2021/11/3(水)現代ビジネス配信の記事
"「真の謝罪がない」 韓国内で改めて起きた“日韓関係以外”の謝罪論争”は大変興味深い記事であった。
記事の伝えるところによると韓国では盧泰愚元大統領の光州事件関与について、”進歩系メディア”を中心に「盧泰愚氏は光州市民に直接謝っていない」「真の謝罪をしていない」という主張があるとのこと。また、 盧泰愚元大統領の闘病中、親族が代わりに何度も光州市民に謝罪をしていたとのこと。さらに息子を通じて『過ちに対して深い容赦を望む』という遺言を残したとのこと。それにも関わらず、国家葬の中で葬儀委員長の金富謙首相が弔辞で光州事件への関与について批判を行ったとのことだ。
日本人は生前の行為に間違いがあっても、基本的には死んだ後はその行為についてあまり責めることはしない。ましては弔辞で批判を行うことは無いだろう。歴史上の行為として評価を受けることはあるだろうけれども。
韓国では国家の葬儀の弔辞にてそれなりの立場の人が故人へ批判をすることがあるのだと正直言ってたいへん驚いてしまった。
記事はこのようなことが起こる理由として、日韓関係に詳しい韓国の大学教授の言葉を引用して「盧泰愚に対する謝罪の要求と、日本に対する謝罪の要求は基本的に同質の問題だ」。「韓国の近代史は、日本による統治時代や朝鮮戦争、軍事独裁政権など、市民にとって不合理と思える時代の連続だった。これに対する記憶がまだ残っているため、様々な局面で不満が爆発してしまう」そして「真の謝罪」とは、こうした不満の爆発を表現したものなのだ。という説明を行っている。
これらの言葉の前半部分は納得できる。後半部分については少し別なことを考えた。勿論、この後半部分の説明はある程度真実ではあるとは思うが、それとは別に”韓国では根本的に謝罪というものは決して受け入れられないのではないか”という疑問を持ってしまったのだ。
いわゆる「従軍慰安婦」問題について、幾度も日本より謝罪が来る返されている。私が数えただけでも9回以上に上る。それでも「真の謝罪」がされていないと謝罪要求が繰り返されていることはよく知られている。そのことと今回の盧泰愚元大統領が謝罪を繰り返しても、その国家葬の弔辞で批判されることを考え合わせれば”韓国では根本的に謝罪というものは受け入れられないのではないか”という疑問を持つことは正当なものであるように思われるがどうだろうか?
これまで”今の韓国は日本の謝罪を受け入れる準備が出来ていない”と考えてきた。これにはいつかは日本の謝罪を受け入れる日が来るのでは?との含みもあった。それには最低でも100年、長ければ300年以上はかかるだろうとは考えてはいたが。しかし、今回の記事を読んで変わった。韓国では謝罪は受け入れられることは無いと考えるべきではないのだろうか?
いわゆる「徴用工」問題で三菱重工を訴えて勝訴している弁護士が「とりあえず謝ってほしい」と言っているとのニュースも別にあった。三菱重工は現在これを無視している。
素朴な疑問だが、「従軍慰安婦」のこれまでの経緯や今回の盧泰愚元大統領の件を考え合わせれば、その弁護士・韓国政府・韓国国民・韓国マスコミは”日本人だってパターン認識はする。「徴用工」問題で仮に謝ったとしても、また後に「真の謝罪」がされていないと謝罪要求が繰り返されるのはないかと三菱重工は思うのではないか?”と考えないのだろうか?
そう考えてはいるけれど、口にできないだけか?
(この記事は”平成天皇”という言葉を使用している。日本の伝統では今時点で”平成天皇”という言葉は使用しないのではないだろうか?)