わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

人類は光みちた世界の住者へ

2011-06-20 11:26:47 | 癒し
心は
どんなところにでも
おりてゆく
どんな世界の住者にもなる
怒れば怒りの世界へ
ほほえめばほほえみの世界へ
祈れば祈りの世界へ
瞬時に私達は
さまざまな世界を
駆けめぐっている
その心を
澄ませてゆくのが
統一行
たゆまざる祈り
消えてゆく姿で世界平和の祈りを祈るとき
私も
人類も
ほんとうに
平和になって
光みちた世界の住者となってゆく
祈りは人を
おだやかにし
平和にする
そして
そのとき人は
本当に
自分のいるこの世界が
神の愛念と
守護霊守護神にみちびかれて
光明につつまれていることをしるのだ
今まで
自分を嫌悪し
他人を嫌悪し
この世に生きることの
辛さや苦しさだけに
とりかこまれていた
この世界が
愛にみちた世界へとかわってゆく
それはあなた方一人一人のなかに
光があることをしるからだ
「クリスマス・キャロル」の
精霊に導かれたスクルージのように
「青い鳥」の帽子のダイヤモンドを
まわしたチルチルのように
しずかに祈るとき
光があなた方を導き
光があなた方のなかにあることを
しるのだ

祈り一念の生活をなさって下さい

2011-06-19 10:42:16 | 癒し
この世を生きて
ゆく上で
一番大事なことは
自分を愛し
自分を赦す
ということです
自分を赦す
ということがなければ
他人と生きることは
できません 
厳格に理想を追求しても
自分自身の弱さを認め
やわらがせる
ということがなければ
長つづきしないんです
もともと
人間は凡夫なんだ
この肉体人間というものは
どうしようもなく弱いものだ
ということを認めて
弱い自分を
すっかり神のなかに返してゆく
世界平和の祈りのなかに返してゆく
そして
任せて
新しくしてもらう
ということが大事なんです
人間は
一瞬一瞬
つねにあたらしく
されているものですけれど
迷いや
こだわりの多い
肉体人間の思いグセを
なくしていくには
消えてゆく姿で世界平和の祈り
これしかないのであります
こだわる自分がいる
迷う自分がいる
それを
ああこれは消えてゆく姿だな
過去世の業がこれでもって
消えるんだな
守護霊さん守護神さん
ありがとうございます
神様ありがとうございます
と祈り一念でやってゆくと
いつの間にか
きれいになるんです
そして
光でいっぱいになるんです
それを
ああ私はまたやってしまった
とクヨクヨしてたんじゃ
いつまでたっても
自分を愛することも
赦すこともできない
自分を愛し
また
自分を赦し
というのは
決して
自分を甘やかすことじゃないんです
そんな次元の問題じゃありません
なぜかというと
私がいつも申しておりますように
人間は神の分生命(わけいのち)
分霊(わけみたま)であって
その根元は
大愛の大円光なのであります
現世のように
俺が俺がの世界でもなければ
この人の立場はたてることができたけど
今度はあの人がたたなくなった
どうしよう
どうしよう
とそんなことでくずれるものではないのです
人間というものは
そんなとるに足らないことで
あっちがどうしたこっちがどうした
というもんじゃない
それらは
神の愛の前には
みんな消えてゆく姿なのであります
そして私どもは
この愛を
からだいっぱいにうけて
この世に生きているのであります
いうならば
愛の光
ゆるしの光
このからだいっぱいにつまっている
もうゆるすもゆるさないもない
そういう朗らかないのちを
私どもは生きているのであります
そしてそれが人間の本当の姿
なのであります
このことを
世界平和の祈りを行じて参りますときに
私どもは
実にはっきりとしらされる
のであります
みずからが
光であり
永遠であり
久遠のいのちと
ひとつにとけあって
なおその白光を
かがやかすために
生きているのだ
ということを
私どもは
こころにしらされるのであります
自分を責め裁くところからは
この世界は展開して参りません
なぜなら人は
想念の世界に住む者だからであります
ですからすべてのおもいを
神に返して
祈りのなかで
つねに神を
よびながら
自分自身の心をみがき澄ませ
本心の開発と進化を心がけてゆくこと
こそが
何よりも大事なことになってくるので
あります
どうぞ世界平和の祈りのなかで
神を呼び祈り一念の生活を
なさって下さい
それではどうもありがとうございました

      平成2年2月28日~3月1日

人というものは無限にむかっている

2011-06-18 10:32:38 | 癒し
生命がけで
祈ってゆく
それほどの決意で
世界平和の祈りを祈ってゆくときに
光が
つよめられ
まごころが
ひろがるのです
肉体が
神の光と
愛を
とおす
器であって
人というものは
無限にむかっている
ものだということを
私達は自覚しつつ世界平和の祈りを
祈るときにその人は
白光そのものになってゆくのであります
目を
とじて
しずかに
神を呼ぶ
そのときの
心の
楽しさ
私と神
神と私
私と人類
人類と私

ひとつに
つながっていることを
感じる
そのときの
心の
うれしさ
世界人類が平和でありますように

        平成2年2月28日 記

いのちというものに区切りはない

2011-06-17 10:21:20 | 癒し
生きるということ
死ぬということは
どういうことかということを
これから説明しようと
おもうんですが
先ず
いのちというものに
区切りがないと
いうこと
これをしっかり頭に入れておいて
欲しいとおもうんです
これはもう
ずっといってきたことですけれど
死というものが
我々のおわりなんだという
恐れがずっと
業想念になって
この地球世界に渦まいてしまった
ために
たとえば
世の無常ですとか
厭世観というものが
我々の想念の底に
ずっと沈んで
支配してきたわけです
それで
死ねばおわりなんだ
あとは闇なんだ
となった
死というもののこわさは
何かというと
自分という存在が
すっかり消えてしまう
ということに対する
恐さなのです

こんなに
一生懸命やっているのに
それが
あとかたもなく消えてしまう
そういった
無常感ですよね
ところが
生命(いのち)というものは
そんなちゃちなもんじゃない
そう簡単に消えてゆかない
生命というものが
永生であるということと
人は
自分というものを
失わずに
生きてゆく
というのが
原則なんです
死というのは
となりに引っ越すのとかわらないんです
それじゃあ
田中一郎は
むこうに行っても
ずっと
田中一郎で
生きていくのか
というと
そうじゃないんです
田中一郎というのは
この世で
その人を
呼びならわした
いわば
記号なんです
けれど
その人が
この世で
田中一郎として
田中一郎らしく生きた
その生き方 個性というものは
ずっとその人のなかに
入ってゆくんです
そうして進化してゆく
すきとおってゆく
それで
その人が
百生生きたとすると
百色その人らしさが
入るわけです
そして
それを全部
むこうで生かしながら
祈りのなかにかえしてゆくんです

つねに新しくされてゆくんです
生命というものは
こういうものです
我々は
つねに死んで
そして
死んだと同時に
よみがえりを果たしている
というのが本当のすがたなのです
無常というのは
常なし
ということでありますが
それは
ほろびにむかうものではなく
いのち
というものが
神の愛によって
つねに新しくされ
よみがえらされていることを
指すのであります
ですから
無常は
永生にむかって歩いている
人間の真のすがたを
しめしているので
あります
いのちというものが
いかに
生き生きと
働くものであるか
そして
その生命の働きを
たすけささえているものが
神の愛であり
また
守護の神霊の愛である
ということを
私は
はっきりと
知っているのであります
つまり
祈りの光によって
我々は
この生命のすがたを
しらされてゆくのであります
世界人類が平和でありますように
と祈ってゆくときに
我々は無限の感謝の光とともに
無限の愛にとらえられている自分自身を
しるのであります
そのとき
我々は
この世の区切りである
生死を越えて
存在している自分自身を
そして
神を
みることに
なるのであります
       平成2年2月27日 記