わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

生命のながれ

2011-08-01 10:35:54 | 癒し
 生命(いのち)のながれというものは、
実に悠々とした、それでいて穏やかな
流れであります。

 それは、我々のいのちの源である大生命が、
全く愛とゆるしにみちた寛やかさそのもので
あるからであります。

 この寛やかさのなかに入ること、それが
信仰でありまして、信仰とは、大生命の流れに
入り切って、神様の愛の光を浴びるということ
なのであります。

 愛というものは、これはもう理屈では
ありません。抱きしめて抱きしめて、そうして、
その一人びとりのいのちの流れを見守っている。
 これが神様の愛、宇宙の大元を保っている
調和の源なのであります。

 で、この愛の光と申しますものは、すべて
我々のいのちの中に入っている。我々は肉体で
生きている、身体が動いて心臓が動いて生きて
いると思うけれども、実は、その奥底は、
神様の愛の光によって生かされている生命
なのであります。

 神様の愛念が、私どもに及ばなければ、
この指の一本だって動きはしない。神様に
隷属する生命だというのではなく、とてつもなく
寛やかなほがらかな神の愛の光が、私どもを
生かしめ、動かせているということなので
あります。

 何故なら、私どもは、神様の子供なんだから。
 分生命(わけいのち)であり、
分御霊(わけみたま)なんだから。分かりますか?
 私どもは、神様の光の一筋なの。私達の
ふるさとは神様なんです。私達の親、両親は
神様なんだ。で、この神様という方はね、人間が、
地上で暮す為に身につけた肉体を、自分自身だと
思いまちがえて、その為に、いくつもの苦しみや、
あやまちを何億回くり返して来たことをようく
知っているんですよ。だから、何とか、お前達の
帰る所はここだよ、こっちこっちと
まねいてまねいて、導いて、本体は決して
迷いも疑いも何にも無いひかり輝く生命だ
ということを知らせる為にね、その為に、
わたくしが来たんです。その為に世界平和の
祈りを下さったんです。

 世界人類が平和でありますようにって
祈りましょう。あの世界人類が・・・の祈り言をね、
口にしますと、それはそのまんま、我々の本心、
本体、我々の持っている、宇宙までずっと
しみとおって、その奥のからだ(悟っている、
分かっているからだ)と、我々の肉体が唱和する。
 そうすると、肉体は、普段は我にとり囲まれて、
がんじがらめになっているものですけれども、
世界平和の祈りのような、すべてをずーっと
浄めてゆく、そういう祈り言にすっぽり包まれる
ことによって、その肉体をおおっている我が
浄まるんです。

 そうしますとね、この我ってものはですね、
我々が何十回、何百回、何千回生まれかわって
身につけて来た、いうなら、現世にいたるまでの
魂のアカですわね、それが浄まるってことは、
それは、過去世が浄まるってことなんですよ、
分かります。皆さんは、五井昌久っていう、
私という人間にここでこうして会って、
世界平和の祈りに出合うその為に、ずーっと今まで
苦労をして来たんですよね。御苦労様でした。
 だけどね、過去世を浄めて、そうして、今、
皆さんはここにこうして現在生きてる訳でしょ。
 それじゃ、何の為に過去世を浄めるかというと
ですね、それは、神様の受け器として、皆さん
一人ひとりが、持ち場持ち場で十分に働いて
いただくその為なんです。

 だから、世界平和の祈りというのは、過去世
ばかりじゃなく、現在につながって、我々を
本当に生かしめてゆく祈りなんです。

 じゃあ、現在、現在が過ぎればどうなるんだ
ということですけれども、私がいつも申して
おりますようにね、生きかわり死にかわりじゃ
ないけれど、我々のこのいのちというのは、
永遠でしょ。生き通しのいのちですよね。

 だから、向こうへ行っても修行がある。何の
為の修行かというと、素になる為の修行ですよね。
 そのまんま、ありのままに自分のいのちを
よろこび、他人(ひと)のいのちをよろこび、
自然にとけ入り、草木にとけ入り、空にとけ入り、
ね、神様のいのちの一部なんだということを
よろこぶ。よろこべる、そうなる為の修行が
ありますよね。 人間というのは、ずっとずっと
進化してゆくわけだから、そして、向こうへ
行ってもね、その進化した分、光が強くなって、
それが愛となって、地上にふりそそぐわけ。
 その愛のエレベーターが世界平和の祈りですよ。

 ですから、世界平和の祈りは、過去現在未来を
つらぬいている大きな深い祈りなんです。そして、
決してうばわれることのない本心本体の光明は、
宇宙の兄弟たち、そうして、大神様につながって
いますから、我々が、今ここで唱える祈りは、
宇宙に鳴りひびいて、この身このままで、
生命のながれのなかにもう抱きとられて
いるわけです。よろしゅうございますか?

 それではどうもありがとうございました。

     昭和63年1月14日 午前
                五井 昌久