あべっちの思いをこめた雑記帳

大洗海岸と、私とのこと

 生まれて初めて旅館というものに泊まったのは、小学5年生の時であった。泊数も宿名も覚えてないが、その年の夏に学校で希望者のみ募って、茨城県の大洗海岸に臨海学校として宿泊した。
 それから何回かこの地に宿泊したが、私にとって忘れられない出来事が大洗にはある。思い出というよりも、それは出来事と呼んだほうがいいと思う。

 大手ホテルの紫波方さん(仮名)と、明日にお願いしている団体の最終打ち合わせを電話でしている時。
 「あれ、地震だ」と彼女の声。東京にいる私もその時同じように感じた。そして、通話はそのまま途切れた。折り返しかけ直しても通じない。何度もダイヤルしているうちに、やっと彼女の応答があった。
 「あの~、今水がフロントの近くまで来はじめたので・・・、まもなく足元に」と言うと、それっきり電話は通じなくなった。
 時に平成23年3月11日である。

 それから間もなくして、会社のテレビ速報で重大な大地震で、陸中海岸あたりは壊滅状態であることを知った。それに福島県や茨城県海岸部にも被害が及んでいるという。
 それを知って大洗のホテル宿泊の件などで、明日の社員旅行を予定しているその某会社へ何回かダイヤルし、やっとつながる。
 「うちの◯◯工場のタンクが燃えていて、爆発するかもしれないんですよ」との応答。
 電話はその本社とも、大洗の予定したホテルとも、それっきり連絡が取れなくなった。
 それからの夜の長かったこと。
 さまざまな所への電話処理も、思うようにはかどらない。結局事務所で夜を明かし、帰宅したのは翌土曜日の昼過ぎであった。
 あの時ほど旅の計画等に真剣になったことはかつて類がない。
 旅行を予定していたその本社にも、宿泊予定のホテルにも月曜日には連絡したが、皆さん生命には異常がなかったと聞いて安心した。

 ホテルで予約担当をされている紫波方さんとは、その後いつものように電話打ち合わせが続いたが、あの魔の日の、その時の行動はとうとう聞かずじまいであった。ホテルの一階は海水で全滅し、しばらく休業せざるを得なかったことも、ほんの正面だけの話に終わらせてしまった。

 その後は磯前神社やホテル付近を通るたび、小学5年生の時と、東日本大震災のあの時を思う。そして紫波方さんのことを思う。
 大震災の1ヶ月後の4月下旬になって、ホテルを訪ねて行った時には、生憎本人は休みの日であった。それ以来ご無沙汰しているが、電話をしている最中に海水が足元近くまで押し寄せて来たことを想像するだけで、彼女のあの時の落ち着いた態度に頭が下がる思いである。
 那珂湊やひたち海浜公園には毎年3~4度は訪ねているが、そのたびにこの大洗の地を通り、あの時の大震災の怖さを実感しながら、もう二度と起こってほしくないと念じている。今年はコロナの関係で、春に訪ねたきりなのは淋しいが。

 旅の楽しさを演出するホテルの陰には、このような真のスタッフがたくさんいることを今さらのようにありがたく思う。
 旅行という仕事を通じ、多くの責任ある人たちと知り合い、さまざまなことを教えていただき、ただ感謝するのみである。
 観光業に40数年もの間勤務できたことを幸せに思う。

                 「心に残る旅(43)大洗海岸と、私とのこと」

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