2024年1月27日(土)くもりがちだけど晴れ間がありいい日になった。助かります。感謝します。
上野恩賜公園は広い公園だ。明治6年10月19日開園し、140余年となる上野恩賜公園は、日本の都市公園を代表する都立公園になる。538,506.96m² の広さだ。東京ドーム11個分が余裕で入る広さだ。
江戸時代には東叡山寛永寺の境内地で、明治維新後官有地となり大正13年に宮内省を経て東京市に下賜され「恩賜」の名称が付いている。
〇東叡山寛永寺
そこで今回は東叡山寛永寺を見てみたい。ここのホームページにある地図で確認したい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/11/850393361b5263351932022db50efe24.png)
寛永寺は天台宗の別格大本山のお寺。
寛永2(1625)年に、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、慈眼大師(じげんだいし)天海(てんかい)大僧正によって建立された。
後には第四代将軍・德川家綱公の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになった。
幕末の上野戦争、関東大震災や太平洋戦争の様々な被害・困難を乗り越え今に至っている。
寛永寺は2025年に創建400周年になる。
寛永2(1625)年に、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、慈眼大師(じげんだいし)天海(てんかい)大僧正によって建立された。
後には第四代将軍・德川家綱公の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになった。
幕末の上野戦争、関東大震災や太平洋戦争の様々な被害・困難を乗り越え今に至っている。
寛永寺は2025年に創建400周年になる。
この敷地内はどうなっているのだろう?
・根本中堂
元禄十一年(1698)、現上野公園内大噴水の地に建立された根本中堂は、慶応四年(1868)彰義隊の戦争の際に焼失している。
現在の根本中堂は、明治12年に移築し再建されたもの。
御本尊は、伝教大師最澄上人の御自刻とされる薬師瑠璃光如来像(国指定重要文化財)を秘仏としてお祀りしている。
現在の根本中堂は、明治12年に移築し再建されたもの。
御本尊は、伝教大師最澄上人の御自刻とされる薬師瑠璃光如来像(国指定重要文化財)を秘仏としてお祀りしている。
・開山堂
開山堂は、東叡山の開山である慈眼大師(じげんだいし)天海大僧正をお祀りしているお堂です。天海僧正が尊崇(そんすう)していた慈惠大師良源(じえだいしりょうげん)大僧正もお祀りしているところから、一般に両大師と呼ばれ、庶民に信仰されてきた。 現在のお堂は平成5年に再建されたもの。
・清水観音堂
清水観音堂は、京都東山の清水寺を模した舞台造りのお堂で、寛永八年(1631)天海大僧正により建立。また、御本尊も清水寺より恵心僧都(えしんそうず)作の千手観音(せんじゅかんのん)像を迎え秘仏としてお祀りしている。
・不忍池弁天堂
不忍池辯天堂は、天海大僧正が琵琶湖竹生島になぞらえて、寛永年間に不忍池に中之島を築き、その地に建立された。(現在のお堂は昭和33年に再建。)
・上野大仏(パゴダ)
寛永八年(1631)に初建された上野の大仏様は度々罹災(りさい)しながらも都度復興されている。
しかし、関東大震災によりお首が落ち、第二次大戦時には軍の供出令(きょうしゅつれい)により胴体を徴用されて、お顔のみが残されました。
大仏殿の跡地にはパゴダ(仏塔)が建立され、本尊として旧薬師堂本尊の薬師三尊像が祀られています。
”大仏を 埋めて白し 花の雲” 子規
しかし、関東大震災によりお首が落ち、第二次大戦時には軍の供出令(きょうしゅつれい)により胴体を徴用されて、お顔のみが残されました。
大仏殿の跡地にはパゴダ(仏塔)が建立され、本尊として旧薬師堂本尊の薬師三尊像が祀られています。
”大仏を 埋めて白し 花の雲” 子規
・時鐘堂
寛文九年(1669)に設けられたこの鐘は、現在も正午と朝夕6時の計3回、毎日時を告げている。(現在の鐘は天明七年(1787)に改鋳されたもの。)
”花の雲 鐘は上野か 浅草か” 芭蕉
”花の雲 鐘は上野か 浅草か” 芭蕉
・徳川歴代将軍御霊廟
寛永寺の御霊廟には6人の将軍(四代家綱公、五代綱吉公、八代吉宗公、十代家治公、十一代家斉公、十三代家定公)が埋葬されている。
御霊廟は大戦の際にほとんどが焼失してしまい、現在では常憲院殿(五代綱吉公)勅額門と有徳院殿(八代吉宗公)御宝塔、水盤舎が現存している。
御霊廟は大戦の際にほとんどが焼失してしまい、現在では常憲院殿(五代綱吉公)勅額門と有徳院殿(八代吉宗公)御宝塔、水盤舎が現存している。
・旧本坊表門
寛永寺の本坊は、現在の東京国立博物館の地に建立されてましたが、慶応四年の彰義隊の戦争により焼失。現在はその表門だけが残っている。
門には現在でも官軍の攻撃による弾痕(だんこん)が数多く残っている。
門には現在でも官軍の攻撃による弾痕(だんこん)が数多く残っている。
・旧寛永寺五重塔
寛永八年(1631)に初建されたこの塔は、第五層のみが銅板葺(どうばんぶき)で、他は瓦葺(かわらぶき)。高さ36m。
いろいろとたくさん見どころがありますね。