2024年4月22日(月)一日くもり。肌寒いからまだ冬物着てた。
縄文時代にも「言葉」があったから共同作業で住居などをつくることができていると思う。文字はなかっとしても、言葉はあるはずだ。それぞれの地域の土器などが交換されているし、ヒスイや黒曜石も数少ない産地から遠くへ運ばれて交流がみられているから、意思疎通がなされていないとおかしい。
文字については、縄文時代は「木」の文化だから万が一あったとしても残らないだろう。
「人間が意志や感情を伝えるために用いる、音声を中心とする、意味を持った記号。また、その集まり。」これは、新選国語辞典第九版(小学館2018年)の「言葉」のところにある意味です。
1971年・昭和46年の古い岩波国語辞典第二版では「意味を表すため、口で言ったり字に書いたりしたもの。また、それによって述べること。」とある。
縄文時代にはまだ集団の殺し合いは、発掘してきた中ではなかったのではないかとされている。
厳しい自然の中で生きていくために助け合って獲物をしとめたり、小規模な栽培も行っていたと考えられている。「言葉」はこの時代とても大切なものだったと考えられます。
意味を持った「記号」として、中期の頃の土器の模様に女性の出産を表すものや穀物を荒らすネズミを食べる「ヘビ」などを描いている。これらを記号として、土器の模様で意味を理解していた可能性がある。出産と生きていくことが過酷だったから最小限の言葉も意味が深い。
言葉は今も大切なものだ。でも、現在のSNS上でのいい加減な言葉や誹謗中傷さらには詐欺、犯罪などを見ていると、言葉が凶器になっている。現代人が知らず知らずのうちにバーチャルな世界に入り込んで現実世界から隔絶されているようにも思える。
現代の言葉がこんなにも軽くいい加減なものになってしまって、やすやすと情報操作が行われて集団でだまされ、伝えることの重みがなくなっていることはあまりに悲しすぎる。