や高地を移動し、「山」を生活の場として、何と二千年もの間、里人と共存してきました。「彼ら」は日本人でありながら、「主食」の米を食さず(非農耕)、「せぶり」と呼ばれる天幕で雨露をしのぎ、山野を自由に漂泊し(非定住)、常に体制(国家)に所属しません(非服属)でした。言わば、日本版「ジプシー」とでも言いましょうか。こんな「もう一つの日本人」がいたなんて・・・と驚かれた方もおありでしょうが、正真正銘、「彼ら」は「実在」したのです。

★『役小角』: 舎人学校   2007/04/11
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2007/04/post_8e85.html
今回取り上げる『役小角』も『覇王不比等』同様に黒須紀一郎氏の作品です(ちなみに、役小角は「えんのおづぬ」と読む)。
前回、『覇王不比等』の最後の方で取り上げた「くずもん」を代表する人物こそが役小角ですが、役小角が『日本書紀』に登場することは一切なく、『日本書紀』の編者は役小角をはじめとする「ぐすもん」の存在を故意に隠そうとしたことが分かります。
しかし……。
『日本書紀』は、巻第二十八のすべてを費やして、壬申の乱を事細やかに記している。そして、その狙いは、大海人の決起が決して反乱などではないことを強調することにあった。
それともう一つ、小角の率いる賀茂の民参戦の隠蔽である。
『日本書紀』に記載された壬申の乱のどの箇所にも、役小角もしくはそれを思わせる一族の名はない。
しかし、僅かに痕跡を留めた箇所は、幾つかある。
いくら『日本書紀』の編者が隠そうとしても、これだけの大乱を詳述してしまえば、どこかに綻びは出てしまうものである。
『役小角』第二部 p.243

★柳田国男のサンカ論
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/nihonshinwaco/izumoootyoco/onico/sankaco/what.html
(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、サンカについて確認しておく。日本史の裏の流れを知る為に必要と気がついたからである。「ウィキペディア・サンカ (民俗学)」、「サンカ(山窩)とは」、「51.戸籍を持たない「日本国民」~日本のジプシー「サンカ」 (1999.4.7)」、「家康サンカ説・八切史学概説・信長考・真書太閤記考、その他」、「サンカ(山窩)を考える」、「サンカについて語ろう」等を参照しつつ、れんだいこ史観で纏める。今後、更に書き込みして行くことにする。
 2011.01.30日 れんだいこ拝
戸籍を持たない「日本国民」~日本のジプシー「サンカ」 (1999.4.7)」、「家康サンカ説・八切史学概説・信長考・真書太閤記考、その他」、「サンカ(山窩)を考える」、「サンカについて語ろう」等を参照しつつ、れんだいこ史観で纏める。 ... アイヌの人々と沖縄の人々が、人類学的にも分析でも、「縄文人に近くて近縁関係にある」と証明されてはいるが、 ... 大平洋戦争が始まる以前から、日本を知る為に、国の成立から天皇制、被差別 民の成り立ちまで、綿密に歴史を研究 ...

★サンカ 島唄 - 阿修羅 掲示板
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/1628.html
投稿者 島唄 日時 2011 年 5 月 10 日
・日本の歴史を背景にした「サンカ」である筈はなく、あの男の顔は大和民族では有り得ず、あの軽薄さといい加減さは半島特有。
http://www.asyura2.com/0505/senkyo11/msg/283.html
投稿者 救国の草莽の志士 日時 2005 年 8 月 10 日 16:16:10:
・現代日本とサンカ
http://www.asyura2.com/07/social4/msg/373.html
投稿者 野田隼人 日時 2007 年 5 月 13 日 16:54:33
・【八切史観】天皇とサンカの関係・アラブ世界とユダヤ、日本との関係 (日本には3名の「天皇」がいる)
http://www.asyura2.com/0401/bd33/msg/567.html
投稿者 ジオン兵士 日時 2004 年 2 月 05 日 10:05:00:
・“鬼とは何か‥‥天領と”
http://www.asyura2.com/0601/test12/msg/489.html
投稿者 あー、もとサンカところて…ん偽皇太子コーヒー噴いた 日時 2006 年 9 月 19 日 06:52:52
サムライさんから出口王仁三郎がサンカではなかったかという話が出てきた。
何度かは話題にしたことがあるが、このサンカの存在すら知らない人が多いと思う。また、本当のところを誰も明らかにしていない。「漂浪の民、サンカ」、と聞いた時にはなぜか大きなロマンを感じ、ネットや本でそれらを探したものである。結局、一番真実に近いと思えたのは八切止夫氏だった
彼は名古屋出身で、しかも住んでいたのが中心部、中区の本重町だった。彼はなんと、サンカに預けられて育ったのだと言う。主に、庄内川などの堤防沿いで暮らし、川で魚をつり、竹篭などを売り歩き生活をしていたのだとか。
いったい彼等が発生した原点とはなんだったのか。八切氏によれば、百済が日本を支配した時、原住民やそれまでの支配者である新羅の人民は時の政府に服従することを拒否し、山へ逃れ、自由な生活を営むようになったと言う。従って、サンカの発生はおおむね7世紀あたりという事になる。

★超私的秀吉考(その1)。 | アンダンテでゆこう! - アメブロ  2020-04-21
https://ameblo.jp/hibiyukai/entry-12591188721.html
『秀吉は村長の子か、それとも…。』
秀吉は山家(山窩 サンカ)だった.
とか言う説もある。
また村長の倅という説も。
どうやら村長の倅の方が有力。
百姓というのは本来農民の事ではない。
百の姓、色んな職業の総称だ。
いわば民衆ぐらいの意味だろう。
その村の姓を束ねるのが村長で
いわゆるお侍様と民衆の繋ぎ役でもある。
蜂須賀小六ら川並衆とも
村長の家に居たのなら
ある程度顔見知りだったのではないか?

★日本神話 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/日本神話
日本神話(にほんしんわ)とは日本に伝わる神話のことである。
・おたく
・サンカ

★擬産という通過儀礼・サンカ(山か) - お産の民族学 - babycom
https://www.babycom.gr.jp/birth/min/min8.html
擬産という通過儀礼・サンカ(山か)。出産は女性にとって、人類学では通過儀礼と言われている。通過儀礼とは、本人が自分のそれまでのアイデンティティーを卒業して、新しいアイデンティティーを獲得するためのものでもあり、周囲に ...

★★山窩ことサンカと茶筅と転場(隠れ切支丹編)
http://tokumei10.blogspot.jp/2012/06/blog-post_5587.html
■山窩(サンカ)
漢字では「山窩」、「山家」、「三家」、「散家」などと表記される。ポン、カメツリ、ミナオシ、ミツクリ、テンバ(転場)など、地方によってさまざまに呼ばれた不特定の人びとの総称として用いられることが多い。

★読書日記 疑 史(第37回) アヤタチとサンカ(3)   2008/08/04
http://2006530.blog69.fc2.com/?mode=m&no=574
 山窩には本来のものと、誤って山窩と呼ばれているものがあると、前月は述べた。上田伝承を始め、山窩に関する種々の伝承を論理的に整合させた上での結論であるが、従来の観念を大きく変改する内容なので、いま少し敷衍したい。前月号と重なる部分については、宥恕を乞う次第である。

★サンカ(山窩)のルーツは創世記のヘテ人 その1 | ハムレットの水車小屋
https://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/304.html   2011/11/1
エデン(Garden of Eden)から一つの川が流れ出ていた。園を潤し,そこで分かれて,四つの川となっていた。第一の川の名はピションでハビラ地方全域を巡っていた。第二の川の名はギボンでクシュ地方全域を巡っていた。第三の川の名はチグリスでアシュルの東の方を流れており,第四の河はユーフラテスであった。<創世記・Genesis2:10~14>

★サンカ(山窩)のルーツは創世記のヘテ人 その2 | ハムレットの水車小屋
https://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/305.html   2011/11/05
我という人の心は ただひとり われよりほかに しるひとはなし
連載はあと3,4回ほど続きます。非常に難解な内容です。でも理解するようにつとめてください。伊勢神宮を天皇家が避けているというようにイスラエル(ユダ族)とヘブライ人国家日本との根深い対立を理解するためにもなぜサンカを成り上がらせたのかを理解するまで。
(ソロモン王の母親はヒッタイト人でサンカは古代ヒッタイトの先住民族......それがどうした,ですか?イスラエル(ユダ族)と田布施の朝鮮人の呼ばわりされたサンカが明治以来一本の糸となりヘブライ人国家日本を崩壊させようとしていることを今記事にしているのですよ,はい。させようとしている........すでにそうなっていますね。すべて杓子定規な官僚制度が温もりのない社会の原因であり自殺者は南伊豆町と下田市が毎年毎年消えてなくなっているのと同じです。本当はもっと多いのでしょうね。心があれば許されることも絶対に許してくれないのです。タイでは小さなワイロ(カーナムチャー)は認められております。乾いた雑巾をさらに絞るようなシステムじゃ終わりですよ。もうこの国は人間の住むところじゃあないですね。二重,三重課税の相続で一家離散に追い込む。いわゆる骨肉の争いとなって,ね。平和な家族もそれで終わってしまうのです。いわゆる資産の継承ができないのです。マヤ暦が終わっても何も起こらないと思いますが相続税のない国に永住する方がいいかもしれませんよ。)

★サンカ(山窩)のルーツは創世記のヘテ人 その3 | ハムレットの水車小屋
https://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/306.html    2011/11/11
読者から教えていただいたニュートンはアマゾンで50円で買えました。この本は買われた方がいいでしょうね。今のサンカシリーズは読者とともに古代神代文字を考察するのが目的ですから一緒に考えていきましょう。そうでないと一人よがりになってしまいますからね。

★八切史学の古代日本王朝史考  2009.11.29日 れんだいこ拝
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/yamataikokuco/yagirishigakuco/kodaiotyoshico.html
「家康サンカ説・八切史学概説・信長考・真書太閤記考、その他」を転載しておき、後日検証する。
最近、読者からの質問が増えてきました。八切説の出典は何かと聞かれます。勿論、先生は膨大な史資料を読破して、考えて
考えて書いております。「家康は世良田徳川の出身だった」には、出典が明記されておりますが、ここでは家康関係の史料について少し紹介します。
尾張徳川家書物奉行が、代々受書を出して、名古屋城幅下三の丸の書庫で厳重保管されていた、門外不出の
『源神史巻・重代記』と、この中の『章善院目録』を見せて貰い、家康が二人いたという事が判ったと書かれております。又、村岡素一郎の『史疑徳川家康』も参考にはしたが、これは労作ではあるが『後三河風土記』よりの引用が多すぎる。ともあります。
これは贗本ですから史料ではありません。興味のある方は「家康は世良田徳川の出身だった」(日本シェル出版)を是非読んで理解を深めて頂きたいと切望します。以下に会議室の発言を紹介しますが、一部重複と、順不同をご容赦願いたい。

★山の民サンカ(山窩)と五木寛之「風の王国」
http://earthlife.jugem.jp/?eid=64
サンカ(山窩)とは、川魚や山の幸などを狩猟採集しながら、
季節に応じて日本の山の中を放浪生活していた人々のことです。
セブリ(瀬降り)といわれ、独自のテントを張って生活することもあり、
竹細工で農作業に使う箕を作ったり直したりして里の人とも交流があったそうです。
日本が急速に近代化される中でも戸籍を持たず、
昭和に入ってからもその生活スタイルを続けていたといわれています。
私はアイヌ関係の本の中で、このサンカという人々の存在をはじめて知りました。
日本の原住民といわれる縄文人は、大陸からの渡来人である弥生人に住むところを奪われ、
山間部や東北、北の大地へと追いやられていったという歴史がありますが、
一説ではアイヌは縄文人の末裔とも言われています。
そして、このサンカと呼ばれる人々もアイヌと同様に原日本人だという人もいます。





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