道というのは、色々な種類がありますね。
一本道、三さろ、人生の別れ道なんてね、
別れの一本杉という歌がありましたけども、
一本ということでいえば、あれも一本で
立ってるわけね。で、杉の元々はというと、
生命でしょ。わたくしがいつもいっている波動、
光ですよね。
で、いつもいっておりますように、人間
というのは、この世にも、人間界にも、幽界
にも霊界にも、神界にも、自分というものが
存在しているわけですね。
そうして、それぞれが波動でできている。
そうすると、元々が光である我々、神の
分御霊(わけみたま)である我々に、何も
「道」なんぞというややっこしいものは、
なくてもいいように思う、ねえ。
車が走るから、車道があるでしょう。
運転席をおりて歩けば、今度は
歩道ですわね、まあ、これは、今、皮相的な
説明をしたわけで、たとえば、習い事
にしても、茶道があり、華道があり、書道が
あって、なんか、我々人間のおもい、人の
おもいとして、「道」という言葉にすがって
生きているようなところがある。これは
間違いですか?と、今、私の話をきいて
いる人の中には、気の早い人がいて、
答えを先どりしたような顔なすってる方も
二、三ここから見受けられますけども、
間違いじゃあない。
じゃあ、どうして、何でもかんでも「道」
という言葉をつけるんだろう。もっというと
「─道」とつくと、ありがたいような、尊敬
したいというか一寸あおぎみるような
心持ちになるのは何故なのかと申しますと、
それは、人間というものは、何か
よりどころとするものがなくては生きて
ゆけない存在だということなのであります。
もちろん、茶華道といったって、そんなに
気を入れて、たずさわっている人ばっかり
じゃあないでしょうし、又、「道」というものが、
人間の心の奥底で、それを意識させる
ことによって「よりどころ」となっている
ということを自覚して、たずさわって
いる人は実に少ないのであります。
そこで、今日は、このよりどころということと、
「道」のおはなしをしようと思いますが、では、
「よりどころ」=「道」かというと、これも、
微妙にちがうものなんですね。ちがうもの、
といいますのはね、今、わたくしが申しました
「よりどころ」というのは、あくまでも、人間の
私たち一人びとりの心の側からみた
「よりどころ」なんで、これは決して、
神様の方からのおもいじゃないんです。
人というのは、弱い、苦しい存在ですから、
何か、神様神様と普段思っていてもね、祈って
いても、どうしようもないことにぶつかると、
神様も何だけれど、もっと確かなものが欲しく
なる。たとえば、苦しい時に人がそれを
みていてくれる。あるいは、病気で苦しんで
いる時に、手をにぎってくれる。これらは、
その辛い目にあっている人たちからしますと、
何よりも、確かなよりどころですね。人の手の
ぬくもり、なぐさめ、これ以上確かな、現在、
味わうことの出来るよりどころはないわけです。
けれども、つねにいっておりますように、
「すべては消えてゆく姿」なのでありまして、
よいことも、わるいことも、すべて、すぎ去って
ゆくものなのであります。
それは、どうしてかというと、生き徹してゆく
一人一人の本体(たましい、霊体)が一段一段
階段を上るためなんです。ここのところを
忘れたり、間ちがえたりしますと、楽しい時は、
どうして早くすぎて、辛い、苦しい時間は
どうしてこうも長いのだろうとため息を
つくことになるわけ。そこで、これは、
「よりどころ」真実、真理に通じるものでは
ないわけです。何も、私はここで、苦しんでる
人をなぐさめるのは、真理に遠いなんていう
つもりは毛頭ありません。そうではなくて、
辛いことは勿論ですが楽しかったことでも、
いつまでも、その瞬間にこだわっていますと、
いつしかそれが執着になる。とらわれの
おもい。人間の発する想念というものになる
わけなのです。
そこで、整理してみますと、それじゃあ、
そういう人の想いとしての行為、よりどころ
と思って、我々の心がみんなすがってゆく
ぬくもりなどを、永遠のものではない
としますと、何の為に、「道」というもの、
「道」とよばれるものが、我々の前に与えられて
いるのかということになろうかと思います。
先程、茶道華道というものを、この話の
導入として申しました。で、結論から先に
いますとね、本来、「道」と名がつけば、
それが、習い事であっても芸事であっても、
それは、人間が神様の子どもになる
そのための修行の場に行かされているんだ
といっていいんです。
『中庸』に道についての孔子の言葉が出て
きますわね、「人、道に遠きは」とか何とか
むずかしいことがかいてあるけれども、
要するに、我々の日常生活の一瞬一瞬の
中に、道(人がおこなってゆく道)というと、
ややこしいか。
つまり、生き方というものはあるんだという
ことがかかれています。
神様というのは、遠い遠い所にいるのでは
なくて、みんなの眼にはみえないけども、もう
光になって、充満しているわけ。みなさん
一人一人の心の中に、ちゃあんといらっしゃる
わけです。イエスが、みんな一人一人が
神の宮なんだということを言って
いましょう? ね、あれと同じなんです。
けれども、イエスも申しましたように、現代
という時代は、まことにやっかいなことに、
「しるし」を求める時代ですよね。御免状
なんてね。
で、あまり「寄り道」をしますと、こんがら
がってはいけませんから、手短かにいいますと、
この道というのは、わたしどもが真理の階段を
上るための一つの姿として、あらわれとして
あるのであります。つまり、どんな「道」も、
それが華道であっても茶道であっても、そこに
加わるということは、大神様が、守護霊
守護神が、働かれて、しらずしらずの間に、
私どもの本体である「光」をかがやかす
ためのものなのであります。
そうして、これは、何もお茶やお花や、書を
やっている人だけとは、勿論かぎるものでは
なくて、私たちの心の奥に、人間として
生まれた以上は、何か一つことを
やり遂げたい。根を張って生きてゆきたい
という思いが、たとえば、誠実に生きるなら、
誠実に生きるということを生涯の目標として
かかげることも、神様につながる道に
つながることなのです。つまりは、この
神様につらなるための手段(方法)として、
万人にその人となりの「道」があり、これを
通じて、真のよりどころである完全円満の
世界、大神様への世界につながってゆく
というわけでありまして。人が辛い時に、
手のぬくもりを求め、そこから、何かしら
かわらないものを求めて、各々が「道」に志す。
で、これを我々はいつか「よりどころ」だと
思って生きるわけですが、実はもう一つ奥に、
この「道」を手段とした宇宙神という
真のよりどころ、永遠に目ざすべき
私どもの道があるわけであります。
それでは、当日はこれで。どうもありがとう
ございました。
一本道、三さろ、人生の別れ道なんてね、
別れの一本杉という歌がありましたけども、
一本ということでいえば、あれも一本で
立ってるわけね。で、杉の元々はというと、
生命でしょ。わたくしがいつもいっている波動、
光ですよね。
で、いつもいっておりますように、人間
というのは、この世にも、人間界にも、幽界
にも霊界にも、神界にも、自分というものが
存在しているわけですね。
そうして、それぞれが波動でできている。
そうすると、元々が光である我々、神の
分御霊(わけみたま)である我々に、何も
「道」なんぞというややっこしいものは、
なくてもいいように思う、ねえ。
車が走るから、車道があるでしょう。
運転席をおりて歩けば、今度は
歩道ですわね、まあ、これは、今、皮相的な
説明をしたわけで、たとえば、習い事
にしても、茶道があり、華道があり、書道が
あって、なんか、我々人間のおもい、人の
おもいとして、「道」という言葉にすがって
生きているようなところがある。これは
間違いですか?と、今、私の話をきいて
いる人の中には、気の早い人がいて、
答えを先どりしたような顔なすってる方も
二、三ここから見受けられますけども、
間違いじゃあない。
じゃあ、どうして、何でもかんでも「道」
という言葉をつけるんだろう。もっというと
「─道」とつくと、ありがたいような、尊敬
したいというか一寸あおぎみるような
心持ちになるのは何故なのかと申しますと、
それは、人間というものは、何か
よりどころとするものがなくては生きて
ゆけない存在だということなのであります。
もちろん、茶華道といったって、そんなに
気を入れて、たずさわっている人ばっかり
じゃあないでしょうし、又、「道」というものが、
人間の心の奥底で、それを意識させる
ことによって「よりどころ」となっている
ということを自覚して、たずさわって
いる人は実に少ないのであります。
そこで、今日は、このよりどころということと、
「道」のおはなしをしようと思いますが、では、
「よりどころ」=「道」かというと、これも、
微妙にちがうものなんですね。ちがうもの、
といいますのはね、今、わたくしが申しました
「よりどころ」というのは、あくまでも、人間の
私たち一人びとりの心の側からみた
「よりどころ」なんで、これは決して、
神様の方からのおもいじゃないんです。
人というのは、弱い、苦しい存在ですから、
何か、神様神様と普段思っていてもね、祈って
いても、どうしようもないことにぶつかると、
神様も何だけれど、もっと確かなものが欲しく
なる。たとえば、苦しい時に人がそれを
みていてくれる。あるいは、病気で苦しんで
いる時に、手をにぎってくれる。これらは、
その辛い目にあっている人たちからしますと、
何よりも、確かなよりどころですね。人の手の
ぬくもり、なぐさめ、これ以上確かな、現在、
味わうことの出来るよりどころはないわけです。
けれども、つねにいっておりますように、
「すべては消えてゆく姿」なのでありまして、
よいことも、わるいことも、すべて、すぎ去って
ゆくものなのであります。
それは、どうしてかというと、生き徹してゆく
一人一人の本体(たましい、霊体)が一段一段
階段を上るためなんです。ここのところを
忘れたり、間ちがえたりしますと、楽しい時は、
どうして早くすぎて、辛い、苦しい時間は
どうしてこうも長いのだろうとため息を
つくことになるわけ。そこで、これは、
「よりどころ」真実、真理に通じるものでは
ないわけです。何も、私はここで、苦しんでる
人をなぐさめるのは、真理に遠いなんていう
つもりは毛頭ありません。そうではなくて、
辛いことは勿論ですが楽しかったことでも、
いつまでも、その瞬間にこだわっていますと、
いつしかそれが執着になる。とらわれの
おもい。人間の発する想念というものになる
わけなのです。
そこで、整理してみますと、それじゃあ、
そういう人の想いとしての行為、よりどころ
と思って、我々の心がみんなすがってゆく
ぬくもりなどを、永遠のものではない
としますと、何の為に、「道」というもの、
「道」とよばれるものが、我々の前に与えられて
いるのかということになろうかと思います。
先程、茶道華道というものを、この話の
導入として申しました。で、結論から先に
いますとね、本来、「道」と名がつけば、
それが、習い事であっても芸事であっても、
それは、人間が神様の子どもになる
そのための修行の場に行かされているんだ
といっていいんです。
『中庸』に道についての孔子の言葉が出て
きますわね、「人、道に遠きは」とか何とか
むずかしいことがかいてあるけれども、
要するに、我々の日常生活の一瞬一瞬の
中に、道(人がおこなってゆく道)というと、
ややこしいか。
つまり、生き方というものはあるんだという
ことがかかれています。
神様というのは、遠い遠い所にいるのでは
なくて、みんなの眼にはみえないけども、もう
光になって、充満しているわけ。みなさん
一人一人の心の中に、ちゃあんといらっしゃる
わけです。イエスが、みんな一人一人が
神の宮なんだということを言って
いましょう? ね、あれと同じなんです。
けれども、イエスも申しましたように、現代
という時代は、まことにやっかいなことに、
「しるし」を求める時代ですよね。御免状
なんてね。
で、あまり「寄り道」をしますと、こんがら
がってはいけませんから、手短かにいいますと、
この道というのは、わたしどもが真理の階段を
上るための一つの姿として、あらわれとして
あるのであります。つまり、どんな「道」も、
それが華道であっても茶道であっても、そこに
加わるということは、大神様が、守護霊
守護神が、働かれて、しらずしらずの間に、
私どもの本体である「光」をかがやかす
ためのものなのであります。
そうして、これは、何もお茶やお花や、書を
やっている人だけとは、勿論かぎるものでは
なくて、私たちの心の奥に、人間として
生まれた以上は、何か一つことを
やり遂げたい。根を張って生きてゆきたい
という思いが、たとえば、誠実に生きるなら、
誠実に生きるということを生涯の目標として
かかげることも、神様につながる道に
つながることなのです。つまりは、この
神様につらなるための手段(方法)として、
万人にその人となりの「道」があり、これを
通じて、真のよりどころである完全円満の
世界、大神様への世界につながってゆく
というわけでありまして。人が辛い時に、
手のぬくもりを求め、そこから、何かしら
かわらないものを求めて、各々が「道」に志す。
で、これを我々はいつか「よりどころ」だと
思って生きるわけですが、実はもう一つ奥に、
この「道」を手段とした宇宙神という
真のよりどころ、永遠に目ざすべき
私どもの道があるわけであります。
それでは、当日はこれで。どうもありがとう
ございました。